表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

215年春夏、涼州の足止め、単刀会

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

215年春夏、曹操が張魯を攻めにゆく

春,正月,甲子,立貴人曹氏為皇後;魏公操之女也。

215年春正月甲子、曹操の娘が、献帝の皇后になった。

三月,魏公操自將擊張魯, 將自武都入氐,氐人塞道,遣張郃、硃靈等攻破之。
夏,四月,操自陳倉出散關至河池, 氐王竇茂眾萬餘人恃險不服,五月,攻屠之。四平、金城諸將□演、蔣石等共斬送韓遂 首。

215年3月、みずから曹操は張魯を撃った。武都から氐に入った。氐族が、道を塞いだ。張郃と朱霊が、氐族をやぶった。
夏4月、曹操は陳倉から散関に出て、河池にきた。氐王の竇茂が、1万余人は、地形をたより、曹操に服さない。
5月、氐王の竇茂をほふった。四平や金城の諸将・麹演や蔣石が、韓遂の首級を、曹操にとどけた。

かけ足で、月が変わった。きっと移動に、時間をとられている。


魯粛と劉備の荊州:単刀会は成都を得たあと

初,劉備在荊州,周瑜、甘寧等數勸孫權取蜀。權遣使謂備曰:「劉璋不武,不能 自守,若使曹操得蜀,則荊州危矣。今欲先攻取璋,次取張魯,一統南方,雖有十操, 無所憂也。」備報曰:「益州民富地險,劉璋雖弱,足以自守。今暴師於蜀、漢,轉運 於萬裡,欲使戰克攻取,舉不失利,此孫、吳所難也。議者見曹操失利於赤壁,謂其力 屈,無復遠念。今操三分天下已有其二,將欲飲馬於滄海,觀兵於吳會,何肯守此坐須 老乎!而同盟無故自相攻伐,借樞於操,使敵承其隙,非長計也。且備與璋托為宗室, 冀憑英靈以匡漢朝。今璋得罪於左右,備獨悚懼,非所敢聞,願加寬貸。」

はじめ荊州が劉備にいるとき。周瑜と甘寧は、しばしば孫権に、蜀を取ろうと勧めた。孫権は劉備に、使者を立てえて云った。
「劉璋はよわい。もし曹操が益州を得れば、あなたの荊州も危うい。さきに劉璋を攻め、つぎに張魯を取りましょう。南方をひとつの統べれば、いくら曹操がきても、恐くない」

「一統南方,雖有十操, 無所憂也。」は、数字の修辞か。

劉備は、孫権に答えた。
「益州は、地形が険しい。劉璋が弱くても、攻略はむずかしい。曹操は赤壁で負けて、揚州を攻める気力がない。だがもし、劉璋と戦闘を始めたら、曹操がやる気を取り戻し、つけこんでくる。劉璋は宗室だ。攻めてはいけない」

權不聽,遣 孫瑜率水軍往夏口。備不聽軍過,謂瑜曰:「汝欲取蜀,吾當被發入山,不失信於天下 也。」使關羽屯江陵,張飛屯秭歸,諸葛亮據南郡,備自住孱陵,權不得已召瑜還。及 備西攻劉璋,權曰:「猾虜,乃敢挾詐如此!」

孫権は、劉備を却下した。孫瑜に水軍をあたえ、夏口にいかせた。劉備は、孫瑜の軍が、通るのを許さない。劉備は、孫瑜に云った。
「もし孫瑜が蜀を攻めるなら、私は蜀攻めに協力せず、山にこもろう。天下から、信義を失わないように」

ここにある「瑜」は、すべて孫瑜でいいはず。周瑜でなく。

関羽を江陵に、張飛を秭歸に、諸葛亮を南郡においた。劉備は、夷陵にいた。孫権は、やむをえず孫瑜をもどした。劉備が劉璋を攻めたとき、孫権は「だましやがったな」と云った。

備留關羽守江陵,魯肅與羽鄰界;羽數 生疑貳,肅常以歡好撫之。及備已得益州,權令中司馬諸葛瑾以備求荊州諸郡。備不許, 曰:「吾方圖涼州,涼州定,乃盡以荊州相與耳。」權曰:「此假而不反,乃欲以虛辭 引歲也。」遂置長沙、零陵、桂陽三郡長吏。關羽盡逐之。權大怒,遣呂蒙督兵二萬以 取三郡。蒙移書長沙、桂陽,皆望風歸服,惟零陵太守郝普城守不降。劉備聞之,自蜀 親至公安,遣關羽爭三郡。孫權進住陸口,為諸軍節度;使魯肅將萬人屯曾陽以拒羽; 飛書召呂蒙,使捨零陵急還助肅。

