表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』東晋の本紀を、贅沢に訳す

326-27年、防御の綻び

明帝の次は、成帝です。官名と、キャラ立ちしていない人名ばかりで、かなりシンドイですが、今日やらなかったら永遠にやらない気がする、09年のお盆休みです。

幼帝の即位

成皇帝諱衍,字世根,明帝長子也。太寧三年三月戊辰,立為皇太子。閏月戊子,明帝崩。己醜,太子即皇帝位,大赦,增文武位二等,賜鰥寡孤老帛,人二匹,尊皇后庾氏為皇太后。秋九月癸卯,皇太后臨朝稱制。司徒王導錄尚書事,與中書令庾亮參輔朝政。以撫軍將軍、南頓王宗為驃騎將軍,領軍將軍、汝南王祐為衛將軍。辛醜,葬明帝于武平陵。冬十一月癸巳朔,日有蝕之。廣陵相曹渾有罪,下獄死。

成帝は、諱を(司馬)衍といい、あざなを世根という。明帝の長子だ。

「衍」は、のばす、のびる、よけいだ、たいらだ。史料に混ざりこんでいる要らない字は「衍字」というのだが、これは、余計の意味。でも字義は、それだけじゃない。司馬衍は、余計な子として、明帝に煙たがられたのではない(笑)

太寧三(326)年3月戊辰、皇太子に立てられた。閏月戊子、明帝が崩じた。己酉、成帝は即位した。

後の記述から逆算すると、このとき成帝は5歳。

大赦して、文武の爵位を2ランク上げ、未亡人・孤児・老人に、布を2匹ずつ賜った。生母の庾氏を尊び、皇太后とした。
秋9月月癸卯、庾皇太后が臨朝稱制した。司徒の王導が録尚書事となり、中書令の庾亮とともに朝政を輔けた。撫軍將軍で南頓王の司馬宗は、驃騎將軍となった。領軍將軍で、汝南王の司馬祐は、衛將軍となった。

前世代の王導、次世代の庾亮がツイントップ。三公以上の将軍職に、皇族をつけて固めています。

9月辛酉、明帝を武平陵に埋葬した。
冬11月癸巳朔、日食があった。廣陵国の相である曹渾は、罪により獄死。

咸和元年春二月丁亥,大赦,改元,大酺五日,賜鰥寡孤老米,二人斛,京師百里內複一年。夏四月,石勒遣其將石生寇汝南,汝南人執內史祖濟以叛。甲子,尚書左僕射鄧攸卒。五月,大水。六月癸亥,使持節、散騎常侍、監淮北諸軍事、北中郎將、徐州刺史、泉陵公劉遐卒。癸酉,以車騎將軍郗鑒領徐州刺史,征虜將軍郭默為北中郎將、假節、監淮北諸軍。劉遐部曲將李龍、史迭奉遐子肇代遐位以距默,臨淮太守劉矯擊破之,斬龍,傳首京師。秋七月癸醜,使持節、都督江州諸軍事、江州刺史、平南將軍、觀陽伯應詹卒。八月,以給事中、前將軍、丹陽尹溫嶠為平南將軍、假節、都督,江州刺史。

咸和元(327)年春2月丁亥、大赦して改元した。米と布がバラまかれた。
夏4月、石勒の部将・石生は、汝南郡を寇した。汝南の人は、東晋の役人である内史の祖濟を捕らえて、石勒に味方した。
甲子、鄧攸が死んだ。鄧攸は、尚書左僕射だった。
5月、大水。
6月癸亥、劉遐が死んだ。劉遐は、使持節、散騎常侍、監淮北諸軍事、北中郎將、徐州刺史、泉陵公だった。
癸酉、車騎將軍の郗鑒に、徐州刺史を領ねさせた。征虜將軍の郭默を、北中郎將にして、假節、淮北の諸軍を担当させた。
この人事を受け、劉遐の部曲の将軍・李龍が、東晋に叛いた。李龍は、劉遐の子・劉肇を奉って、東晋が劉遐の後任として送り込んだ、郭默を締め出した。臨淮太守の劉矯は、李龍を斬って、首を建康に送った。
秋7月癸酉、應詹が死んだ。應詹は、使持節、都督江州諸軍事、江州刺史、平南將軍、觀陽伯だった。

明帝が配置した、北と西の守りが代替わりしてしまった。

8月、給事中・前將軍・丹陽尹の温嶠を、平南將軍として、假節、都督、江州刺史に任じた。

九月,旱。李雄將張龍寇涪陵,執太守謝俊。冬十月,封魏武帝玄孫曹勵為陳留王,以紹魏。丙寅,衛將軍、汝南王祐薨。己巳,封皇弟岳為吳王。車騎將軍、南頓王宗有罪,伏誅,貶其族為馬氏。免太宰、西陽王羕,降為弋陽縣王。庚辰,赦百里內五歲以下刑。是月,劉曜將黃秀、帛成寇酂,平北將軍魏該帥眾奔襄陽。十一月壬子,大閱於南郊。改定王侯國秩,九分食一。石勒將石聰攻壽陽,不克,遂侵逡遒、阜陵。加司徒王導大司馬、假黃鉞、都督中外征討諸軍事以禦之。曆陽太守蘇峻遣其將韓晃討石聰,走之。時大旱,自六月不雨,至於是月。十二月,濟岷太守劉闓殺下邳內史夏侯嘉,叛降石勒。梁王翹薨。

327年9月、日照り。
李雄の將・張龍が、涪陵郡を寇した。張龍は、涪陵太守の謝俊を捕らえた。
冬10月、曹操の玄孫・曹勵を、陳留王にして、魏を継がせた。

なぜこのタイミング?そして曹勵は、どの系統?

9月丙寅、衛將軍で汝南王の司馬祐が薨じた。
己巳、皇弟の司馬岳を封じて、呉王とした。

司馬岳は、つぎの康帝です。

車騎將軍で南頓王の司馬宗は、罪により誅された。司馬宗の一族は、貶められて「馬氏」を名乗らされた。太宰で西陽王の司馬羕を免じて、弋陽縣王に降格した。

皇族の追放事件。列伝を読まねば。最高権力者の司馬羕を降ろすとは、普通ではない。っていうか、「司馬」がランクダウンすると「馬」になるのか?

庚辰、刑罰を軽減。
この月(9月)、劉曜の部将・黄秀と帛成が、酂を寇した。平北將軍の魏該は、兵を率いて襄陽に逃げ込んだ。
11月壬子、南郊で祭祀。王侯の國秩を改め、9分の1を返上させた。
石勒の部将・石聡が、壽陽を攻めた。だが東晋が勝利した。石聡は矛先を変えて、阜陵を攻めた。 歴陽太守の蘇峻は、部将の韓晃に、石勒の部将・石聡を討たせた。東晋の韓晃は、後趙の石聡を敗走させた。
司徒の王導に大司馬を加え、假黃鉞、都督中外征討諸軍事として、軍事の全責任者とした。
ひどい日照りで、6月から9月まで、雨が一滴も降らなかった。
12月、濟岷太守の劉闓は、下邳の内史である夏侯嘉を殺し、石勒に投降した。梁王の司馬翹が薨じた。