336-40年、重鎮が作る平穏
元服した成帝が親政してる。日照りは気になるが、東晋は順調?
後趙と成漢は、後継争いで潰しあい、外圧が少ない。
336年、杜氏の立皇后
二年春正月辛巳,彗星見於奎。以吳國內史虞潭為衛將軍。二月,算軍用稅米,空懸五十余萬石,尚書謝褒巳下免官。辛亥,立皇后杜氏,大赦,增文武位一等。庚申,高句驪遣使貢方物。三月,旱,詔太官減膳,免所旱郡縣繇役。戊寅,大雩。夏四月丁巳,皇后見於太廟。雨雹。秋七月,揚州會稽饑,開倉振給。冬十月,廣州刺史鄧岳遣督護王隨擊夜郎,新昌太守陶協擊興古,並克之。詔曰:「曆觀先代,莫不褒崇明祀,賓禮三恪。故杞宋啟土,光于周典;宗姬侯衛,垂美漢冊。自頃喪亂,庶邦殄悴,周漢之後,絕而莫繼。其祥求衛公、山陽公近屬,有履行修明,可以繼承其祀者,依舊典施行。」新作硃雀浮桁。十一月,遣建威將軍司馬勳安集漢中,為李期將李壽所敗。
二(336)年春正月辛巳、彗星が奎(星座の領域)に見えた。呉國内史の虞潭を、衛將軍とした。
2月、軍事用に税米を転用し、50余萬石の赤字?尚書の謝褒以下を免官した。辛亥、杜氏を皇后に立て、大赦して、文武官の爵位を1ランク上げた。庚申、高句麗が朝貢した。
3月、日照り。詔して、官費を節減させ、日照りの郡県の徭役を減らした。戊寅、大いに雨乞い。
夏4月丁巳、杜皇后が太廟に詣でた。雹が降った。
秋7月、揚州の會稽郡で飢饉があり、国倉を開いて食料を支給した。
冬10月、廣州刺史の鄧岳は、督護の王隨に、夜郎を撃たせた。新昌太守の陶協に、興古を撃たせた。どちらも勝った。成帝は詔した。
「古代の祭祀が、戦乱で停止している。衛公や山陽公(後漢献帝?)のご利益に授かれるように、旧典どおりに祭祀せよ」
新たに硃雀に浮桁を作った。
11月、建威將軍の司馬勳に漢中で攻めさせ、東晋に帰属させようとした。だが司馬勳は、李期の部将・李壽に敗れた。
337年、前燕の王号
三年春正月辛卯,立太學。夏六月,旱。冬十一月丁卯,慕容皝自立為燕王。
三(337)年春正月辛卯、成帝は太学を立てた。
夏6月、日照り。
冬11月丁卯、慕容皝は自立して、燕王を名乗った。
338年、丞相・王導の誕生
四年春二月,石季龍帥眾七萬,擊段遼於遼西,遼奔于平崗。夏四月,李壽弑李期。僭即偽位,國號漢。石季龍為慕容皝所敗,癸醜,加皝征北大將軍。五月乙未,以司徒王導為太傅、都督中外諸軍事,司空郗鑒為太尉,征西將軍庾亮為司空。六月,改司徒為丞相,乙太傅王導為之。秋八月丙午,分甯州置安州。
四(338)年春2月、石虎は7万を率いて、鮮卑の段部を遼西で撃った。遼にいた段部は、平崗に逃げた。
夏4月、成漢で、李壽が李期を弑して君主となり、国号を漢と称した。石虎は、慕容皝に敗れた。癸酉、成帝は慕容皝に征北大將軍を加えた。
5月乙未、司徒の王導を太傅とし、都督中外諸軍事。司空の郗鑒を太尉とした。征西將軍の庾亮を司空とした。
6月、司徒を改めて丞相として、王導を就任させた。
秋8月丙午、甯州を分けて、安州を置いた。
