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215年秋冬、張魯の降伏、張遼の合肥

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

215年秋冬、張魯降伏、合肥の張遼

秋,七月,魏公操至陽平。張魯欲舉漢中降,其弟衛不肯,率眾數萬人拒關堅守, 橫山築城十餘里。
初,操承涼州從事及武都降人之辭,說「張魯易攻,陽平城下南北山 相遠,不可守也」,信以為然。及往臨履,不如所聞,乃歎曰:「他人商度,少如人 意。」

215年7月、曹操は陽平にきた。張魯は降ろうとしたが、弟の張衛がイヤがった。数万を率いて、山城に籠もった。
はじめ曹操は、涼州従事や、武都郡で降った人の言葉を聞いた。「張魯は、攻めやすいです」と。実際に地形を見てみると、伝聞とは全然ちがった。

曹操による「現地現物」だ。『論語』『孫子』のキレッパシよりも、ビジネス書に載せるべき逸話。だと思う。笑

曹操は、陽平で苦戦した。夏侯惇と許褚に、撤退を命じた。張衛に別営に迷いこんだ。張衛は、驚いて退散した。

攻陽平山上諸屯,山峻難登,既不時拔,士卒傷夷者多,軍食且盡,操意沮,便 欲拔軍截山而還,遣大將軍夏侯惇、將軍許褚呼山上兵還。會前軍夜迷惑,誤入張衛別 營,營中大驚退散。
侍中辛毘、主簿劉曄等在兵後,語惇、褚,言「官兵已據得賊要屯, 賊已散走」,猶不信之。惇前自見,乃還白操,進兵攻衛,衛等夜遁。
張魯聞陽平已陷, 欲降,閻圃曰:「今以迫往,功必輕;不如依杜濩赴樸胡,與相拒,然後委質,功必 多。」乃奔南山入巴中。左右欲悉燒寶貨倉庫,魯曰:「本欲歸命國家,而意未得達。 今之走避銳鋒,非有惡意。寶貨倉庫,國家之有。」遂封藏而去。操入南鄭,甚嘉之。 又以魯本有善意,遣人慰喻之。

侍中の辛毗と、主簿の劉曄は、後方にいた。夏侯惇と許褚の情報が、信じられない。夏侯惇は自分の目で、確かめた。夏侯惇はもどり、早々に報告した。

宮城谷昌光『三国志』9巻で、情報の少なさが、強調される。
漢中は、情報が通じない。さながら携帯電話の圏外。215年、夏侯惇と許褚が迷いこみ、張衛は敗走。辛毗と劉曄は、夏侯惇の勝報を信じず。228年、諸葛亮の北伐。諸葛亮の意図、趙雲の生死、敵軍の所在、いずれも不明。地形の険しさは、軍の移動より、情報を遮断する。張魯や劉備の割拠が、可能になった。


隴を得て、蜀を望み、リストラする

丞相主簿司馬懿言於操曰:「劉備以詐力虜劉璋,蜀人未附,而遠爭江陵,此機不 可失也。今克漢中,益州震動,進兵臨之,勢必瓦解。聖人不能違時,亦不可失時也。」 操曰:「人苦無足,既得隴,復望蜀邪!」
劉曄曰:「劉備,人傑也,有度而遲;得蜀 日淺,蜀人未恃也。今破漢中,蜀人震恐,其勢自傾。以公之神明,因其傾而壓之,無 不克也。若小緩之,諸葛亮明於治國而為相,關羽、張飛勇冠三軍而為將,蜀民既定, 據險守要,則不可犯矣。今不取,必為後憂。」操不從。居七日,蜀降者說「蜀中一日 數十驚,守將雖斬之而不能安也。」操問曄曰:「今尚可擊不?」曄曰:「今已小定, 未可擊也。」乃還。
以夏侯淵為都護將軍,督張郃、徐晃等守漢中;以丞相長史杜襲為 駙馬都尉,留督漢中事。襲綏懷開導,百姓自樂出徙洛、鄴者八萬餘口。

丞相主簿の司馬懿は、曹操に云った。
「劉備は、劉璋をだまし取りました。まだ蜀は、安定していません。しかも劉備は、江陵に出ています。今こそ、蜀を取ってしまいましょう」

出典は『晋書』かな。劉備が、荊州で争っていることまで、見抜かれているんか。だとしたら、司馬懿の情報は、すごいなあ。

曹操は「隴を得て、また蜀を望まんか」と、司馬懿を却下した。
劉曄も、曹操に蜀とりを勧めた。曹操は、ためらった。7日後、曹操は劉曄に、蜀とりを聞いた。劉曄は「もうチャンスを逃しました」と答えた。曹操は、漢中から帰った。
夏侯淵を都護将軍にした。張郃と徐晃らを漢中におき、夏侯淵に督させた。丞相長史の杜襲を、駙馬都尉とした。杜襲に、漢中の政治をさせた。漢中から、洛陽や鄴に移住した人は、8万余口だった。

