表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』東晋の本紀を、贅沢に訳す

-322年、頭の切れる皇子

東晋の本紀を訳します。
「元帝紀」は、『解体晋書』さまで読めますから、その次からやります。歴史書では皇帝を、即位前から死後の諡号で呼びます。理解をカンタンにするため、訳もそのまま諡号でやります。
「元帝は、晋王になった」「明帝を廃太子とする」
みたいな、感覚的に受け付けない記述が登場しますが、我慢です(笑)
東晋のライバル、 前趙、後趙、成漢のことは、紺字で書いています。

タイトルの何が「贅沢」かと言えば、それほど長くなく、文辞が凝りまくっているわけでもない本紀を読む&訳すだけで、東晋の前半史をざっと把握してしまえることが、ぼくにとっての「贅沢」なのです。

長安と太陽の遠近

明皇帝諱紹,字道畿,元皇帝長子也。幼而聰哲,為元帝所寵異。年數歲,嘗坐置膝前,屬長安使來,因問帝曰:「汝謂日與長安孰遠?」對曰:「長安近。不聞人從日邊來,居然可知也。」元帝異之。明日,宴群僚,又問之。對曰:「日近。」元帝失色,曰:「何乃異間者之言乎?」對曰:「舉目則見日,不見長安。」由是益奇之。

明帝は、諱を(司馬)紹といい、あざなを道畿という。元帝の長子だ。
幼くして聡哲で、元帝から格別の寵愛を受けた。まだ明帝が2歳か3歳のとき、元帝のひざの上に座って、長安から来た使者と会った。元帝は、明帝に聞いた。
「太陽と長安は、どっちが近いでしょう?」
「長安!太陽の辺りから人が来たなんて、聞いたことないもん。長安からなら、今も人が来ている。だから長安の方が近いと思うんだ」
元帝は、明帝のこの答えにとても感心した。翌日元帝は、宴席で官僚たちに同じ質問をした。官僚たちは、
「太陽の方が近いと思います」
と答えた。元帝はガックリして言った。
「なんでそんなおかしなことを言うのか」
「目を上げれば、太陽を見ることができます。でも、長安は見えません
元帝は官僚の答えを聞いて、ますます明帝の賢さを確信した。

うっかりすると、太陽よりも遠く感じられている長安。長安には、何があるか。西晋の愍帝がいる。幼児の明帝は西晋の威令を意識しているが、官僚は西晋を見捨てている・・・とも読解可能?

王敦のワナ

建興初,拜東中郎將,鎮廣陵。元帝為晉王,立為晉王太子。及帝即尊號,立為皇太子。性至孝,有文武才略,欽賢愛客,雅好文辭。當時名臣,自王導、庚亮、溫嶠、桓彝、阮放等,鹹見親待。嘗論聖人真假之意,導等不能屈。又習武藝,善撫將士。于時東朝濟濟,遠近屬心焉。及王敦之亂,六軍敗績,帝欲帥將士決戰,升車將出,中庶子溫嶠固諫,抽劍斬鞅,乃止。敦素以帝神武明略,朝野之所欽信,欲誣以不孝而廢焉。大會百官而問溫嶠曰:「皇太子以何德稱?」聲色俱厲,必欲使有言。嶠對曰:「鉤深致遠,蓋非淺局所量。以禮觀之,可稱為孝矣。」眾皆以為信然,敦謀遂止。

建興初(313年)、明帝は東中郎將となり、廣陵に出鎮した。元帝が晉王となると、明帝は王太子に立てられた。元帝が皇帝を名乗ると、皇太子となった。
明帝の性格は至孝で、文武の才略があり、賢人につつしみ、客を愛した。文辞を雅好した。
当時の東晋の名臣である、王導、庚亮、温嶠、桓彝、阮放らと親交を結んだ。かつて、本物の聖人の定義について話したとき、王導たちは明帝の意見を論破できなかった。

「王導等、屈すること能はず」は、他動詞に読んで、目的語を明帝にしました。自動詞じゃ意味がよく分からんので。

また明帝は武芸を習い、将軍や兵士たちの心をつかんだ。
江南で東晋の朝廷がよく治まったときは、遠近から人心が寄せられた。だが王敦が反乱すると、東晋の六軍は敗れた。明帝は、将軍と兵士を率いて、王敦と決戦したいと考えた。明帝が、馬車でまさに出陣しようとしたとき、中庶子の温嶠が強く諌めた。温嶠は剣を抜くと、馬と車をつなぐベルトを断ち切った。明帝は、出陣を思い留めた。
明帝は神武明略の持ち主で、朝野からの信頼が厚かった。王敦は明帝を警戒した。王敦は、
「明帝は不孝者だ」
と言いふらして、皇太子から廃そうした。百官たちは、温嶠に聞いた。
「皇太子の人柄は、どんなですか?」
質問の口調は激しくて、温嶠から何らかの答えを引き出さないと気が済まない様子だった。

「厲」は、砥石、はげしいこと。明帝が人前に出ないから、王敦のデマゴーグが説得力を持ったのだろう。温嶠は、明帝との距離が一番近いようなので、事情聴取された。曹叡のときの劉曄と同じだ。

温嶠は答えた。
「明帝さまは、洞察力に優れて、深く遠くまで考える方です。表面しか見られないような、セコい人物ではありません。礼をもって物事を見るので、孝の人だと言うべきでしょうね」
人々は温嶠の言葉を信じた。王敦のはかりごとは失敗した。

永昌元年閏月己醜,元帝崩。庚寅,太子即皇帝位,大赦,尊所生荀氏為建安郡君。

永昌元(322)年、閏月己酉、元帝が崩じた。庚寅、太子だった明帝は即位した。大赦した。明帝の生母の荀氏を尊び、建安郡君とした。