表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

182年、辺境の謀反は、地方官のせい

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

182年春夏、清い地方官を26人、罷免する

孝靈皇帝中光和五年(壬戌,公元一八二年) 春,正月,辛未,赦天下。 詔公卿以謠言舉刺史、二千石為民蠹害者。太尉許彧、司空張濟承望內官,受取貨 賂,其宦者子弟、賓客,雖貪污穢濁,皆不敢問,而虛糾邊遠小郡清修有惠化者二十六 人,吏民詣闕陳訴。司徒陳耽上言:「公卿所舉,率黨其私,所謂放鴟梟而囚鸞鳳。」 帝以讓彧、濟,由是諸坐謠言征者,悉拜議郎。

182年春正月辛未、天下を赦した。公卿に、万人に害をなす地方官をあげさせた。太尉の許彧、司空の張濟は、宦官からワイロを受けた。許彧と張済は、宦官の貪汚な子弟や賓客を、害ある地方官のリストから、のぞいた。

ぼくは思う。三公と言えど、宦官の言いなりだ。この時期は、袁氏もおなじ?

遠くて小さい郡で、清く治める地方官が、26人リストにあがった。吏民は、リストのウソを訴えた。司徒の陳耽は、上言した。「許彧も張済も、不正をした。まるで、鴟梟をはなち、鸞鳳をとらえたようだ」と。だが霊帝は、許彧と張済を信じた。有能な地方官は、すべて議郎になり、任地を去った。

『考異』はいう。劉陶伝はいう。光和5年、ウソの二千石リストがあがる。陳耽と、議郎の曹操は、上言したと。司馬光は思う。陳耽は、すでに司徒だ。議郎の曹操とともに、上言をしない。王沈の『魏書』はいう。この歳、災異があるから、ひろく得失が問われた。曹操は、上書して、きつく諌めたと。王沈は、曹操と陳耽がいっしょだと言わない。だから『資治通鑑』は、陳耽ひとりに、上書させた。


二月,大疫。 三月,司徒陳耽免。 夏,四月,旱。
以太常袁隗為司徒。 五月,庚申,永樂宮署災。

182年2月、大疫あり。 3月、司徒の陳耽をやめた。 182年夏4月、ひでり。 太常の袁隗を、司徒とした。 5月庚申、永樂宮署が燃えた。

182年秋、巴郡の板楯蛮が、そむく原因

秋,七月,有星孛於太微。
板楯蠻寇亂巴郡,連年討之,不能克。帝欲大發兵,以問益州計吏漢中程包,對曰: 「板楯七姓,自秦世立功,復其租賦。其人勇猛善戰。昔永初中,羌入漢川,郡縣破壞, 得板楯救之,羌死敗殆盡,羌人號為神兵,傳語種輩,勿復南行。至建和二年,羌復大 入,實賴板楯連摧破之。前車騎將軍馮緄南征武陵,亦倚板楯以成其功。近益州郡亂, 太守李顒亦以板楯討而平之。忠功如此,本無噁心。長吏鄉亭更賦至重,僕役棰楚,過 於奴虜。亦有嫁妻賣子,或乃至自剄割,雖陳冤州郡,而牧守不為通理,闕庭悠遠,不 能自聞,含怨呼天,無所叩訴。故邑落相聚以致叛戾,非有謀主僭號以圖不軌。今但選 明能牧守,自然安集,不煩征伐也。」帝從其言,選用太守曹謙,遣宣詔赦之,即時皆 降。
八月,起四百尺觀於阿亭道。

182年秋7月、太微に彗星あり。
板楯蠻が、巴郡を寇した。連年、板楯蛮に勝てず。霊帝は、大軍をだしたい。益州計吏する漢中の程包に、霊帝は聞いた。程包は答えた。
「板楯蛮は、7姓ある。秦代から、勇猛だ。永初年間(107-113年)羌族が漢水に入った。114年、板楯蛮は、羌族を殺した。羌族は、板楯蛮を神兵といい、南下をやめた。147年、また羌族が南下し、板楯蛮に敗れた。さきの車騎将軍・馮緄が、武陵を撃ったとき、板楯蛮は協力した。板楯蛮が悪いのではなく、地方官が道理を通さないから、板楯蛮の反乱がやまない。有能な太守をおけば、板楯蛮は、自然とおちつくだろう」と。
霊帝は、程包にしたがう。霊帝は、曹謙を巴郡太守にした。板楯蛮は、くだった。

ぼくは思う。後漢の辺境が、おだやかでない理由は、なにか。地方官の責任だ。税金のとりすぎ、法律のねじまげなど。三国に分裂する土壌は、こうして培われた。

182年8月、4百尺の觀を、阿亭道に立てた。

182年冬、宦官が桓典の青白馬を畏れる

冬,十月,太尉許彧罷;以太常楊賜為太尉。
帝校獵上林苑,歷函谷關,遂狩於廣成苑。十二月,還,幸太學。
桓典為侍御史,宦官畏之。典常乘驄馬,京師為之語曰:「行行且止,避驄馬御 史!」典,焉之孫也。

182年冬10月、太尉の許彧をやめた。太常の楊賜を、太尉とした。
霊帝は、上林苑で校猟した。函谷關をとおり、廣成苑につく。182年12月、霊帝は洛陽にもどる。太学へゆく。
桓典は侍御史となる。宦官は、桓典を畏れた。桓典は、つねに驄馬に乗る。京師の人は、言った。「立ち止まれ。驄馬の乗り手を避けよ」と。桓典は、桓焉の孫だ。101215

胡三省はいう。驄馬とは、青と白の雑色。桓焉は、順帝の永建はじめ、太傅となった。桓焉は、桓栄の孫だ。