曹操は、天下の縮小(見方を変えれば、分割ともいう)に積極的か。廬江郡(孫権の国境)も、漢中郡(劉備の国境)も、人口をカラにし、緩衝地帯をつくる。「人口が減った。小さくまとまるのが現実的」または「孫権や劉備に税金を与えない」と考えたか。烏丸を10年かけて北伐し、天下を拡大したときと、まるで別人。何が原因?
異民族の伸張を、すでに見通してた? ちがうよなあ。
会社ならば、不採算な市場から撤退し、赤字の部署を売却する。曹操は、後漢の版図を維持するコストが、大きすぎるのを見て、天下の縮小を図ったか。後漢は、周辺地域の平定に、やたらお金がかかって、国家の運営がうまく回っていなかった。霊帝が中央に求心しようとしたことに、通じる?


215年8月、孫権が張遼に破れ、賀斉が叱る

八月,孫權率眾十萬圍合肥。時張遼、李典、樂進將七千餘人屯合肥。魏公操之征 張魯也,為教與合肥護軍薛悌,署函邊曰:「賊至,乃發。」及權至,發教,教曰: 「若孫權至者,張、李將軍出戰,樂將軍守,護軍勿得與戰。」諸將以眾寡不敵,疑之。 張遼曰:「公遠征在外,比救至,彼破我必矣。是以教指及其未合逆擊之,折其盛勢, 以安眾心,然後可守也。」進等莫對。遼怒曰:「成敗之機,在此一戰。諸君若疑,遼 將獨決之。」李典素與遼不睦,慨然曰:「此國家大事,顧君計何如耳,吾可以私憾而 忘公義乎!請從君而出。」於是遼夜募敢從之士,得八百人,椎牛犒饗。明旦,遼被甲 持戟,先登陷陣,殺數十人,斬二大將,大呼自名,沖壘入至權麾下。權大驚,不知所 為,走登高塚,以長戟自守。遼叱權下戰,權不敢動,望見遼所將眾少,乃聚圍遼數重。 遼急擊圍開,將麾下數十人得出。餘眾號呼曰:「將軍棄我乎?」遼復還突圍,拔出餘 眾,權人馬皆披靡,無敢當者。自旦戰至日中,吳人奪氣。乃還修守備,眾心遂安。

215年8月、孫権は10万をひきいて、合肥を囲んだ。張遼、李典、楽進が、7千で合肥を守った。曹操が張魯を攻めにゆくとき、合肥護軍の薛悌に、ハコを渡した。「孫権が来たら、このハコをあけろ」と曹操が云った。
張遼たちは仲たがいしたが、孫権を破った。

勇ましい戦闘の経緯は、ぼくは興味がない。じゃなくて、個人の列伝で読めばいいと思う。いまは、省きます。あの有名な合肥の戦いが、曹操の張魯攻めと、並行していた。これを確認すれば、充分。
曹魏は、いつも人数が多いから勝っていたのでは、ない。いま曹操の主力が益州に行っても、孫権を防いだ。ぼくが孫権でも、合肥を抜けると思うところだ。


權 守合肥十餘日,城不可拔,徹軍還。兵皆就路,權與諸將在逍遙津北,張遼覘望知之, 即將步騎奄至。甘寧與呂蒙等力戰扞敵,凌統率親近扶權出圍,復還與遼戰,左右盡死, 身亦被創,度權已免,乃還。權乘駿馬上津橋,橋面已徹,丈餘無版;親近監谷利在馬 後,使權持鞍緩控,利於後著鞭以助馬勢,遂得超度。賀齊率三千人在津南迎權,權由 是得免。權入大船宴飲,賀齊下席涕泣曰:「至尊人主,常當持重,今日之事,幾致禍 敗。群下震怖,若無天地,願以此為終身之誡!」權自前收其淚曰:「大慚謹已刻心, 非但書紳也。」

孫権は、合肥を10余日かこみ、撤退した。帰りに孫権は、逍遙津で、張遼に狙撃された。甘寧、呂蒙、凌統が孫権を救った。孫権は、橋を飛びこえた。谷利が孫権を救った。
賀斉が、3千で援軍にきた。孫権は助かったので、酒を飲んだ。賀斉は、孫権をたしなめた。孫権は、反省した。

小説的には、最高にもりあがる場面。でも司馬光は、読者を盛り上げたいのではない。賀斉の戒めを、強調したいんだ。こんなに盛りあがるほど、孫権は、臣下たちを危険にさらしましたと。ここで孫権は、司馬光に糾弾されている。


