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『晋書』列伝3、建国の功臣 4)石崇、歐陽建、孫鑠
石崇
石崇は、あざなを季倫という。
青州で生まれたから、小名を「斉奴」といった。
父の石苞が死に際に、財産を子供たちに分けた。だが、石崇だけは一銭ももらえなかった。
「なぜですか」
と母が聞くと、石苞は言った。
「この子は幼いが、のちに自力で財産を築けるのだ」
この石苞の予言は、極端なかたちで実現する。。

兄の石統が、扶風王の司馬駿に逆らった。このページ下の「孫鑠伝」で出てくるが、司馬駿は父の石苞を救った人である。
「石統に重罰を加えるべきだ」
と有司は上奏したが、石統は赦免された。だが今度は、
「弟の石崇は、兄が許されたのに、謝恩して参内することもない。無礼だから、やっぱり石統に罪を加えるべきだ」
ということになった。
石崇は、自分たち兄弟の不手際を詫びた。また赦されて、石崇は散騎常侍、侍中となった。

武帝は、石崇が功臣(石苞)の子だから、寵用した。
次の恵帝のとき、外戚の楊駿が輔政して、封賞を仲間内にバラまいて徒党を形成した。石崇は、散騎郎で蜀郡出身の何攀とともに、恵帝に意見を提出した。
「いま、晋朝が建国されたときよりも、孫呉を滅ぼして統一したときよりも、恩賞と爵位がインフレして下賜されています。このまま数世代たてば、全員が公侯の貴族になります。古い制度に戻して、爵位のバブルを沈静なさいませ」
石崇と何攀の意見は、却下された。さらに、
南中郎將、荊州刺史となり、南蠻校尉を領ねよ。鷹揚將軍を加える」
と、石崇は楊駿政権から厄介払いされた。

石崇は南中にいるとき、鴆鳥のヒナを捕まえて、後軍將軍の王愷にプレゼントした。おおかた、珍品を見せびらかしたかったんだ(笑)
鴆鳥は毒が採れるからか、長江以北に持ち込むことは禁じられていた。司隸校尉の傅祗は、石崇を糾弾した。だが石崇は赦された。 鴆鳥は、都街で焼き殺された。

石崇は節度がなく、商人を脅して金を獲ったり、河陽の金谷に豪華な別宅を建てたり、徐州刺史の高誕と酒を取り合ったりした。別宅の様子は『世説新語』に詳しい描写がある。
潘岳とともに賈謐にへつらい、「二十四友」に含まれた。
石崇は、王愷と贅沢合戦をやった。王愷が珊瑚樹を自慢すると、石崇はこれを叩き壊した。憤慨した王愷に、石崇はもっと大きな珊瑚樹をくれてやった。王愷は自失した。
石崇は以下の3つのことで、王愷をやり込めた。王愷が訪問すると、調理に時間のかかるはずの豆粥を、すぐに出した。毎冬、韮蓱韲を食べさせた。牛車で入洛レースをやり、いつも王愷に勝った。
王愷は、石崇に負けてばかりで怨んでいたから、石崇の召使を買収した。石崇は、調理法やスピードの秘密をバラした召使を殺した。

劉輿の兄弟は、石崇と仲が良かったが、王愷とは仲が悪かった。
「劉輿くん、うちに泊まらないか」
王愷は兄弟を招いて、生き埋めにした。劉輿兄弟がヤバいと聞いて、石崇が駆けつけた。石崇は王愷に迫り、兄弟を埋めた場所を白状させた。石崇は、兄弟を叱った。
「若い者が、軽々しく人の家に泊まるな」
劉輿たちは反省して、石崇に感謝した。家に泊まる=殺される、とは酷い社会風潮である(笑)

