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『三国志集解』翻訳、五虎将軍 1)関羽伝、上
盧弼が注を付けた 『三国志集解』には何が書いてあるんだろう?
という好奇心を抑えられず、翻訳を始めます。皇帝や文官は、書いてあることが難しいので(笑)武将から始めます。
史料の短さとニーズの高さのバランスを考えたとき、蜀のいわゆる五虎将軍が記された、蜀書6を扱うことにしました。

ちくま訳を見れば充分な本文と裴注、面白くない&新しい発見のない集解の注は、主観で省いています。
集解の注は、色つきの四角で囲ってあります。
関羽
関羽は、あざなを雲長という。元のあざなは長生である。
梁章鉅曰く。王棠の知新録によれば、当時、范長生という人がいて、彼も劉備に仕えた。(西晋の)李特のときに范長生はまだ生きていて、130歳であった。関羽はあざなが范長生と同じだったから、雲長に改めたのだろうか。


河東郡の解県の人である。
郡国志には、司隷校尉の河東郡に解県があると書いてある。一統志によれば、解県の故城は、今の山西蒲州府にある臨晋県の東南である。


関羽は故郷を出奔して、涿郡に亡命した。 劉備は郷里で味方を集めた。関羽と張飛は、劉備を禦侮した。
詩大雅ケイの章予に、禦侮という言葉がある。毛伝には、「武臣が折衝することを、禦侮という」と書かれている。


劉備は平原相となった。関羽と張飛は、別部司馬となった。
続百官志に、「長官とは別に部下を持つのが、別部司馬だ」とある。


部曲を分担して率い、劉備と関羽と張飛は、寝床を同じくした。劉備の2人に対する恩は、まるで兄弟のようだった。
梁章鉅曰く。世俗で桃園結義と言われているが、元ネタはこれだ。


しかし人が集まる場では、関羽は劉備のそばに1日中立って、警護した。劉備のためなら、どんな逆境にも耐えた。
李安渓曰く。後漢の末期には、関羽のように義理を知っている人が、きわめて多かった。智勇を兼ね備えている人が、当世の英傑となった。


〈裴松之の注〉
蜀記曰く。曹操と劉備は、呂布を下邳で包囲した。関羽は曹操に、「呂布が秦宜禄に命じて、救援を求めさせている」と報告した。
華陽国志によれば、秦宜禄は呂布のために、張楊に助けを求めた。


関羽は「秦宜禄の妻を娶りたい」と、曹操に頼んだ。
潘眉曰く。華陽国志には「関羽啓公」の下に「妻無子」の3文字が入っている。これを入れて読めば、「私の妻は子を産まないので、秦宜禄の妻を娶りたい」となるから、関羽の言いたいことが、いっそう明確になる。


関羽がくどくど念を押すので、曹操はよほどの美女なのかと不思議に思い、秦宜禄の妻をチェックした。曹操は関羽の予約を無視して、自分の側に置いてしまった。
魏志の明帝紀の、青龍元年の記事に付けられた、献帝伝曰く。秦宜禄は呂布に命じられて、袁術を訪問した。袁術は秦宜禄を、漢の皇族の娘と結婚させた。秦宜禄の前妻の杜氏は、下邳に残っていた。関羽は、前妻の杜氏を欲しがって、曹操に横取りされたのだ。
〈訳注〉ワケの分からない小説家の腕にかかると、呂布を滅ぼしたとき、関羽が貂蝉を手に入れたとか、貂蝉を斬ったとか、ぐちゃぐちゃにされる。関羽に女性がらみの記事が少ないから、ここぞとばかりに押し込まれる。



劉備は、徐州刺史の車冑を殺して、関羽に下邳を守らせ、太守の職務を代行させた。劉備は、小沛に還った。
建安5年、曹操は東征して、劉備を征伐した。劉備は袁紹のところに逃げ、関羽は曹操に捕まった。
顔良が、白馬城を包囲した。曹操は、張遼と関羽に迎え撃たせ、関羽が顔良を斬ったから、白馬城の包囲が解けた。曹操は、関羽を漢寿亭侯とした。
郡国志にある荊州武陵郡の漢寿は、もとは索城といった。後漢の順帝のとき、陽嘉3年に改名された。
魏が治めれば「魏寿」と呼ばれる。賈詡伝に用例がある。呉が治めれば「呉寿」と呼ばれる。沈志に用例がある。晋代になると、「漢寿」に戻された。
益州の広漢郡の葭萌が改名され、「漢寿」となった。同じ名前だが、違う場所である。 趙一清曰く。関羽は蜀漢の建国に、特別な功績があった人だ。ゆえに葭萌を漢寿と改名したのだ。
〈訳注〉蜀漢の版図に、関羽の二つ名とも言える漢寿が含まれていないのは、ダサい。そこで、名前だけでも領内に設けた。
「漢寿亭」というが、亭ではなく県の名と考えるべきだろう。


関羽は顔良を斬り、曹操の下を去った。曹操は追わなかった。
唐庚曰く。関羽は曹操に厚遇されたが、忠義の人なので、劉備を忘れなかった。賢明と言うべきだ。
関羽を殺さずに厚遇して、その力量を活用した曹操も、賢明と言うべきだ。曹操は欲望を抑制し、関羽を我が物にすることに執着しなかったのだから、先王の遺風をもった人物である。
私(唐庚)はかつて、曹操について論じたことがある。曹操は(関羽を逃がしたように)善行をやれる人だが、悪行をやめることができない。だから、善行によって国は栄えるものの、悪行によって天下を1つにまとめることはできなかった。


めぼしい集解の注がないので、次回からは、場面がいっきに樊城攻めに飛びます。
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このコンテンツの目次
『三国志集解』翻訳、五虎将軍
1)関羽伝-上
2)関羽伝-下
3)張飛伝
4)馬超伝、黄忠伝
5)趙雲伝-上
6)趙雲伝-下、評