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『三国志集解』翻訳、五虎将軍 2)関羽伝-下
建安24年、関羽は曹仁を樊城に攻めた。
曹操は、于禁を救援にやった。漢水が大雨であふれていたから、于禁の7軍は水没して、関羽に投降した。関羽は、将軍の龐徳を斬った。梁コウ・陸渾などの群盗は、関羽から印綬を送られて、味方した。
南陽の守将である侯音は、太守の職務を行い、関羽と連合した。これは、魏志の武帝紀、建安24年に引かれた曹瞞伝に見える。
陸渾民や孫狼らは、県の主簿を殺して、関羽に帰属した。これは、魏志の管寧伝に付けられた、胡昭伝に見える。
関羽が別将をつかわして、すでに許都に迫っていると聞き、南部の農民がパニックになった。これは、魏志の満寵伝に見える。
資治通鑑の建安22年の記事にある。関羽が強盛なので、京兆の金禕らは、献帝抱えて魏を攻めた。南からは関羽を引き入れて、魏を攻める手伝いをさせようとした。
侯康曰く。魏の横海将軍の呂君の碑には、
「関羽が辺境から攻め上がり、漢の人民は恐れた。漢水が溢れて樊城が水没した。魏の武将は次々と負けた。群盗たちが沸き、城に籠もった。みな気が気ではなく、動揺が波のように伝わった」
と書いてあるが、当時の情勢をよく伝えるものである。


関羽に威圧されて、中原は真っ青になった。
南郡太守の麋芳は江陵にいて、将軍の傅士仁は公安に駐屯した。
何シャク曰く。楊戯の輔臣賛、孫権伝、呂蒙伝は、すべて「士仁」と書いているから、「傅」はいらない字だろう。
王鳴盛曰く。呉志には士燮伝があるから、当時、「士」という姓はあった。
李慈が曰く。後漢には2字の名前がいるはずがないから、「傅」を姓として「士仁」を名とするのはおかしい。
だが盧弼(集解の著者)が調べたら、後漢にも2字の名前の人は、多くいた。例えば魏志の方技伝には、朱建平が載っている。李慈の言い分は間違っている。


麋芳と士仁は、ミスを関羽に責められるのを懼れた。麋芳と士仁は、孫権に通じた。
趙一清曰く。方輿紀要78巻によれば、擲甲山という山が荊州府城の西龍山門の西北隅にあると、伝えられている。
関羽が南郡に戻ろうとしたとき、すでに麋芳が孫権に降ったことに憤り、手甲(防具)を投(擲)げつけた場所が、ここだという。


孫権は部将を遣わし、関羽と関平を臨沮で撃った。
古今刀剣録にある。関羽は劉備に重んじられた。関羽は身命を惜しまずに山に入り、自ら鉄を採取した。2本の刀に「万人敵」と銘を刻んだ。
敗北した関羽は、刀を臨沮の水中に投げ捨てた。


関羽は「壮繆侯」と追諡された。
程敏政曰く。劉備の時代は、法正にだけ諡号が贈られた。劉禅のとき、諸葛亮の功徳が世を蓋い、蒋琬と費禕も諡号を与えられた。
ここに到り、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠・趙雲は、みな諡号を得た。
〈訳注〉関羽の扱いは、法正、諸葛亮、蒋琬、費禕の下だ。
死者に栄誉を与えるため「繆」という字を使ってよいか、という問題がある。
関羽に送られた「繆(ビュウ)」ではなく「穆(ボク)」ならば、秦ノ穆公や魯ノ穆公に使われた文字だ。孟子には、漢ノ穆公生、秦の穆公タンが載っている。古代では、全て「穆」を使った。宋の岳飛が武穆と追諡されたのも、同じ意味である。
諡法によれば、関羽に付けられた「繆(ビュウ)」はマイナスの評価で、武功が成らなかったという意味である。
「繆(ビュウ)」と「穆(ボク)」が混同されたのだろうか。
〈訳注〉ぼくが見ている『三国志集解』が古くて小さい本なので、インクが潰れて、字の違いが不鮮明です。文脈で、繆と穆を見分けてるので、怪しいかも。

姚範曰く。呂蒙が江陵を襲い、別隊の陸遜に宜都を取らせ、夷陵に駐屯して、峡口を固めて劉備に備えた。蜀の参士は上疏して、呉人が耽々と荊州を狙っていることを訴えた。だが劉備は、関羽の手柄が減ってしまうのを嫌い、参謀を荊州に送らなかった。
劉封伝の中に、蜀人は関羽の失敗を予測できていなかったと書いてあるが、間違いである。陳寿は、上疏の存在を知らなかったのだ。


〈裴松之の注〉
江表伝曰く。関羽は左氏伝を好んだ。暗誦した。
梁章鉅曰く。関羽は左氏伝を好んだから、リテラシーに長けた。世俗の人は、春秋にこそ史実があると言っていた。だが関羽は、左氏伝が史実ではないことを知らなかった。
〈訳注〉『春秋左氏伝』は、前漢に孔子を筆者だと設定して作られた本です。関羽に史料批判を期待するのは無理だ。


◆訳語の感想
『集解』には、手放しで関羽を賛美する先行研究が引用されまくっていると思ったが、とても冷静で、むしろ辛いくらいだった。
関羽は、劉備死後の蜀漢で、あまり重んじられていなかったことが、『集解』のおかげで分かった。
費禕よりも諡号は付くのは後だった。黄忠や趙雲と同時だ。しかも「武功を成さず」という、悪い諡号とも解釈できる文字を宛がわれるとは。
神格化はまだだろうが、蜀漢の朝廷では、
「初期の猛将のワンオブゼム。ただし、荊州を失ったオオバカ野郎」
という、極めて客観的な評価だ。
意外だ!
蜀ファンは腹が立つだろうし、曹操の価値観に寄り添った魏ファンもつまらない。呂蒙や陸遜が好きな呉ファンも、倒した敵をスポイルされたら、がっかりするだろう。誰も喜ばない。
ちなみに、ちくま訳は「繆」を「ボク」と読ませていた。
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このコンテンツの目次
『三国志集解』翻訳、五虎将軍
1)関羽伝-上
2)関羽伝-下
3)張飛伝
4)馬超伝、黄忠伝
5)趙雲伝-上
6)趙雲伝-下、評