表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』東晋の本紀を、贅沢に訳す

362-65年上、洛陽への殺到

オマケです。
東晋が洛陽を再び失うまで、いちおう見ておきます。

名君・成帝の後継者

哀皇帝諱丕,字千齡,成帝長子也。咸康八年,封為琅邪王。永和元年拜散騎常侍,十二年加中軍將軍,升平三年除驃騎將軍。五年五月丁巳,穆帝崩。皇太后令曰(前頁参照)。於是百官備法駕,迎於琅邪第。庚申,即皇帝位,大赦。壬戌,詔曰:「朕獲承明命,入纂大統。顧惟先王宗廟,蒸嘗無主,太妃喪庭,廓然靡寄,悲痛感摧,五內抽割。宗國之尊,情禮兼隆,胤嗣之重,義無與二。東海王奕,戚屬親近,宜奉本統,其以奕為琅邪王。」 秋七月戊午,葬穆皇帝于永平陵。慕容恪攻陷野王,守將呂護退保滎陽。八月己卯夜,天裂,廣數丈,有聲如雷。九月戊申,立皇后王氏。穆帝皇后何氏稱永安宮。呂護叛奔于莫容。冬十月,安北將軍范汪有罪廢為庶人。十一月丙辰,詔曰:「顯宗成皇帝顧命,以時事多艱,弘高世之風,樹德博重,以隆社稷。而國故不巳,康穆早世,胤祚不融。朕以寡德,複承先緒,感惟永慕,悲育兼摧。夫昭穆之義,固宜本之天屬。繼體承基,古今常道。宜上嗣顯宗,以修本統。」十二月,加涼州刺史張玄靚為大都督隴右諸軍事、護羌校尉、西平公。

哀皇帝は、諱を丕といい、あざなは千齡である。成帝の長子だ。
咸康八(342)年、琅邪王に封じられた。永和元(345)年、散騎常侍となった。十二(356)年、中軍將軍を加えられた。升平三(359)年、驃騎將軍になった。
五(361)年5月丁巳、穆帝が崩じた。皇太后が令した。(前頁で訳済)
百官は法駕を備え、司馬丕を瑯邪王の屋敷に迎えに行った。庚申、哀帝は即位して、大赦した。 壬戌、哀帝は詔した。
「私は皇帝となった。血筋は大事だ。司馬奕を琅邪王とする」
秋7月戊午、穆皇帝を永平陵に葬った。
慕容恪は野王を攻め落とした。野王の守將・呂護は、滎陽まで退いた。
8月己卯夜、天が裂けて、數丈の隙間ができた。雷鳴のような音がした。
9月戊申、王氏を皇后に立てた。穆帝の皇后だった何氏は、永安宮で称政した。
滎陽に退かされた呂護が、東晋を裏切り、莫容イの下に逃げた。
冬10月、安北將軍の范汪を、罪により庶人に貶めた。 11月丙辰、哀帝は詔した。「成帝は社稷を盛んにした。皇帝は早死にして、子孫は続かなかった。私は昭穆之義に則って、成帝の仕事を継ごう」
12月、涼州刺史の張玄靚を、大都督隴右諸軍事、護羌校尉、西平公に。

362年、攻められる洛陽

隆和元年春正月壬子,大赦,改元。甲寅,減田稅,畝收二升。是月,慕容將呂護、傅末波攻陷小壘,以逼洛陽。二月辛未,以輔國將軍、吳國內史庾希為北中郎將、徐兗二州刺史,鎮下邳;前鋒監軍、龍驤將軍袁真為西中郎將、監護豫司並冀四州諸軍事、豫州刺史,鎮汝南,並假節。丙子,尊所生周氏為皇太妃。三月甲寅朔,日有蝕之。夏四月,旱。詔出輕系,振困乏。丁醜,梁州地震,浩釁山崩。呂護複寇洛陽。乙酉,輔國將軍、河南太守戴施奔于宛。五月丁巳,遣北中郎將庾希、竟陵太守鄧遐以舟師救洛陽。秋七月,呂護等退守小平津。進琅邪王奕為侍中、驃騎大將軍、開府。鄧遐進屯新城,庾希部將何謙及慕容將劉則戰于檀丘,破之。八月,西中郎將袁真進次汝南,運米五萬斛以饋洛陽。冬十月,賜貧乏者米,人五斛。章武王珍薨。十二月戊午朔,日有蝕之。詔曰:「戎旅路次,未得輕簡賦役。玄象失度,亢旱為患,豈政事未洽,將有板築、渭濱之士邪!其搜揚隱滯,蠲除苛碎,詳議法令,鹹從損耍。」庾希自下邳退鎮山陽,袁真自汝南退鎮壽陽。

