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『三国志集解』翻訳、五虎将軍 3)張飛伝
張飛
張飛は、あざなを益徳という。
梁章鉅曰く。張飛のあざなが益徳であることは、呂布伝に引かれた英雄記、周瑜伝に引かれた呉録、楊戯伝の中の張飛への賛、李商陰が作った漢詩に見られ・・・(以下略)
〈訳注〉古文書や金石文の事例を並べて、「益徳」か「翼徳」かという議論の経過が書かれている。『集解』を書いた盧弼は、法正伝にも「益徳」の用法が書かれていると補足しているから、ここの結論は「益徳」でいいだろう。


若くして、関羽と共に劉備に仕えた。関羽がいくつか年長だったから、張飛は関羽を兄と仰いだ。
梁章鉅曰く。これは、世間の桃園3兄弟伝説の元ネタの1つだ。
潘眉曰く。近ごろ、関羽は四戌午に生まれ、張飛が四癸亥に生まれたという話しが出回っているが、根拠のないことだ。劉備が兵を起こしたとき、関羽と張飛はこれに従った。献帝の初平元年のことだ。もし関羽と張飛が上記の生まれだというなら、関羽は13歳、張飛は8歳で参加したことになる。あり得ない。

銭大キン曰く。関羽と張飛の列伝は、死んだときの年齢を記さない。没年が書いてあるのは、諸葛亮、龐統、法正、馬超だけである。蒋琬、董允、費禕、関羽、張飛、黄忠、趙雲は、みな没年が書いてない。許靖と譙周は、たまたま「その年、70歳になった」という記事があるから、年齢を逆算できる。
杜瓊は80歳余、孟光は90歳以上だと分かる箇所はある。馬良兄弟は、「天命を知らずに死んだ」と書かれているから、50歳(知命)未満だっただろう。だが馬良兄弟については、年齢ではなく、生き方についてコメントされただけかも知れず、年齢の推定には使えない。
盧弼(集解の著者)は、霍峻が40歳で死んだという記事を見つけた。銭大キンの見落としである。


赤壁の後、張飛は宜都太守になった。征虜将軍となり、新亭侯に封じられ、のちに南郡に転じた。
古今刀剣録曰く。張飛ははじめ、新亭侯に封じられたとき、自ら命じて、赤朱山の鉄で1刀を鍛えさせた。銘には「新亭侯、蜀大将也」と刻ませた。
のちに張飛が范彊に殺されると、この刀は孫呉に運ばれた。
盧弼は考える。
張飛が刀に自ら刻むならば、「蜀将」ではなく「漢将」とするはずだ。その証拠に、張飛がモウ山の勒石に自筆したときは、「漢将」と書いている。
〈訳注〉よく知らないが、古今刀剣録という本を、盧弼は熱心に引用している。題名からして、ウソくさいのに。
関羽は「万人敵」と刻み、最期は捨てた。張飛は役職を刻み、最期は盗まれた。キャラ立ちさせるための演出だろうが、上手いのか?


章武元年、張飛は車騎将軍に遷り、司隷校尉を領ねて、西郷侯。
趙一清曰く。漢書地理志によれば、涿郡の西郷侯国は、いまの涿州の西北20里である。張飛は涿郡の人だから、(領有できないが、名目だけでも)故郷に封じられた。


張飛を任じるとき、策して曰く、(策文は略)
銭大昭曰く。諸葛亮、張飛、馬超、許靖を任命する文書は残っているのに、他の人の文書は、史書に残っていない。
盧弼が検討したところ、張皇后、魯王、梁王、劉禅の立太子のときの策文が、載っている。銭大昭はデタラメである。
〈訳注〉銭大昭は、蜀志の前半をチェックし忘れたらしい(笑)


魏の程昱らは、関羽と張飛が1万人に匹敵する強さだと称えた。関羽は兵卒を可愛がったが、士大夫には偉そうに接した。
潘濬と関羽は、仲が悪かったと、季漢輔臣賛に見える。
関羽は孫権を罵倒して、縁談を断った。 麋芳と士仁を侮った。 いずれも三国志の本伝に見えることだ。


関羽とは対照的に、張飛は君子を敬愛して、小人を憐れまなかった。
兵士に人望がなかったから、漢中の守備から張飛は外され、魏延が選ばれたのである。
〈訳注〉さらっと盧弼が書いているが、新説だ!びっくりした。


張飛の営都督が、劉備に上表をした。劉備は、ああ張飛が死んだか、と言った。
胡三省曰く。上表は張飛が自分で行なっていた。都督が、張飛を飛び越えて報告に来たから、劉備は張飛の死を知ったのである。
用兵をするなら、人選を誤ってはいけない。関羽と張飛が死んでしまったのだから、劉備は夷陵に出兵すべきではなかった。
〈訳注〉注釈のスタイルで、持論を押し付けないでほしい(笑)


追諡して、張飛は「桓侯」とされた。
張飛の妻は、夏侯覇の従妹である。建安5年、張飛との間に娘が生まれて、劉禅の皇后となった。これは、魏志の夏侯淵伝に引かれた魏略に書いてあることだ。


◆訳語の感想
張飛という人がメジャーすぎて、目新しい話があまりなかった。めぼしいネタは、もうファンの間で料理されてしまってるから。
年齢の記述とか、策文の有無とか、蜀志の列伝を横並びに検討するという視点は、恥ずかしながらぼくにはなかったから、面白かった。
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このコンテンツの目次
『三国志集解』翻訳、五虎将軍
1)関羽伝-上
2)関羽伝-下
3)張飛伝
4)馬超伝、黄忠伝
5)趙雲伝-上
6)趙雲伝-下、評