賈謐が誅されると、一派として石崇は免官された。
司馬倫の懐刀は、孫秀である。孫秀は、石崇が連れている「綠珠」という妓女を欲しがった。石崇と孫秀は対立した。
「司馬倫と孫秀を倒しましょう」 石崇は黃門郎の潘岳とともに、ひそかに淮南王允、齊王冏を味方にした。だがこれが孫秀に知られた。
石崇は捕われてから、嘆いた。
「私の蓄えた財産は、敵の孫秀を潤すのか・・・」
護送官が答えた。
「財産が害をなすものです。なぜもっと早く、手放さなかったのですか」
石崇は答えることが出来なかった。
石崇の母・兄・妻・子は、老いも若きも殺害され、死者は15人。石崇は52歳だった。
司馬倫と孫秀が討たれ、恵帝が復位した。石崇は九卿の様式で弔われた。石崇の從孫である石演が継ぎ、樂陵公となった。

石朴
石苞の曾孫は石朴で、あざなを玄真という。人となりは謹厚だが、他に才能も芸もなく、胡地で死んだ。
はじめ石勒は河北に出たとき、石朴が同姓だから、皇族として扱った。石朴は石勒に優遇してもらい、司徒になった。
歐陽建
あざなを堅石といい、冀州の名族である。石崇の甥で、同じく孫秀に殺されたから、こんなところに列伝が立っている。
雅量により、北方で名声をほしいままにした。ときの人は、歐陽建について言った。
「渤海の赫赫たるは、歐陽堅石なり」
と。無理に訳せば、「渤海の地で輝いているのは、歐陽堅石という宝石だ」となる。あざなが「石」で終わるから、それを洒落たか。
三公府に召され、山陽令、尚書郎、馮翊太守を歴任して、誉れを得た。三十余歳で殺された。死に際に詩をつくり、文はとても哀楚だった。

孫鑠
あざなを巨鄴といい、河内郡懷県の人。石苞の謀反疑惑のとき、暴発を未然に防いだから、こんなところに列伝がある。もし孫鑠の計がなければ、石苞は謀反したかも知れない。石苞に二心がなくても、「罪を認めたら死」という状況に追い込まれたら、万が一に生き残る可能性に賭けて、石苞は挙兵しただろう。
さて、話を戻します。
孫鑠は、若くして県吏となり、太守の胡奮の主簿(会計係)になった。
孫鑠は血筋が賤しかったから、名族の同僚たちは、孫鑠に同座を与えなかった。胡奮は大いに怒り、孫鑠を推薦して、司隸都官の從事にした。司隸校尉の劉訥は、孫鑠をとても評価した。
ときの胡奮は、大司馬の石苞にも、孫鑠を推薦した。石苞は、孫鑠を掾とした。
孫鑠が石苞のところに行こうとして、許昌に着いた。許昌では、ひそかに軽軍を率いて石苞を襲う準備をしていた。
このとき汝陰王(司馬駿)が、許昌に出鎮していた。孫鑠は、汝陰王と会った。汝陰王は、孫鑠のことを知っていた。同里のよしみで(皇族の司馬氏も河内郡出身)、孫鑠に耳打ちした。
「禍を與う無し」
つまり、軍勢を終結させているがポーズだけで、石苞をマジに打ち破る気はないのだよ、と伝えた。
孫鑠はすぐに許昌を出て、寿春まで馳せた。孫鑠は、
「寿春を出ても、殺されることはありません」
と石苞に教えた。石苞は孫鑠を頼って、寿春を出た。
孫鑠は尚書郎に遷った。尚書郎に在職のとき、駁議は十有餘事を提出した。同時代の人に称えられた。
列伝3を読み終えて思いますが、西晋には「皇帝の右腕」という人物がいなかったんですね。集団戦は、傍目には面白くない。
劉邦なら張良、曹操なら荀彧、劉備なら諸葛亮、孫権なら陸遜。こういう分かりやすさがないと、流行らないんだろうなあ。090504
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このコンテンツの目次
『晋書』列伝3、建国の功臣
1)王祥、王覽、鄭沖
2)何曾、何劭、何遵、何綏
3)石苞、石喬、石超
4)石崇、歐陽建、孫鑠