215年9月、巴郡の分割

九月,巴、賨夷帥樸胡、杜濩、任約,各舉其眾來附。於是分巴郡,以胡為巴東太 守,濩為巴西太守,約為巴郡太守,皆封列侯。

215年9月、益州の異民族が、曹操に降った。巴郡を分けて、巴東と巴西とした。太守には、異民族を封じた。太守は、どちらも列侯に封じられた。

蜀郡は劉焉・劉璋の版図だが。巴郡は、張魯の版図だ。だから、張魯に連動して、曹操になびく。張魯の巴郡については、書きました。
荊州の劉表と孫権をマネしつづけた、孤児の君主・劉璋伝


215年冬、張魯が曹操に降伏し、巴郡を争う

冬,十月,始置名號侯以賞軍功。
十一月,張魯將家屬出降。魏公操逆拜魯鎮南將軍,待以客禮,封閬中侯,邑萬戶。 封魯五子及閻圃等皆為列侯。
程銀、侯選、龐真皆隨魯降,魏公操復銀、選官爵,拜真立義將軍。

215年冬10月、はじめて名號侯を置いて、軍功をほめた。

領地のない侯爵、でよかったっけ。君主にしてみれば、俸禄も土地もいらないから、おトクである。

215年11月、張魯は降った。張魯は鎮南將軍となった。張魯の5人の子や、閻圃も列侯になった。程銀、侯選、龐真らも、張魯とともに、曹操に降った。龐真は、立義将軍になった。

馬超にしたがっていた、残党たちですね。


張魯之走巴中也,黃權言於劉備曰:「若失漢中,則三巴不振,此為割蜀之股臂 也。」備乃以權為護軍,率諸將迎魯;魯已降,權遂擊樸胡、杜濩、任約,破之。魏公 操使張郃督諸軍徇三巴,欲徙其民於漢中,進軍宕渠。劉備使巴西太守張飛與郃相拒, 五十餘日,飛襲擊郃,大破之。郃走還南鄭,備亦還成都。

張魯が巴郡に逃げたとき、黄権は劉備に云った。
「もし漢中を失えば、巴郡が振るいません。これは、蜀郡にとって、手足を切り取られるようなもの」

黄権のセリフが「三巴」です。曹操による、巴郡の分割を、黄権はすでに認めているのだろうか。揚げ足とりかなあ。笑

劉備は黄権を護軍にして、張魯を迎えさせた。だが張魯は、黄権でなく、曹操に降った。黄権は、異民族を破った。
曹操は張郃に、三巴をめぐらせ、住人を漢中に移住させた。張郃は、宕渠にきた。劉備は、巴西太守の張飛をおくり、黄権とともに、張郃を防がせた。張飛は、張郃を破った。

おみやげ「張飛牛肉」のパッケージに書かれていた逸話。張飛が張郃をやぶる。これは、張魯が漢中を去ったあとの空隙を、曹操と劉備が攻めあっているとき戦い。漢中のつぎ、巴郡の攻防。巴郡を失えば、劉備は、涼州へも荊州にも出られない。

張郃は南鄭に逃げた。劉備は、成都にかえった。

操徙出故韓遂、馬超等兵五千餘人,使平難將軍殷署等督領,以扶風太守趙儼為關 中護軍。操使儼發千二百兵助漢中守禦,殷署督送之,行者不樂。儼護送至斜谷口,還, 未至營,署軍叛亂。儼自隨步騎百五十人,皆叛者親黨也,聞之,各驚,被甲持兵,不 復自安。儼徐諭以成敗,慰勵懇切,皆慷慨曰:「死生當隨護軍,不敢有二!」前到諸 營,各召料簡諸奸結叛者八百餘人,散在原野。儼下令惟取其造謀魁率治之,餘一不問, 郡縣所收送皆放遣,乃即相率還降。儼密白:「宜遣將詣大營,請舊兵鎮守關中。」魏 公操遣將軍劉柱將二千人往,當須到乃發遣。俄而事露,諸營大駭,不可安諭。儼遂宣 言:「當差留新兵之溫厚者千人,鎮守關中,其餘悉遣東。」便見主者內諸營兵名籍, 立差別人。留者意定,與儼同心,其當去者亦不敢動。儼一日盡遣上道,因使所留千人 分佈羅落之。東兵尋至,乃復脅諭,並徙千人,令相及共東。凡所全致二萬餘口。

趙𠑊のお話。はぶきます。『資治通鑑』215年、これまで。101109

午前年休が終わりそうなので、省略。趙𠑊伝を見て、後日じっくり味わいます。