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『三国志集解』翻訳、五虎将軍 4)馬超伝、黄忠伝
馬超
馬超は、あざなを孟起という。右扶風の茂陵の人だ。
銭大キン曰く。漢書と後漢書では、ただ官名を指すときは「左」「右」の文字を付けるが、人の本籍を示すときは、ただ「馮翊」「扶風」とだけ言う。
〈訳注〉「左馮翊」「右扶風」ではない、ってこと。
蜀志では、馬超伝でも法正伝でも「右扶風」と言っているが、間違っている。「右」の字を省くべきである。

潘眉曰く。魏志の張既伝では馮翊、蘇則伝では扶風と言っていて、「左」「右」が付いてない。後漢書の劉焉伝に引用された蜀志の法正伝には、「右」がない。陳寿が間違えたのではなく、書き写したバカな後世人が、余計な文字を付け足したのだろう。


〈裴松之の注〉 典略曰く。馬騰はあざなを寿成といい、馬援の後裔である。桓帝のとき、馬騰の父の馬子碩は、天水蘭干尉となった。
趙一清曰く。後漢書の董卓伝に引かれた献帝紀には、馬騰の父の名が、馬平と書いてある。


曹操は韓遂と馬超と、単馬会語した。馬超は自分の腕力が強いから、ひそかに曹操を捕らえてやろうと思った。
趙一清曰く。御覧704巻に引かれた江表伝にある。馬超は6石の米が入る袋を作り、それを持って東西に馬を走らせていた。つまり、米の重さを曹操に見立てて、曹操をさらって逃げる訓練をしていた。曹操はこれを知ると、ずるい奴に捕まってたまるか、と言った。


馬岱は、平北将軍まで昇り、陳倉侯になった。
趙一清曰く。晋書宣帝紀の青龍3年の記事に、蜀将の馬岱が攻めてきたが、牛金が撃破したとある。
一清が考えるに、これは蜀漢の建興13年のことで、諸葛亮が死んだ翌年である。



黄忠
建安24年、黄忠は漢中の定軍山で夏侯淵を撃った。
曹操は南征して、漢中で張魯を降伏させた。夏侯淵らに命じて、漢中を守らせた。劉備は自ら、陽平関の南にてベン水を渡り、夏侯淵の首を斬り、漢中を保有した。

杭世駿曰く。古今刀剣録より。黄忠が劉備に従って、南郡を平定したとき、血のように赤い刀を1本得た。漢中で夏侯淵を撃ったとき、その赤い刀を1日に百数十回も使った。
〈訳注〉盧弼の大好きな、古今刀剣録。あまりキャラ設定がうまくないと思うのは、ぼくだけ?


劉備は漢中王となり、黄忠を後将軍にしたいと相談した。諸葛亮は劉備を説得した。
黄忠の名望は、関羽や馬超には及びません。それでも、同列にしちゃいますか。馬超や張飛は、黄忠を戦場で見ているから怒らないでしょう。しかし関羽は、黄忠の活躍を遠くで聞いているだけですから、きっと気分を害すでしょう」
銭大キン曰く。前漢と後漢では、大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、前後左右将軍が貴い官位だった。のちに張飛は車騎将軍、馬超を驃騎将軍として、尊重された。
章武元年、黄忠が後将軍になった時点では、まだ車騎将軍、驃騎将軍のポストが設定されておらず、ただ前後左右将軍が重んじられていた。このとき関羽が前将軍、馬超が左将軍、張飛が右将軍となり、黄忠を後将軍とした。だから、同列だと言っているのだ。
案の定、費詩伝には関羽がキレたと書いてある。


◆訳語の感想
なんだ、この期待はずれな分量は。関連史料そのものが乏しいのか、
「『集解』を見たからこそ、初めて知りました!」
と喜べるような記述が少ない。
元の列伝が解らないほどに省略していますが、それは盧弼が面白い注釈を付けてないからです。
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このコンテンツの目次
『三国志集解』翻訳、五虎将軍
1)関羽伝-上
2)関羽伝-下
3)張飛伝
4)馬超伝、黄忠伝
5)趙雲伝-上
6)趙雲伝-下、評