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『晋書』列伝3、建国の功臣 3)石苞、石喬、石超
石苞
あざなは仲容、渤海南皮の人。石苞は「容儀偉麗」だった。
小県に仕えた後、司馬師の中護軍司馬になった。
司馬懿は、
「石苞は好色で、行動が軽薄らしい。私の下には欲しくない」
と低い評価をしたから、司馬師に石苞を譲り渡したのだ。
司馬師は反論した。
「石苞は行動はチャラいですが、經國才略があります。斉の桓公は管仲の奢僭に目をつぶりました。漢の高祖は、陳平の汙行に目をつぶりました。石苞に管仲や陳平の働きを期待して、私が用います」

司馬師は、東関で諸葛恪に敗れた。石苞だけは被害ゼロで退却した。
司馬師は、持節を指差して言った。
「石苞に持節を与えて、全軍を任せなかったことを後悔している」
石苞は、奮武將軍、假節、監青州諸軍事となった。
諸葛誕が淮南で挙兵すると、石苞は青州軍を統率した。石苞は、兗州刺史の州泰、徐州刺史の胡質を督した。
諸葛誕は、孫呉の硃異や丁奉らの援軍を得た。
諸葛誕は、輜重を都陸(地名)に留め、身軽になった兵に黎水を渡らせた。石苞はこれを迎撃し、大いに破った。泰山太守の胡烈は、裏をかいて都陸の輜重を焼き払った。孫呉の援軍は、残りの兵を集めて撤退した。諸葛誕は平定された。
このころ代王の司馬基が、都督揚州諸軍事となった。石苞は洛陽に戻った。
石苞は曹髦に仕えて、話し相手になった。
石苞は、司馬昭に言った。
「曹髦は、非常の主です」
非常、つまり常になく優れた君主ですと、石苞は司馬昭に警戒を促した。司馬昭が曹髦を殺すと、石苞は征東大將軍となり、驃騎將軍に遷った。
司馬昭が死んだ。石苞が言った。
「司馬昭さまの帝業は、ほぼ完成でした。それなのに、(皇帝にならず)人臣として一生を終えられるとは!
魏晋革命に力を尽くしたから、石苞は大司馬に遷り、樂陵郡公に進み、侍中、羽葆鼓吹を加えられた。

諸葛亮の北伐が終わってから、ずっと石苞は淮南を守って孫呉に備えた。淮北監軍の王琛は、石苞の出自が賤しいことから、内心ではバカにしていた。王琛は密かに、
「石苞は、孫呉と内通しています」
と上表した。ちょうど、
「東南で大兵が起こる『気』が立っています」
という予言があったから、司馬炎は石苞の謀反を疑った。淮南の三叛と同じパタンを、石苞がやりかねないと思ったのだ。司馬懿は王淩、司馬師は毌丘倹、司馬昭は諸葛誕。この法則に従えば、「司馬炎は石苞」となっても変ではない。
たまたま荊州刺史の胡烈から、
「孫呉が大兵力で侵攻しようとします」
という上表があった。
このとき石苞も、揚州を孫呉が攻めると聞いた。石苞は孫呉を防ぐため、防塁を築き、川水を塞いだ。
司馬炎は、羊祜に聞いた。
「孫呉のいつものパタンだと、荊州と揚州から同時に攻め上がる。石苞が寿春城を固めたからと言って、晋に背くとは限らないんじゃないか」
羊祜は答えた。
「司馬炎さまのお察しのとおりです」
とは言うものの、司馬炎の疑念はなくならなかった。
このころ石苞の子である石喬が、尚書郎として召された。だが石喬は、なかなか洛陽に来なかった。
「石苞は、子を人質に取られるのを避けた。石苞は必ず謀反する
そう確信した司馬炎は、詔を下した。
「石苞は、晋に背くために寿春城を固めている。石苞の官位を免じろ。司馬望と司馬伷は、石苞の叛乱に備えて、兵を動かせ。石苞は兵を手放して、都亭で判決を待て」
石苞は、詔の意味を理解した。石苞は出頭して、自宅に還された。石苞は、寿春の守備をクビになったことを恥じたが、怨みの色は見せなかった。
司馬炎は、石苞の才能を愛したから、
「石苞を司徒とする」
と詔をだした。これに対して、
「石苞は叛乱の疑いがあった男です。司徒には相応しくありません。自宅に還しただけで、充分に温情だったのです」
と有司が反対した。司馬炎は反論した。
「後漢の光武帝のとき、鄧禹が関中で敵対したことがあった。だが鄧禹は、最期まで漢室を輔けた。なぜ1つの落ち度で、大徳の人物を無用にしてしまうのだ」
石苞は司徒になり、司馬炎は石苞を信頼した。
石苞は272年に死んだ。「武」とおくり名された。石苞には6人の子があった。越、喬、統、浚、俊、崇。石統が嗣ぎ、射聲校尉、大鴻臚となった。石統の子は石順で、尚書郎となった。

石喬
石苞の次男で、あざなを弘祖という。
石喬が尚書郎になったとき、洛陽に行かなかったから、父の石苞への謀反疑惑が強まった。石苞は洛陽に復命すると、慚色を浮かべ、
「石喬を、わが一族の籍から外さないことがありましょうや」
と言い、石喬を除名した。石喬は生涯、親籍に戻されることはなかった。石喬は頓丘に移され、弟の石崇と同じときに殺害された。
石喬には2子があった。石超と、石熙である。

石超
石超は父の石喬が殺されたとき、逃亡して助かった。
司馬頴が起義したとき、石超を折沖將軍にして、孫秀を討たせた。また石超は振武將軍となり、荊州の賊の李辰を討った。
司馬頴が司馬乂と交戦すると、石超はいつも前鋒を引き受けたから、中護軍に遷った。
石超の主君たる司馬頴は、鄴を根拠地とした。司馬倫らは恵帝を擁して、鄴に北伐をかけた。石超は鄴に急いで還った。
「恵帝を迎え撃ち、鄴を守れ」
と司馬頴に命じられたから、石超は蕩陰ノ戦で勝利を収めた。石超は、敗れた恵帝に迫った。
「陛下、これからは鄴宮に滞在されますよう」
司馬頴は、石超の活躍により、恵帝を手に入れた。
幽州の王浚が、鄴に南征した。
「石超を右将軍とするから、王浚を防げ」
司馬頴は、石超に頼りきりである。
だが石超は、王浚に大敗して帰った。司馬頴は、恵帝を鄴に保てなくなった。石超は恵帝に従って洛陽に戻り、さらに長安に遷った。
長安を拠点とするのは、司馬顒。司馬顒は石超に、北中郎將を領ねさせ、司馬倫を防がせた。石超は、滎陽で募兵した。結果、右將軍の王闡と、典兵中郎の趙則が、石超の味方になった。石超は新しい味方とともに、豫州刺史の劉喬を繼援した。
范陽王の司馬虓は、石超を迎え撃った。石超は、司馬虓に斬られた。司馬頴の矛として、戦場に一生を捧げた人だった。
石超の弟の石熙は逃げることができ、永嘉中に太傅越參軍となった。父を見捨て、兄を見捨てた、ろくでもない弟である。
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このコンテンツの目次
『晋書』列伝3、建国の功臣
1)王祥、王覽、鄭沖
2)何曾、何劭、何遵、何綏
3)石苞、石喬、石超
4)石崇、歐陽建、孫鑠