隆和元(362)年春正月壬子、大赦、改元。甲寅、畝あたり二升を減税。
この月(正月)、慕容イの將・呂護、傅末波は、小壘を攻め落として、洛陽に迫った。
2月辛未、輔國將軍で呉國内史の庾希を、北中郎將、徐兗二州刺史として、下邳に出鎮させた。前鋒監軍、龍驤將軍の袁真を、西中郎將、監護豫司並冀四州諸軍事、豫州刺史とし、汝南に出鎮させ、假節とした。
丙子、生母の周氏を皇太妃とした。
3月甲寅朔、日食。夏4月、日照り。哀帝は詔して、生活を補助した。丁酉、梁州で地震があり、山崩れ。呂護がふたたび洛陽を寇した。 乙酉、輔國將軍で河南太守の戴施が、洛陽から宛城に逃げた。

呂護は、東晋の部将として、野王を守っていたのに、、とんだ裏切り者だ・・・

5月丁巳、北中郎將の庾希と、竟陵太守の鄧遐に、水軍で洛陽を救援させた。秋7月、敵の呂護らは退いて小平津を守った。
琅邪王の司馬奕を侍中に進め、驃騎大將軍、開府。
洛陽を救うため、鄧遐は進み、新城に駐屯した。庾希の部將・何謙は、慕容イの將・劉則と、檀丘で戦って勝った。
8月、西中郎將の袁真が汝南に進み、米50000斛を洛陽に届けようとした。
冬10月、貧しい人に1人5斛を支給。 章武王の司馬珍が薨じた。
12月戊午朔、日食。哀帝は、詔した。「軍事行動が続き、税負担を軽くできない。政治改革して耐えよ」
庾希は下邳から退き、山陽へ。袁真は、汝南から退き、壽陽へ。

363年、南へ逃げる滎陽太守

興甯元年春二月己亥,大赦,改元。三月壬寅,皇太妃薨於琅邪第。癸卯,帝奔喪,詔司徒、會稽王昱總內外眾務。夏四月,慕容寇滎陽,太守劉遠奔魯陽。甲戌,揚州地震,湖瀆溢。五月,加征西大將軍桓溫侍中、大司馬、都督中外諸軍事、錄尚書事、假黃鉞。複以西中郎將袁真都督司、冀、並三州諸軍事,北中郎將瘦希都督青州諸軍事。癸卯,慕容陷密城,滎陽太守劉遠奔於江陵。秋七月,張天錫弑涼州刺史、西平公張玄靚,自稱大將軍、護羌校尉、涼州牧、西平公。丁酉,葬章皇太妃。八月,有星孛於角亢,入天市。九月壬戌,大司馬桓溫帥眾北伐。癸亥,以皇子生,大赦。冬十月甲申,立陳留王世子恢為王。十一月,姚襄故將張駿殺江州督護趙毗,焚武昌,略府藏以叛,江州刺史桓沖討斬之。是歲,慕容將慕容塵攻陳留太守袁披于長平。汝南太守硃斌承虛襲許昌,克之。

興甯元(363)年春2月己亥、大赦、改元。3月壬寅、皇太妃が琅邪第で薨じた。癸卯、哀帝は服喪して籠もり、司徒で會稽王の司馬昱に政治を代行させた。
夏4月、慕容イが滎陽を寇した。滎陽太守の劉遠は、魯陽に逃げた。甲戌、揚州で地震、湖水が溢れた。
5月、征西大將軍の桓温に侍中、大司馬、都督中外諸軍事、録尚書事を加え、假黄鉞。また西中郎將の袁真を、都督司、冀、並三州諸軍事とした。北中郎將の瘦希を都督青州諸軍事とした。癸卯、慕容イは密城を陥とし、滎陽太守の劉遠は、江陵に逃げた。

荊州のうち、曹魏の領域だった部分が、慕容部に取られた。

秋7月、張天錫は、涼州刺史で西平公の張玄靚を弑して、自ら大將軍、護羌校尉、涼州牧、西平公を名乗った。
丁酉、皇太妃を葬った。8月、角亢で星が孛ち、天市に入った。
9月壬戌、大司馬の桓温が北伐開始。癸亥、皇子が誕生したから大赦。
冬10月甲申、陳留王の世子・曹恢を王にした。
11月、姚襄の故將・張駿が、江州督護の趙毗を殺し、武昌を焼いた。張駿は、江州府の物資を略奪し、造反。江州刺史の桓沖が、張駿を斬った。
この歳、慕容イの將・慕容塵は、陳留太守の袁披を長平で攻めた。汝南太守の硃斌は、慕容塵の不在を突いて、許昌を襲って勝った。