劉備は関羽を、江陵においた。魯粛は、関羽と境界を接した。関羽は、しばしば約束を破ろうとした。魯粛はつねに、関羽をなだめた。

関羽に生じた「疑貳」とは、どんなか。気になる表現。

すでに劉備が、益州を得た。孫権は、中司馬の諸葛瑾をゆかせ、劉備に荊州の諸郡を求めた。劉備は許さず、諸葛瑾に云った。
私が涼州を平定したら、すべて荊州を孫権に与える」
孫権はウソだと考えた。孫権は、長沙、零陵、桂陽に、長吏を置いた。関羽は、すべて追いはらった。孫権は怒り、呂蒙に2万をあたえ、3郡を取らせた。零陵太守の郝普だけが、呂蒙に降らない。
劉備は、蜀から公安に出てきた。関羽に3郡を争わせた。孫権は、陸口に出てきた。魯粛に1万人をあたえ、曾陽で関羽を防がせた。孫権は呂蒙に手紙を書き、零陵をあきらめて、魯粛をたすけろと命じた。

単刀会は、劉備が成都を手に入れたあとでした。今回、『資治通鑑』を訳し始めたのは、この流れを理解するためだった。目的が、果たされてしまった。笑


蒙得書,秘之,夜,召諸將授以方略;晨,當攻零陵, 顧謂郝普故人南陽鄧玄之曰:「郝子太聞世間有忠義事,亦欲為之,而不知時也。今左 將軍在漢中為夏侯淵所圍;關羽在南郡,至尊身自臨之。彼方首尾倒縣,救死不給,豈 有餘力復營此哉!今吾計力度慮而以攻此,曾不移日而城必破,城破之後,身死,何益 於事,而令百歲老母戴白受誅,豈不痛哉!度此家不得外問,謂援可恃,故至於此耳。 君可見之,為陳禍福。」玄之見普,具宣蒙意,普懼而出降。蒙迎,執其手與俱下船, 語畢,出書示之,因拊手大笑。普見書,知備在公安而羽在益陽,慚恨入地。蒙留孫河, 委以後事,即日引軍赴益陽。

呂蒙は、孫権の手紙を、秘密にした。呂蒙は、郝普と旧知である、南陽の鄧玄をおくって、郝普を説得させた。
「劉備は、漢中で夏侯淵に囲まれた。関羽は、孫権と対峙して、動けない。郝普だけが零陵を死守しても、仕方ない」
郝普は呂蒙にだまされた。呂蒙は、零陵を陥とした。

情報の少なさを、物語るエピソード。後世人のぼくですら、このあたり、前後関係や情勢が、よく分からない。笑

呂蒙は、零陵郡を孫河に任せた。その日のうちに、呂蒙は魯粛のいる益陽にむかった。

魯肅欲與關羽會語,諸將疑恐有變,議不可往。肅曰:「今日之事,宜相開譬。劉 備負國,是非未決,羽亦何敢重欲干命!」乃邀羽相見,各駐兵馬百步上,但諸將軍單 刀俱會。肅因責數羽以不返三郡,羽曰:「烏林之役,左將軍身在行間,戮力破敵,豈 得徒勞,無一塊土,而足下來欲收地邪!」肅曰:「不然。始與豫州覲於長阪,豫州之 眾不當一校,計窮慮極,志勢摧弱,圖欲遠竄,望不及此。主上矜愍豫州之身無有處所, 不愛土地士民之力,使有所庇廕以濟其患;而豫州私獨飾情,愆德墮好。今已藉手於西 州矣,又欲翦並荊州之土,斯蓋凡夫所不忍行,而況整領人物之主乎!」羽無以答。

魯粛は、ひとりで関羽と話し合った。魯粛は、関羽を論破した。

このページ内でも、魯粛伝や関羽伝で、すでにやったので、細かく訳しません。


會 聞魏公操將攻漢中,劉備懼失益州,使使求和於權。權令諸葛瑾報命,更尋盟好。遂分 荊州,以湘水為界;長沙、江夏、桂陽以東屬權,南郡、零陵、武陵以西屬備。諸葛瑾 每奉使至蜀,與其弟亮但公會相見,退無私面。

たまたま劉備は、曹操が漢中を今にも攻めそうだと聞いた。劉備は、益州を失うことを懼れた。孫権に和睦の使者を送った。孫権は、諸葛瑾をおくり、劉備と和睦した。

諸葛瑾は、魯粛と同じく、孫権を個人的に助けている人。孫権の独立のため、働いている人。そのうち、列伝、やりたい。

荊州を、湘水を境にして分けた。長沙、江夏、桂陽より東は、孫権に。南郡、零陵、武陵より西は、劉備に。
諸葛瑾は、いつも劉備への使者になった。だが弟の諸葛亮とは、公式の場では会っても、私には会わなかった。

小休止:涼州が曹操を足止めする件

『資治通鑑』215年前半では、曹操の漢中攻めと、荊州問題の解決が、セットになってた。
曹操が張魯を攻めると云えば、必然的に、涼州あたりの勢力とぶつかる。漢族と胡族にかかわらず。曹操の進軍は、遅れる。この隙に、劉備や孫権がジワジワ勢力を拡大するという構図だ。211年に潼関の戦いが起きたときと、同じパタンだ。がんばれ、露払い・夏侯淵。
215年の後半へつづく。