表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』東晋の本紀を、贅沢に訳す

370-72年、賢帝の退場

司馬昱に即位を打診し、内外の敵と戦う桓温。狙いは・・・?   

370年、前燕の滅亡

五年春正月己亥,袁真子雙之、愛之害梁國內史硃憲、汝南內史硃斌。二月癸酉,袁真死,陳郡太守硃輔立真子瑾嗣事,求救于慕容。夏四月辛未,桓溫部將竺瑤破瑾于武丘。秋七月癸酉朔,日有蝕之。八月癸醜,桓溫擊袁瑾于壽陽,敗之。九月,苻堅將猛伐慕容,陷其上黨。廣漢妖賊李弘與益州妖賊李金根聚眾反,弘自稱聖王,眾萬餘人,梓潼太守周虓討平之。冬十月,王猛大破慕容將慕容評於潞川。十一月,猛克鄴,獲慕容,盡有其地。

五(370)年春正月己亥、袁真の子・袁雙之と袁愛之は、梁國内史・硃憲と、汝南内史・硃斌を殺害した。
2月癸酉、袁真が死んだ。陳郡太守の硃輔は、袁真の子・袁瑾に父を継がせようと、慕容イに救いを求めた。

桓温と袁真は対立した。桓温の敵の慕容部は、袁氏の味方・・・ということ?

夏4月辛未、桓温の部將・竺瑤は、袁真の子・袁瑾を、武丘で破った。
秋7月癸酉朔、日食。
8月癸酉、桓温は、袁真の子・袁瑾を壽陽で破った。
9月、苻堅の將・王猛が、慕容イを討って、上党郡を陥落させた。
廣漢郡の妖賊・李弘と、益州の妖賊・李金根が、民衆を集めて叛乱した。李弘は「聖王」を自称して、万余人を集めた。梓潼太守の周虓が、李弘らを平定した。
冬10月、苻堅の将・王猛が、慕容イの將・慕容評を、潞川で大いに破った。
11月、苻堅の将・王猛は、鄴で勝ち、慕容イを捕えた。慕容イの領地を、全て手に入れた。

前燕の滅亡。後趙のとき幽州にいて、東晋から爵位を送られてた国の終幕。

371年、皇帝を廃する口実

六年春正月,苻堅遣將王鑒來援袁瑾,將軍桓伊逆擊,大破之。丁亥,桓溫克壽陽,斬袁瑾。三月壬辰,監益甯二州諸軍事、冠軍將軍、益州刺史、建城公周楚卒。夏四月戊午,大赦,賜窮獨米,人五斛。苻堅將苻雅伐仇池,仇池公楊纂降之。六月,京都及丹陽、晉陵、吳郡、吳興、臨海並大水。秋八月,以前甯州刺史周仕孫為假節、監益梁二州諸軍事、益州刺史。冬十月壬子,高密王俊薨。十一月癸卯,桓溫自廣陵屯于白石。

六(371)年春正月、苻堅の將・王鑒は、袁真の子・袁瑾を救援した。桓温の將軍・桓伊は、苻堅の將・王鑒を、返り討ちにした。丁亥、桓温は壽陽で勝ち、袁瑾を斬った。

前秦-桓温-袁真と前燕、という構図だったが、3つ目が片付いた。

3月壬辰、周楚が死んだ。周楚は、監益甯二州諸軍事、冠軍將軍、益州刺史、建城公だった。
夏4月戊午、大赦し、貧しい人に5斛ずつ配った。
苻堅の將・苻雅は、仇池を攻撃した。仇池公・楊纂は、苻雅に降伏した。

前秦が、華北再統一に向けて進んでいます。

6月、京都(建康)、丹陽、晉陵、吳郡、吳興、臨海で大水。
秋8月、前も甯州刺史である周仕孫を、假節、監益梁二州諸軍事、益州刺史とした。 冬10月壬子、高密王の司馬俊が薨じた。
11月癸卯、桓温は広陵から白石へ遷って、駐屯した。