339年、王導と郗鑒の死
五年春正月辛醜,大赦。三月乙丑,廣州刺史鄧岳伐蜀,建甯人孟彥執李壽將霍彪以降。夏四月辛未,征西將軍庾亮遣參軍趙松擊巴郡、江陽,獲石季龍將李閎、黃桓等。秋七月庚申,使持節、侍中、丞相、領揚州刺史、始興公王導薨。辛酉,以護軍將軍何充錄尚書事。八月壬午,複改丞相為司徒。辛酉,太尉、南昌公郗鑒薨。九月,石季龍將夔安、李農陷沔南,張貉陷邾城,因寇江夏、義陽,征虜將軍毛寶、西陽太守樊俊、義陽太守鄭進並死之。夔安等進圍石城,竟陵太守李陽距戰,破之,斬首五千餘級。安乃退,遂略漢東,擁七千余家遷于幽冀。冬十二月丙戌,以驃騎將軍、琅邪王岳為司徒。李壽將李奕寇巴東,守將勞揚戰敗,死之。
五(339)
年春正月辛酉、成帝は大赦した。
3月乙丑、廣州刺史の鄧岳が蜀を征伐した。建甯郡の人・孟彦は、李壽の部将・霍彪を降した。
夏4月辛未、征西將軍の庾亮は、參軍の趙松に巴郡、江陽郡を撃たせた。趙松は、石虎の部将・李閎、黄桓らを捕えた。
秋7月庚申、王導が薨じた。王導は、使持節、侍中、丞相、領揚州刺史、始興公であった。
辛酉、護軍將軍の何充を、録尚書事にした。
8月壬午、ふたたび丞相を改め、司徒に戻した。
辛酉、郗鑒が薨じた。郗鑒は、太尉、南昌公だった。
9月、石虎の部将・夔安、李農が、沔南を陥落させた。石虎の部将・張貉が、邾城を陥落させた。江夏郡、義陽郡が寇されたので、征虜將軍の毛寶、西陽太守の樊俊、義陽太守の鄭進は、死んでしまった。
石虎の部将・夔安らは、進軍して石城を包囲した。竟陵太守の李陽は、夔安ら防いで破り、5000余級を斬首した。東晋方の李陽に敗れた夔安は退き、漢東を侵略した。漢東で人狩りをして、7000余家が、幽州や冀州に強制移住させられた。
冬12月丙戌、驃騎將軍で琅邪王の司馬岳を、司徒にした。李壽の部将・李奕が、巴東郡を寇した。東晋方の守将・勞揚は、敗北して死んだ。
340年、慕容皝から勝報
六年春正月庚子,使持節、都督江豫益梁雍交廣七州諸軍事、司空、都亭侯庾亮薨。辛亥,以左光祿大夫陸玩為司空。二月,慕容皝及石季龍將石成戰於遼西,敗之,獻捷于京師。庚辰,有星孛於太微。三月丁卯,大赦。以車騎將軍、東海王沖為驃騎將軍。李壽陷丹川,守將孟彥、劉齊、李秋皆死之。秋七月乙卯,初依中興故事,朔望聽政於東堂。冬十月,林邑獻馴象。十一月癸卯,複琅邪,比漢豐沛。
六(340)年春正月庚子、庾亮が薨じた。庾亮は、使持節、都督江豫益梁雍交廣七州諸軍事、司空、都亭侯だった。
正月辛亥、左光祿大夫の陸玩を司空とした。
2月、慕容皝と、石虎の部将・石成が遼西で戦った。慕容皝が石成を破り、勝利を東晋に献じた。
庚辰、太微の星座で星孛。
3月丁卯、大赦した。車騎將軍で東海王の司馬沖を、驃騎將軍にした。
李壽が丹川を陥落させ、東晋の守將・孟彥、劉齊、李秋がみな死んだ。
秋7月乙卯、司馬睿が中興した故事に則り、初めて成帝は東堂で聴政した。
冬10月、林邑は、訓練されたゾウを献じた。
11月癸卯,琅邪郡を、漢代の豐沛になぞらえた。