表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』東晋の本紀を、贅沢に訳す

355-58年、漢族が洛陽回復

関中は、前秦の苻氏が固めていてムリでしたが・・・

355年、苻健と張祚の死

十一年春正月甲辰,侍中、汝南王統薨。平羌校尉、仇池公楊初為其部將梁式所害,初子國嗣位,因拜鎮北將軍、秦州刺史。齊公段龕襲慕容雋將榮國于郎山,敗之。夏四月壬申,隕霜。乙酉,地震。姚襄帥眾寇外黃,冠軍將軍高季大破之。五月丁未,地又震。六月,苻健死,其子生嗣偽位。秋七月,宋混、張瓘弑張祚,而立耀靈弟玄靚為大將軍、涼州牧,遣使來降。以吏部尚書周閔為尚書左僕射,領軍將軍王彪之為尚書右僕射。冬十月,進豫州刺史謝尚督並冀幽三州諸軍事、鎮西將軍,鎮馬頭。十二月,慕容恪帥眾寇廣固。壬戌,上党人馮鴦自稱太守,背苻生遣使來降。

十一(355)年春正月甲辰、侍中で汝南王の司馬統が薨じた。
平羌校尉で仇池公の楊初は、部將の梁式に殺害された。楊初の子・楊国が嗣いで、鎮北將軍、秦州刺史となった。
齊公の段龕が、慕容雋の將・榮國を、郎山で破った。
夏4月壬申、霜が降りた。乙酉、地震。

そういえば、地震は増えたけど、日照りは収まったなあ。

姚襄は外黄を寇した。冠軍將軍の高季は、姚襄を大いに破った。
5月丁未、また地震。
6月、苻健が死に、子の苻生が嗣いだ。
秋7月、宋混と張瓘は、張祚を弑して、張耀靈の弟・張玄靚を立てた。張玄靚は、大將軍、涼州牧となり、東晋に使者をよこした。
吏部尚書の周閔を、尚書左僕射とした。領軍將軍の王彪之を、尚書右僕射とした。 冬10月、豫州刺史の謝尚を、督並冀幽三州諸軍事、鎮西將軍に進め、馬頭を鎮らせた。
12月、慕容恪が廣固に寇した。壬戌、上党人・馮鴦が、自ら上党太守を称した。馮鴦は苻生を裏切り、東晋に降伏した。

356年、洛陽を回復

十二年春正月丁卯,帝臨朝,以皇太后母喪,懸而不樂。鎮北將軍段龕及慕容恪戰於廣固,大敗之,恪退據安平。二月辛醜,帝講《孝經》。三月,姚襄入於許昌,以太尉桓溫為征討大都督以討之。秋八月己亥,桓溫及姚襄戰于伊水,大敗之,襄走平陽,徙其餘眾三千余家于江漢之間,執周成而歸。使揚武將軍毛穆之,督護陳午,輔國將軍、河南太守戴施鎮洛陽。冬十月癸巳朔,日有蝕之。慕容恪攻段龕於廣固,使北中郎將荀羨帥師次於琅邪以救之。十一月,遣兼司空、散騎常侍車灌,龍驤將軍袁真等持節如洛陽,修五陵。十二月庚戌,以有事於五陵,告於太廟,帝及群臣皆服緦,於太極殿臨三日。是歲,仇池公楊國為其從父俊所殺,俊自立。

十二(356)年春正月丁卯、穆帝は臨朝した。皇太后の母の喪なので、楽しまず。
東晋方の鎮北將軍の段龕は、慕容恪と廣固で戦った。段龕が勝ち、慕容恪は安平に退いた。
2月辛酉、穆帝は『孝經』を講じた。

2歳で即位した穆帝は、このとき14歳です。成長したが、あと5年で死ぬ。

3月、姚襄は許昌に入った。太尉・桓温は、征討大都督となり、姚襄を討った。
秋8月己亥、桓温と姚襄は、伊水で戦った。桓温は、姚襄を大いに破った。姚襄は平陽に逃げた。桓温は、姚襄が置き捨てた3000余家を、長江と漢水の間に徙した。桓温は周成を捕えたが、解放した。
桓温は、 揚武將軍の毛穆之と、督護の陳午と、輔國將軍・河南太守の戴施は、洛陽を鎮らせた。

毛穆之は『晋書』51巻。あと2人は、列伝なし?
やっと東晋が洛陽を取り戻しました!もう残りは消化試合ですが・・・立ち止まると二度とやらんので、駆け抜けます。

冬10月癸巳朔、日食。
慕容恪は、段龕を廣固で攻めた。北中郎將の荀羨は、兵を率いて瑯邪に入り、段龕を救った。
11月、兼司空、散騎常侍の車灌と、龍驤將軍の袁真らは、節を持って洛陽に行き、五陵を修復した。