丁未,詣闕,因圖廢立,誣帝在籓夙有痿疾,嬖人相龍、計好、硃靈寶等參侍內寢,而二美人田氏、孟氏生三男,長欲封樹,時人惑之,溫因諷太后以伊霍之舉。己酉,集百官於朝堂,宣崇德太后令曰:「王室艱難,穆、哀短祚,國嗣不育儲宮靡立。琅邪王奕親則母弟,故以入纂大位。不圖德之不建,乃至於斯。昏濁潰亂,動違禮度。有此三孽,莫知誰子。人倫道喪,醜聲遐布。既不可以奉守社稷,敬承宗廟,且昏孽並大,便欲建樹儲籓。誣罔祖宗,頌移皇基,是而可忍,孰不可懷!今廢奕為東海王,以王還第,供衛之儀,皆如漢朝昌邑故事。但未亡人不幸,罹此百憂,感念存沒,心焉如割。社稷大計,義不獲已。臨紙悲塞,如何可言。」

371年10月丁未、桓温は朝廷に来て、皇帝の廃立を図った。桓温曰く、
「いまの皇帝は、まだ藩王だったとき、行動に欠陥がありました。ろくでもない側近と癒着し、謀略を巡らすのが好きです。 ことに靈寶らは、後宮の中で寝泊りしました。2人の美人(妻のランク)田氏、孟氏は、3人の男子を産みました。男子たちが大きくなると、皇帝の子だか分からないのに、王に封じたいと言っています。世間の人は、皇帝のやり方に戸惑っています。」
桓温は皇太后に、伊尹、霍光の行いについて吹き込んだ。

皇帝がダメなら、有力な臣が政治を代行すべきだよ、と桓温は言ったのだ。

己酉、百官を朝堂に集めて、崇德太后は令した。
「東晋の皇室は、艱難を受けています。穆帝、哀帝は、短い在位で死にました。皇帝の後継者が、育っていませんでした。琅邪王の司馬奕は、哀帝の同母弟なので、即位しました。いまの皇帝・廃帝です。でも廃帝は、不徳の君主で、今日まで過ごしました。昏濁潰亂、彼の行動は、禮度に反します。廃帝は、3人の皇子を養っていますが、誰の子だか分からない。そんな皇子に、東晋の皇統を継がせてはいけない。いま、皇帝の司馬奕を廃して東海王とし、王の屋敷に帰らせましょう。司馬奕に付ける供回りは、漢朝の昌邑の故事に倣いなさい。不本意だが、国のために皇帝をクビにします」

昌邑って何だっけ。調べねば・・・部屋にネット繋がってないって、不便だ。


於是百官入太極前殿,即日桓溫使散騎侍郎劉享收帝璽綬。帝著白帢單衣,步下西堂,乘犢車出神獸門。群臣拜辭,莫不覷欷。侍御史、殿中監將兵百人衛送東海第。

百官は太極前殿に入った。その日のうちに桓温は、散騎侍郎の劉享に命じ、廃帝から璽綬を取り上げさせた。
廃帝は、白帢單衣で、歩いて西堂を下り、犢車に乗って、神獸門を出た。群臣は拜辭しなかった。群臣で、泣かない人はいなかった。侍御史、殿中監の將兵は、100人が廃帝を東海王の屋敷に送った。

初,桓溫有不臣之心,欲先立功河朔,以收時望。及枋頭之敗,威名頓挫,逐潛謀廢立,以長威權。然憚帝守道,恐招時議。以宮闡重悶,床笫易誣,乃言帝為閹,遂行廢辱。初,帝平生每以為慮,嘗召術人扈謙筮之,卦成,答曰:「晉室有磐石之固,陛下有出宮之象。」竟如其言。

桓温は不臣之心を抱いた。まず河朔に北伐して、功績を立てた。時望が桓温に集まった。だが桓温は、枋頭で敗れたため、威名が頓挫した。桓温は、皇帝を廃立して、自らの威權を大きくしようと考えた。
だが廃帝は道義を守る人だった。桓温は、廃帝が時議に支持されることを恐れた。桓温は、廃帝が宮廷の奥で側近に相談することに目をつけた。廃帝に生殖能力がないと言いふらして、皇子を他人の子だというデマを作り上げた。 然憚帝守道,恐招時議。以宮闡重悶,床笫易誣,乃言帝為閹,遂行廢辱。

「闡」は、がらりと、あけすけに開けること。「閹」は、生殖能力がないこと。「閹」は宦官も指すが、ここでは違うね。『晋書』が、門構えの字を引っ掛けた。

廃帝は、いつも先々のことを心配していた。筮竹で占わせたら、卦が出た。
晋室が揺らぐことはありませんが、あなたは宮殿を出るようです」
ついに、この卦のとおりになった。

卦の話は創作としても・・・廃帝の罪は、養子を実子と偽ったこと? 迫力のない悪事だよな。それに、DNA鑑定でもしないと、証拠もない。非科学的な「呪いをかけた」罪の方が、証拠がある(作れる)から、まだ裁きやすい。
側近を奥まで入れたのは、政治を相談するため? 廃帝の熱心さの証?

