表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』東晋の本紀を、贅沢に訳す

348-51年、華北の亡々国

東晋が成漢を併せたがいいが、重石が外れて、めちゃめちゃ。

348年、慕容皝の死

四年夏四月,範文寇九德,多所殺害。五月,大水。秋八月,進安西將軍桓溫為征西大將軍、開府儀同三司,封臨賀郡公;西中郎將謝尚為安西將軍。九月丙申,慕容皝死,子雋嗣偽位。冬十月己未,地震。石季龍使其將苻健寇竟陵。十二月,豫章人黃韜自號孝神皇帝,聚眾數千,寇臨川,太守庾條討平之。

四年夏4月、皇帝を称した林邑の範文は、九德に寇して、多くを殺害した。
5月、大水。
秋8月、安西將軍の桓温を、征西大將軍、開府儀同三司に進め、臨賀郡公に封じた。西中郎將の謝尚を、安西將軍にした。

安西将軍は、桓温から謝尚にトコロテン式で移った。謝安の親類?

9月丙申、慕容皝が死に、子の慕容雋が嗣いだ。
冬10月己未、地震。石虎の将・苻健は、竟陵を寇した。

苻健は、前秦を建国する一族です。氐です。

12月、豫章郡の人・黄韜が、自ら「孝神皇帝」を号して、数千人の兵で臨川郡を寇した。臨川太守の庾條が、黄韜を平定した。

後漢末に、こんな妖族や自称皇帝が多いが、東晋は少ないことに、今気づいた。華北に異民族の皇帝が多いから、それどころじゃないか(笑)

349年、石虎⇒石世⇒石遵⇒石鑒

五年春正月辛巳朔,大赦。庚寅,地震。石季龍僭即皇帝位於鄴。二月,征北大將軍褚裒使部將王龕北伐,獲石季龍將支重。夏四月,益州刺史周撫、龍驤將軍硃燾擊範賁,獲之,益州平。封周撫為建城公。 假慕容雋大將軍、幽平二州牧、大單于、燕王。 征西大將軍桓溫遣督軍滕畯討範文,為文所敗。 石季龍死,子世嗣偽位。 五月,石遵廢世而自立。六月,桓溫屯安陸,遣諸將討河北。石遵揚州刺史王浹以壽陽來降。秋七月,褚裒進次彭城,遣部將王龕、李邁及石遵將李農戰於代陂,王師敗績,王龕為農所執,李邁死之。

五(349)年春正月辛巳朔、大赦した。庚寅、地震。
石虎は、鄴で皇帝を自称した。
2月、征北大將軍の褚裒は、部將の王龕に北伐させた。王龕は、石虎の將・支重を捕えた。
夏4月、益州刺史の周撫と、龍驤將軍の硃燾は、日南の自称皇帝・範賁を捕えた。益州が平定された。功績により、周撫を建城公に封じた。
前燕の慕容雋を、大將軍、幽平二州牧、大單于、燕王に仮した。
征西大將軍の桓温は、督軍の滕畯に、範文を討たせた。だが滕畯は敗れた。
石虎が死に、子の石世が嗣いだ。5月、石遵は、石世を廃して自立した。

後趙、前燕、林邑。建国ラッシュだ。明帝、成帝のときの秩序が壊れた。
流動するからこそ、桓温が洛陽を取り戻すチャンスもあるのだが。

6月、桓温は安陸に駐屯した。桓温は、諸將に河北を討たせた。石遵が任じた揚州刺史の王浹は、寿陽で降った。
秋7月、褚裒が彭城に進軍した。褚裒の部將・王龕と李邁は、石遵の將・李農と、代陂で戦った。褚裒の東晋軍が敗れて、王龕は李農に捕まった。李邁は死んだ。

山東の戦いで、外戚の褚が破れ、桓温が勝っていることに注意。

八月,褚裒退屯廣陵,西中郎將陳逵焚壽春而遁。梁州刺史司馬勳功石遵長城戍,仇池公楊初襲西城,皆破之。冬十月,石遵將石遇攻宛,陷之,執南陽太守郭啟。司馬勳進次懸鉤,石季龍故將麻秋距之,勳退還梁州。十一月丙辰,石鑒弑石遵而自立。十二月己酉,使持節、都督徐兗二州諸軍事、徐州刺史、征北大將軍、開府儀同三司、都鄉侯褚裒卒。以建武將軍、吳國內史荀羨為使持節、監徐兗二州諸軍事、北中郎將、徐州刺史。

349年8月、褚裒は廣陵まで退いた。西中郎將の陳逵は、寿春を焼き払って逃げた。梁州刺史の司馬勳は、石遵の守る長城を攻めた。仇池公の楊初は、西城を襲った。司馬勳も楊初も勝った。
冬10月、石遵の將・石遇が、宛城を陥落させて、南陽太守の郭啟を捕えた。司馬勳は懸鉤に進んだ。石虎の故將・麻秋は、司馬勳を防いだ。司馬勳は退いて、梁州に戻った。
11月丙辰、石鑒は石遵を弑して、自立した。
12月己酉、褚裒が死んだ。褚裒は、使持節、都督徐兗二州諸軍事、徐州刺史、征北大將軍、開府儀同三司、都郷侯だった。建武將軍で呉國内史の荀羨を、使持節、監徐兗二州諸軍事、北中郎將、徐州刺史とした。