364年、洛陽にて三つ巴

二年春二月庚寅,江陵地震。慕容將慕容評襲許昌,潁川太守李福死之。評遂侵汝南,太守硃斌遁于壽陽。又進圍陳郡,太守硃輔嬰城固守。桓溫遣江夏相劉岵擊退之。改左軍將軍為遊擊將軍,罷右軍、前軍、後軍將軍五校三將官。癸卯,帝親耕藉田。三月庚戌朔,大閱戶人,嚴法禁,稱為庚戌制。辛未,帝不豫。帝雅好黃老,斷谷,餌長生藥,服食過多,遂中毒,不識萬機,崇德太后複臨朝攝政。夏四月甲申,慕容遣其將李洪侵許昌,王師敗績於懸瓠,硃斌奔於淮南,硃輔退保彭城。桓溫遣西中郎將袁真、江夏相劉岵等鑿陽儀道以通運,溫帥舟師次於合肥,慕容塵複屯許昌。五月,遷陳人于陸以避之。戊辰,以揚州刺史王述為尚書令、衛將軍。以桓溫為揚州牧、錄尚書事。壬申,遣使喻溫入相,溫不從。秋七月丁卯,複征溫入朝。八月,溫至赭圻,遂城而居之。苻堅別帥侵河南,慕容寇洛陽。九月,冠軍將軍陳祐留長史沈勁守洛陽,帥眾奔新城。

二(364)年春2月庚寅、江陵で地震。
慕容イの將・慕容評が、許昌を襲った。潁川太守の李福が殺された。慕容評は汝南を侵し、汝南太守・硃斌が壽陽に逃げた。慕容評は進んで、陳郡を包囲した。陳郡太守の硃輔は嬰城を固く守った。桓温は、江夏相の劉岵に命じ、慕容評を退けさせた。
左軍將軍を改め、遊擊將軍とした。右軍を改めて、前軍、後軍將軍とした。軍の編成が、五校三將官となった。 癸卯、哀帝は自ら藉田を耕した。
3月庚戌朔、法制を厳しくした。これを「庚戌制」と呼ぶ。
辛未、哀帝は倒れた。哀帝は黄老を好み、穀物を食べず、長生藥ばかり飲んだから、中毒になった。哀帝が政治が見られなくなったので、崇德太后がふたたび臨朝攝政した。
夏4月甲申、慕容イの將・李洪は、許昌を侵した。東晋軍は、懸瓠で敗れた。硃斌は淮南に逃げ、硃輔は彭城に退いた。桓温は、西中郎將・袁真と、江夏相・劉岵らに命じて、陽儀道を切り開いて軍資を運ばせた。桓温は水軍を率いて合肥に入った。慕容塵はまた許昌に駐屯した。
5月、陳郡の人を避難させた。戊辰、揚州刺史の王述を尚書令、衛將軍とした。桓温を、揚州牧、録尚書事とした。壬申、桓温に建康で政治をするよう要請したが、断られた。

「桓温伝」を訳したとき、軍権が剥奪されるのを桓温が嫌ったと思った。だが哀帝が倒れているから、中央に戻れば、不満なく政治を仕切れる。権力欲云々ではなく、軍事が大切な局面だから、北伐に残りたかったのだろう。洛陽が危ない。

秋7月丁卯、また桓温に入朝を促した。8月、桓温は赭圻に到った。城は壊れていたが、滞在した。
苻堅の別軍が河南を侵した。慕容イが洛陽を寇した。 9月、冠軍將軍の陳祐は、長史の沈勁を留め、洛陽を守らせた。陳祐は新城に逃げた。

部下に洛陽を任せて、自分は逃げるとは、最低である(笑)
前秦と前燕が、関中と関東で力を蓄え、洛陽を取りに来た。東晋と三つ巴だ。

365年上、黄老の毒薬

三年春正月庚申,皇后王氏崩。二月乙未,以右將軍桓豁監荊州揚州之義城雍州之京兆諸軍事、領南蠻校尉、荊州刺史;桓沖監江州荊州之江夏隨郡豫州之汝南西陽新蔡潁川六郡諸軍事、南中郎將、江州刺史,領南蠻校尉,並假節。丙申,帝崩於西堂,時年二十五。葬安平陵。

三(365)年春正月庚申、皇后の王氏が崩じた。
2月乙未、右將軍の桓豁を、監荊州揚州之義城、雍州之京兆諸軍事とし、南蠻校尉を領ねさせ、荊州刺史とした。桓沖に、監江州荊州之江夏隨郡、豫州之汝南西陽新蔡潁川六郡諸軍事、南中郎將、江州刺史とし、南蠻校尉を領ねさせ、假節を与えた。
2月 丙申、哀帝は西堂で崩じた。25歳だった。安平陵に葬られた。

洛陽の取り合いが烈しく、哀帝が政治に色を出す余地がなかった。だが東晋でただ1人、治世期間中にずっと洛陽を保った皇帝だ。ゆえに秦漢代なみに皇帝としての重圧を感じ、黄老に走ったのかな?名君の子だから、余計に・・・