140年、南匈奴、烏桓、羌胡が連合
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
140年春、馬続が南匈奴をなだめる
春,二月,戊申,京師地震。南匈奴句龍王吾斯、車紐等反,寇西河;招誘右賢王合兵圍美稷,殺朔方、代郡長 吏。
夏,五月,度遼將軍馬續與中郎將梁並等發邊兵及羌、胡合二萬餘人掩擊,破之。 吾斯等復更屯聚,攻沒城邑。天子遣使責讓單于;單于本不預謀,乃脫帽避帳,詣並謝 罪。並以病徵,五原太守陳龜代為中郎將。龜以單于不能制下,逼迫單于及其弟左賢王 皆令自殺。龜又欲徙單于近親於內郡,而降者遂更狐疑。龜坐下獄,免。
140年春2月戊申、京師で地震。
南匈奴の句龍王・吾斯と、車紐らが、西河を寇した。右賢王とあわさり、美稷をかこむ。朔方と代郡の長吏を殺した。
夏5月、度遼将軍の馬続と、匈奴中郎将の梁並は、羌族と胡族を2万あつめ、南匈奴を破った。
順帝は、南匈奴の単于をせめた。単于は、反乱に関与しないが、梁並に謝った。梁並が病なので、五原太守の陳龜が匈奴中郎将になる。
いま単于は、南匈奴を統制できていない。陳亀は単于と、弟の左賢王らを自殺させた。陳亀は、単于の親族を、内地にうつしたい。陳亀のムリな政策を、匈奴は狐疑した。陳亀は、クビになった。
大将軍の梁商は、上表した。「南単于は、罪を認めた。獣ですら、窮鳥を殺さない。陳亀は、やりすぎた。いま匈奴と戦争するのは、キツい。さて、度遼将軍の馬続は、見識がたかい。馬続の書類を見ると、私(梁商)とおなじ意見だ。馬続に匈奴を任せたい」と。
順帝は、梁商をみとめた。馬続は畔で、匈奴の投降をさそった。
「馬続は畔で、匈奴の投降をさそった。」ではなく、「馬続は匈奴から背いた者の投降を誘った」ではないでしょうか。「畔虜」は「叛した虜」のことではないかと。(引用おわり)ありがとうございました。
己丑晦,日有食之。
梁商は、馬続に手紙した。
「直接の戦闘は、漢族より戎狄がうまい。城を守って、敵が衰えるのを待つのは、戎狄より漢族がうまい。この長所を活かして、うまく守れ。匈奴にあやまり、和睦をせよ。馬続が目先の手柄をほしがり、匈奴と戦ってはいけない」と。
匈奴の右賢王は、抑鞮ら1万3千をつれ、後漢に降った。
2月己丑みそか、日食した。
はじめ、南匈奴の那離らは、大人しかった。朝廷が、來機を并州刺史に、劉秉を涼州刺史にした。2人の刺史がムチャするから、羌族の反乱をまねいた。羌族や胡族は、三輔を寇して、長吏を殺した。2人の刺史は、クビだ。
いま思いつく限りをかく。史書のウソを疑うのは、以下4つのとき。1つ、著者が事件に関係するとき。2つ、毀誉褒貶が極端なとき。3つ、出来事の原因が、個人のキャラだけで、説明されているとき。4つ、セリフが詳細で、おもしろすぎるとき。など。
馬賢が征西将軍となり、騎都尉の耿叔が馬賢の副官となり、左右羽林の五校士と、諸州郡の兵10万をひきいて、漢陽に屯した。
140年秋冬、張耽が馬邑で、匈奴と大決戦
140年9月、扶風と漢陽に、隴道塢を3百築かせた。
9月辛未、太尉の王龔は、老いてやめた。羌族が武都を寇し、隴山の関を焼いた。9月壬午、太常の桓焉を、太尉にした。
匈奴の句龍王・吾斯らは、車紐を単于にした。東に烏桓,西に羌胡らをおさめ、数万で京兆の軍営をやぶった。上郡都尉と、軍司馬を殺した。ついに匈奴は、並、涼、幽、冀の4州を寇掠した。
西河の郡治を、平定県から離石にうつした。上郡の郡治を、夏陽にうつした。朔
方の郡治を、五原にうつした。
140年12月、匈奴中郎將の張耽は、幽州と烏桓の兵をひきいた。張耽は、車紐らと馬邑で戦った。3千の首級をとり、おおく生け捕った。車紐は降った。だが吾斯は、烏桓と寇鈔をつづけた。
馬融が、馬賢にクレームする
はじめ大将軍の梁商は、馬賢が老いたから、太中大夫の宋漢に代えようとした。宋漢は、宋由の子だ。
馬賢は、軍を進めない。
武都太守の馬融は、上疏した。「馬賢は、羌胡を攻めない。もし馬賢が滞留していると羌胡バレたら、三輔が攻撃される。私(馬融)に任せなさい。古代の名将・呉起は、暑さ寒さに耐えて戦った。だが馬賢は、ぬくぬくしている。馬賢では務まらない」と。安定の皇甫規も、馬賢は務まらないと言った。しかし順帝は、馬賢を代えない。101127