350年、冉魏の建国

六年春正月,帝臨朝,以褚裒喪故,懸而不樂。閏月,冉閔弑石鑒,僭稱天王,國號魏。鑒弟祗僭帝號于襄國。丁醜,彗星見於亢。己醜,加中軍將軍殷浩督揚豫徐兗青五州諸軍事、假節。氐帥苻洪遣使來降,以為氐王,封廣川郡公。假洪子健節,監河北諸軍事、右將軍,封襄國縣公。三月,石季龍故將麻秋鴆殺苻洪於枋頭。夏五月,大水。廬江太守袁真攻合肥,克之。六月,石祗遣其弟琨攻冉閔將王泰於邯鄲,琨師敗績。秋八月,輔國將軍、譙王無忌薨。苻健帥眾入關。冬十一月,冉閔圍襄國。十二月,免司徒蔡謨為庶人。是歲,大疫。

六(350)年春正月、穆帝は臨朝した。褚裒の喪中なので、楽しまず。
閏月、冉閔が石鑒を弑して、天王を称して、國號を魏とした。石鑒の弟・石祗は、襄國で皇帝を名乗った。

冉魏の成立だ。五胡十六国に数えられない、漢民族の国。

丁酉、彗星が亢に現れた。
己酉、中軍將軍の殷浩に、督揚豫徐兗青五州諸軍事、假節を加えた。
氐の棟梁である苻洪が、東晋に使者をやって來降した。苻洪を氐王として、廣川郡公に封じた。苻洪の子・苻健に、節を与え、監河北諸軍事、右將軍を仮し、襄國縣公に封じた。
3月、石虎の故將・麻秋が、苻洪を枋頭で鴆殺した。

苻氏は後に前秦を建国しますが、元は石氏の臣です。麻秋の説明は、石虎とのつながりなんですね。石氏を代替わりさせないのはなぜだろう?

夏5月、大水。廬江太守の袁真が合肥を攻めて勝った
6月、襄國の皇帝・石祗は、弟の石琨に命じて、冉閔の將・王泰を邯鄲に攻めた。石琨は敗れた。
秋8月、輔國將軍で譙王の司馬無忌が薨じた。苻健の軍が、関中に入った。
冬11月、冉閔は襄國を包囲した。
12月、司徒の蔡謨を罷免して、庶人とした。この歳、疫病が流行った。

351年、諸民族の立ち代り

七年春正月丁酉,日有蝕之。辛醜,鮮卑段龕以青州來降。苻健僭稱王,國號秦。二月戊寅,以段龕為鎮北將軍,封齊公。石祗大敗冉閔于襄國。夏四月,梁州刺史司馬勳出步騎三萬,自漢中入秦川,與苻健戰于五丈原,王師敗績。加尚書令顧和開府儀同三司。劉顯殺石祗。五月,祗兗州刺史劉啟自鄄城來奔。秋七月,尚書令、左光祿大夫、開府儀同三司顧和卒。甲辰,濤水入石頭,溺死者數百人。八月,冉閔豫州牧張遇以許昌來降,拜鎮西將軍。

七(351)年春正月丁酉、日食。
辛酉、鮮卑の段龕が、青州に來降した。苻健は王を僭称し、國號を秦とした。 2月戊寅、東晋に降った段龕を、鎮北將軍に任じ、齊公に封じた。石祗は、冉閔に襄國で大いに敗れた。
夏4月、梁州刺史の司馬勳は、歩騎30000を率いて、漢中から秦川に入った。司馬勳は苻健と、五丈原で戦った。東晋軍は敗れた。

漢中から関中に北伐し、五丈原で戦うなんて、いいねえ。

尚書令の顧和に、開府儀同三司を加えた。
劉顯が石祗を殺した。5月、石祗が任じた兗州刺史の劉啟は、鄄城から東晋に逃げ込んだ。
秋7月、顧和が死んだ。顧和は、尚書令、左光祿大夫、開府儀同三司だった。 甲辰、濤水が溢れて石頭城に入り、数百人が溺死した。
8月、冉閔が任じた豫州牧の張遇が、許昌で東晋に來降した。張遇を鎮西將軍とした。

九月,峻陽、太陽二陵崩。甲辰,帝素服臨於太極殿三日,遣兼太常趙拔修復山陵。冬十月,雷雨,震電。十一月,石祗將姚弋仲、冉閔將魏脫各遣使來降,以弋仲為車騎將軍、大單于,封高陵郡公;弋仲子襄為平北將軍、都督並州諸軍事、並州刺史、平鄉縣公;脫為安北將軍、監冀州諸軍事、冀州刺史。十二月辛未,征西大將軍桓溫帥眾北伐,次於武昌而止。時石季龍故將周成屯廩丘,高昌屯野王,樂立屯許昌,李曆屯衛國,皆相次來降。

9月、峻陽陵と太陽陵が崩れた。甲辰、穆帝は素服(喪服)で太極殿に三日臨み、兼太常の趙拔に山陵を修復させた。

「兼」ってなに?修復できたってことは、揚州にある陵墓?

冬10月、雷雨、震電。
11月、石祗の將・姚弋仲と、冉閔の將・魏脱が、それぞれ來降の使者を東晋によこした。穆帝は、姚弋仲を車騎將軍、大單于とし、高陵郡公に封じた。姚弋仲の子・姚襄を、平北將軍、都督並州諸軍事、並州刺史、平郷縣公とした。魏脱を安北將軍、監冀州諸軍事、冀州刺史とした。

敵同士が、同時に東晋に使者をやった。詳しく状況を確かめねば。後趙の方が手厚いように見えます。

12月辛未、征西大將軍の桓温が北伐した。だが武昌で止まった。
ときに石虎の故將・周成が廩丘に駐屯し、高昌が野王に駐屯し、樂立が許昌に駐屯し、李曆が衛國に駐屯したていた。みな東晋に降った。