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『晋書』列伝3、建国の功臣 2)何曾、何劭、何遵、何綏
栄枯盛衰がコンパクトで素敵な、何氏です。

何曾
あざなは穎考、陳國陽夏の人。父の何夔は、魏の太僕。
曹叡の文学となった。曹叡が即位すると何曾は、前漢の宣帝の例を引き、農業振興の重要について進言した。
司馬懿が公孫淵を討つとき、何曾は曹叡に上疏した。
「司馬懿さまに、副官をつけて下さい。歴史の成功例では、必ず優れた副官が付いています」
曹叡は聞き入れなかった。
この上疏の目的は何だろう。何曾は司馬懿の勝敗を心配したのか。それなら、具体的な人名をあげて推薦するのが親切だ。候補者を挙げなかったのは、何曾自身が司馬懿の副官になりたかったからか。のちの司馬氏との接近は、それを思わせる。

曹爽が政権を握ると、司馬懿は病気だと言って引っ込んだ。何曾も司馬懿に足並みをそろえて、「病気」になった。
曹爽を誅したあと、曹芳を皇帝から降ろす謀議を何曾が預かった。司馬氏と密着し始めた。

歩兵校尉の阮籍は、才能を誇って、好き勝手に振舞った。阮籍は喪中に酒肉を食らうというタブーを犯した。何曾は、司馬昭に言った。
「阮籍をクビにすべきです。彼は中華の風俗を乱すから、辺境に飛ばして下さい」
司馬昭は、阮籍をかばった。
「阮籍は喪中だが、体力が衰えたから肉を食べたんだ。酌量してやれないものか」
だが何曾は、故事を豊かに引用して、阮籍を責めた。司馬昭は阮籍を追放しなかったが、人々は何曾を敬い憚った。
なんか不自然なエピソードです。
「司馬昭は阮籍を救ったから、慈悲深い人だ。何曾は賢くて怖い人だが、その何曾を従えている司馬昭は、もっと度量が大きいぞ」
こう宣伝するために、何曾が打った狂言ではないか。

255年、毌丘倹が寿春で謀反した。 毌丘倹の妻は、荀氏だった。夫が反逆者なら、妻は連座するのが当たり前である。
だが荀勖(荀彧の子)は、族妹を助けたいと思った。司馬師も荀氏と縁続きだから、やはり荀氏を助けたいと思った。何曾は、荀顗と司馬師の意を汲んで、荀氏が助かるような法令を作った。
司馬炎が晋王になると、何曾は丞相になった。大尉、司徒、太傅を務めた。 278年に何曾は死んだ。80歳だった。

何曾は威儀についてうるさく、子の何劭の服装を注意したし、老いた妻と客人のように付き合った。
だが度を越えた贅沢をして、食費は1日に万銭かかった。一見すると矛盾する何曾の本性は、「ヒトに厳しく、自分に甘く」だ。なまじっか頭脳が働くせいで、軟弱な地盤の上に高層ビルを築いてしまった感がある。

何劭
何劭は、何曾の子。あざなは敬祖。
司馬炎と同い年で、仲が良かった。
ルックスが素晴らしかったので、遠方から朝貢があるときは、何劭を立たせた。チビの曹操が、代理に崔林を立てたのと似ている。何劭は出演料として、朝貢の献上品をもらった。
275年ごろ、何劭と兄の何遵は、
「もと鬲県令の袁毅から、賄賂を受け取っている」
と有司に弾劾された。
何氏の兄弟は、廷尉(宮廷の警察)に引き渡された。
司馬炎は詔して、何氏を弁護した。
「何曾と袁毅の家は、何世代も付き合いがある。いま何劭と何遵が受け取ったのは、これまで両家が交換し合っていたプレゼントと大差がない。だから賄賂ではない」
何劭は皇帝を友達だから、罰せられないのだ。

何劭は博学で、近代(秦漢以降)については、手のひらを指差すように精通した。
300年に司徒になり、司馬倫は何劭を太宰にした。三王(司馬冏、司馬頴、司馬顒)が争っても、何劭は三王の間を自由に行き来したから、どこからも怨まれなかった。
父譲りの贅沢な暮らしをして、何劭の食費は1日2万銭を上限とした。何曾の2倍である。

同郷の王詮は、何劭についてコメントした。
「何劭は、器量のわりに官位が高すぎる。若いときの彼について、記録すべき事績はない。ただ夏侯駿(夏侯淵の孫、夏侯威の子)と、博士に諌授したことが伝記に載るだけだ」
何劭は、荀粲伝や王弼伝や奏議・文章をいじくって、301年に死んだ。子の何岐が継いだ。

何劭を弔いに、袁粲がやってきた。前に何劭へ賄賂を渡してきた袁毅の縁者だろう。
「(喪主の)何岐に会わせてくれ」
袁粲が願ったが、何岐は拒んだ。袁粲は顔に泥を塗られたから、ひとりで泣いて言った。
「オレは中正だから、人事権があるんだぞ。何岐の評価を下げて、出世できないようにしてやる
それを見た同郷の王詮は、袁粲に言った。
「どうしてキミは、死者(親の何劭)を弔いに来たのに、生者(子の何岐)に会うことに拘るか。何岐はこれまで罪が多いのに、キミは何岐の評価を下げなかった。だがキミは、親の何劭が死んだ途端に、何岐の評価を下げるという。強きを畏れ、弱きを侮る人事係だと言われるぞ」
「うぐぅ、、」
袁粲は、何岐の評価を変えなかった。

2回も登場した同郷人の王詮。いい味を出してますが、正体不明。
「何劭は列伝に載せられる仕事がない」と言いつつ、『晋書』にこうして何劭伝が成立してしまっているから、彼の予想は外れました(笑)

何遵
あざなを思祖といい、何劭の側腹の兄。
皇帝にしか許されていない道具を作って用い、器物を販売した。司隸の劉毅に弾劾されて、免官された。280年代、家で死んだ。
何嵩・何綏・何機・何羨の四子があった。

何綏
あざなは伯蔚で、何遵の次男。侍中尚書になった。
城陽郡の王尼は、
「乱世なのに、何綏は驕り高ぶった生活をし、文書にも性格が表れています。見逃していいでしょうか」
と怒った。
劉輿と潘滔はこれを聞き、東海王の司馬越に告げ口した。司馬越は、いい口実を得たと思い、何綏を殺した。

かつて何曾は、司馬炎の宴を退席してから、子の何遵らに言った。
「晋朝の人たちは、天下国家のことを話題にせず、日常トークをダベッているだけだ。天命を受けた自覚がないのは、滅亡の兆しだ。私の代は平和だが、子の代は危ないかも知れない。そして、」
何曾は、孫たちを指差した。
「孫の代には、絶対に乱亡に遭うぞ」
何綏は、何曾の孫の代である。何綏が司馬越に殺されると、何綏の兄の何嵩は泣いた。
「私の祖父は、大聖だった。こうなることをご存知だった」
何氏の一族は、みな驕った。永嘉末(313年)に、何氏は全滅した。
既成の権力にパラサイトして、自制心なく驕る。西晋の風潮を象徴するような一族でした。
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このコンテンツの目次
『晋書』列伝3、建国の功臣
1)王祥、王覽、鄭沖
2)何曾、何劭、何遵、何綏
3)石苞、石喬、石超
4)石崇、歐陽建、孫鑠