穆帝の気がかりが解消。陵墓を修復することは、至高の至孝だよね。

12月庚戌、五陵に事えたことを、太廟に報告した。穆帝および群臣は、みな緦服を着て、太極殿に3日臨んだ。

「緦」は細い麻糸で、粗く塗った布。3ヶ月の喪(もっとも軽い喪)に服するときに使う。粗いのは、「哀しみがひどくて、気づかう余裕がないから」だろう。

この歳、仇池公の楊國は、從父の楊俊に殺された。楊俊は自ら君主になった。

357年、儒帝への成長

升平元年春正月壬戌朔,帝加元服,告天太廟,始親萬機。大赦,改元,增文武位一等。皇太后居崇德宮。丁醜,隕石於槐裏一。是月,鎮北將軍、齊公段龕為慕容恪所陷,遇害。扶南竺旃檀獻馴象,詔曰:「昔先帝以殊方異獸或為人患,禁之。今及其未至,可令還本土。」三月,帝講《孝經》。壬申,親釋奠于中堂。夏五月庚午,鎮西將軍謝尚卒。苻生將苻眉、苻堅擊姚襄,戰于三原,斬之。六月,苻堅殺苻生而自立。以軍司謝奕為使持節、都督、安西將軍、豫州刺史。秋七月,苻堅將張平以並州降,遂以為並州刺史。八月丁未,立皇后何氏,大赦,賜孝悌鰥寡米,人五斛,逋租宿債皆勿收,大酺三日。冬十月,皇后見於太廟。十一月,雷。十二月,乙太常王彪之為尚書左僕射。

升平元(357)年春正月壬戌朔、穆帝は元服して、太廟で天に報告した。親政を開始した。穆帝は大赦して、改元した。文武官を1ランクアップ。皇太后は、崇德宮に住んだ。
丁酉、隕石が槐裏に1つ。この月(正月)、鎮北將軍で齊公の段龕が、慕容恪に陥され殺害された。
扶南の竺旃檀が、ゾウを献上した。穆帝は詔した。
「古代の王たちは、珍獣が人に危害を加えるから、国内への持込を禁じた。まだゾウは到着してないらしいから、送り返せ」

ええっ!好奇心がないのか?穆帝は杓子定規なカタい性格?

3月、穆帝は『孝經』を講じた。壬申、穆帝は自ら孔子を中堂で祭った。

カタい性格、決定だな。。

夏5月庚午、鎮西將軍の謝尚が死んだ。
苻生の將・苻眉と苻堅が、姚襄と三原で戦った。苻氏は、姚襄を斬った。
6月、苻堅は殺苻を殺して、君主になった。

胡族の英主の登場。東晋が回復した洛陽も、奪い返される。

軍司の謝奕を、使持節、都督、安西將軍、豫州刺史とした。
秋7月、苻堅の將・張平が、并州を降した。張平は並州刺史となった。
8月丁未、穆帝は何氏を皇后に立てた。大赦した。孝悌な人や貧しい人に、米を配った。
冬10月、何皇后は太廟に詣でた。11月、落雷。
12月、太常の王彪之を、尚書左僕射にした。

358年、慕容雋の河北平定

二年春正月,司徒、會稽王昱稽首歸政,帝不許。三月,慕容雋陷冀州諸郡,詔安西將軍謝奕、北中郎將荀羨北伐。三月,佽飛督王饒獻鴆鳥,帝怒,鞭之二百,使殿中禦史焚其鳥于四達之衢。夏五月,大水。有星孛於天船。六月,並州刺史張平為苻堅所逼,帥眾三千奔於平陽,堅追敗之。慕容恪進據上党,冠軍將軍馮鴦以眾叛歸慕容雋,雋盡陷河北之地。秋八月,安西將軍謝奕卒。壬申,以吳興太守謝萬為西中郎將、持節、監司豫冀並四州諸軍事、豫州刺史。以散騎常侍郗曇為北中郎將、持節、都督徐兗青冀幽五州諸軍事、徐兗二州刺史,鎮下邳。冬十月乙丑,陳留王曹勱薨。十一月庚子,雷。辛酉,地震。十二月,北中郎將荀羨及慕容雋戰於山荏,王師敗績。

二(358)年春正月、司徒で會稽王の司馬昱が、政治に参加したいと願った。だが穆帝は、司馬程を締め出した。
3月、慕容雋は、冀州の諸郡を落した。穆帝は詔して、安西將軍の謝奕、北中郎將の荀羨に北伐させた。
3月、佽飛督王の司馬饒が、鴆鳥を献上した。穆帝は怒り、鞭を200回打った。穆帝は殿中禦史に命じて、四達之衢で鴆鳥を焼き殺させた。

「三月」って2回言っているのがおかしい。テキストをもらった中文サイトが間違えてるのか?そして、なぜ鴆鳥を献上したんだろう? 暗殺としては下手すぎる。そして、始末を命じられた殿中禦史、かわいそう。労災おりるのか?

夏5月、大水。天船の分野で、星孛。
6月、並州刺史の張平は、苻堅に攻められた。張平は、3000人を率いて平陽に逃げた。苻堅は追撃して、張平を破った。

張平は、苻堅の命令で并州を攻めたのに、現地で自立したから、制裁された。

慕容恪は進んで上党郡に拠った。冠軍將軍・馮鴦は、東晋を見限って、慕容雋に降伏した。慕容雋は、河北之地をことごとく手に入れた。
秋8月、安西將軍の謝奕が死んだ。
壬申、呉興太守の謝萬を西中郎將、持節とし、監司豫冀並四州諸軍事、豫州刺史とした。散騎常侍の郗曇を、北中郎將、持節、都督徐兗青冀幽五州諸軍事、徐兗二州刺史とし、下邳を鎮らせた。
冬10乙丑、陳留王の曹勱が薨じた。

成帝の327年10月、封じられた王。曹操の玄孫だ。

11月庚子、落雷。辛酉、地震。
12月、北中郎將の荀羨は、慕容雋と山荏で戦った。荀羨は敗れた。