372年-、廃帝のその後

咸安二年正月,降封帝為海西縣公。四月,徙居吳縣,敕吳國內史刁彝防衛,又遣禦史顧允監察之。十一月,妖賊盧悚遣弟子殿中監許龍晨到其門,稱太后密詔,奉迎興複。帝初欲從之,納保母諫而止。龍曰:「大事將捷,焉用兒女子言乎?」帝曰:「我得罪於此,幸蒙寬宥,豈敢妄動哉!且太后有詔,便應官屬來,何獨使汝也?汝必為亂。」因叱左右縛之,龍懼而走。

咸安二(372)年正月、廃帝は東海王から降格され、海西縣公となった。
4月、廃帝は、呉縣に移された。呉國内史の刁彝が、廃帝を防衛した。禦史の顧允が、廃帝を監察した。
11月、妖賊の盧悚が、弟子で殿中監の許龍に命じて、廃帝の門前に早朝に行かせた。太后の密詔だと偽って、帝位に戻すために連れ出そうとした。はじめ廃帝は、許龍に従いて行きたいと思った。だが、母が諌めるのと聞き入れて、出るのを辞めた。
廃帝が出てこないから、許龍が言った。
「大事(復位)が、成功しそうだ。なぜ女子供の意見を聞くのですか?」
廃帝は答えた。
「私は罪を得て、ここにいるのです。幸いにして罪を許されたとしても、どうして軽々しく動いて良いでしょうか(反省の色が示せません)。加えて、もし太后の詔ならば、多くの役人がお供して来るはずです。あなた1人だけを遣すわけがない。あなたは、私を叛乱に巻き込もうとしている」
廃帝は、左右の人を叱り、許龍を縛らせた。許龍は懼れて逃げた。

帝知天命不可再,深慮橫禍,乃杜塞聰明,無思無慮,終日酣暢,耽於內寵,有子不育,庶保天年。時人憐之,為作歌焉。朝廷以帝安於屈辱,不復為虞。太元十一年十月甲申,薨于吳,時年四十五。

天命が2度と自分に下らないと、廃帝は心得ていた。だから思慮を深め、禍いを避けた。
だが後年、聡明さを自ら塞いでしまい、思慮がなくなった。終日酒を飲んで、女遊びをした。子がいたが育てず、天寿の全うを願った。

子は、廃位された理由。子を利用し、担ぎ上げられる可能性がある。

人々は廃帝を憐れみ、廃帝の子をテーマにして、漢詩を作った。朝廷は、廃帝が屈辱的な暮らしに甘んじているから、廃帝を警戒しなかった。

帝位にあるときは、洛陽を奪われたばかりで、政治手腕を見せられなかった。だが、廃帝はとても賢かった。惜しいことである・・・と、『晋書』は言いたいのでしょう。

太元十一(386)年10月甲申、呉で薨じた。45歳だった。

おわりに

東晋は、桓温を建康に呼び戻してしまった。東晋の有力な将軍は洛陽を遠巻きに見ていただけ。洛陽に殉じたのは、沈勁ぐらいのもの。東晋は、洛陽を半ば諦めていたようだ。
洛陽に執着しない東晋。洛陽の維持に貪欲な桓温。
皇帝の下にいる吏民とは、洛陽で天下統一する王朝に仕えたいもの。これは漢代から、三国時代を経て、変わらない価値観である。東晋に見切りをつけ、桓温に支持が移っても、不自然ではない。桓温が東晋帝を廃しても、容認される空気があったかも。

裴松之は『三国志』に、『漢晋春秋』から注釈した。著者の習鑿歯は、

1) 洛陽を手放さずに、天下統一を目指すべきだ
2) だが桓温ではなく、司馬氏に統一を目指してほしい

という、現実に反した理想を持っていたように思います。東晋にも桓温にも文句をつけた習鑿歯は、誰にも理解されずに死んでいくのでした。
『漢晋春秋』の生まれた背景や、歴史的意義を知りたくて、『晋書』の本紀を訳しました。終わりです。090816