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359-61年、皇統を戻す

いま洛陽は、東晋がキープしています!

359年、北伐継続の意思

三年春三月甲辰,詔以比年出軍,糧運不繼,王公已下十三戶借一人一年助運。秋七月,平北將軍高昌為慕容雋所逼,自白馬奔于滎陽。冬十月慕容雋寇東阿,遣西中郎將謝萬次下蔡,北中郎將郗曇次高平以擊之,王師敗績。十一月戊子,進揚州刺史王述為衛將軍。十二月,又以中軍將軍、琅邪王丕為驃騎將軍,東海王奕為車騎將軍。封武陵王晞子逢為梁王。交州刺史溫放之帥兵討林邑參黎、耽潦,並降之。

三(359)年春3月甲辰、穆帝は詔した。
「近年は出兵が多く、兵糧が続かない。王公以下、13戸に1人の割合で、1年間、兵糧の輸送を手伝え」

積極的な北伐が国力に負担だが、やめる気はないらしい。みすみす洛陽を手放す理由が、まるでない!

秋7月、平北將軍の高昌は、慕容雋に攻められた。白馬から逃げ出し、滎陽に入った。
冬10月、慕容雋は東阿を寇した。穆帝は、西中郎將の謝萬を下蔡に行かせ、北中郎將の郗曇を高平に行かせ、慕容雋を攻撃した。東晋軍は敗れた。
11月戊子、揚州刺史の王述を、衛將軍に進めた。
12月、中軍將軍で琅邪王の司馬丕を、驃騎將軍にした。東海王の司馬奕を、車騎將軍にした。武陵王の司馬晞の子・司馬逢を梁王にした。

司馬丕も司馬奕も、成帝の子で、穆帝の従兄。2人とも後に皇帝になる。

交州刺史の温放之は、林邑の參黎、耽潦を降した。

360年、鳳凰のバーゲンセール

四年春正月,仇池公楊俊卒,子世嗣。丙戌,慕容雋死,子嗣偽位。二月,鳳皇將九雛見於豐城。秋七月,以軍役繁興,省用撤膳。八月辛醜朔,日有蝕之,既。冬十月,天狗流於西南。十一月,封太尉桓溫為南郡公,溫弟沖為豐城縣公,子濟為臨賀郡公。鳳皇複見豐城,眾鳥隨之。

四(360)年春正月、仇池公の楊俊が死に、子の楊世が嗣いだ。丙戌、慕容雋が死に、子の慕容イが嗣いだ
2月、鳳皇が、9匹のヒナを連れて、豐城に現れた。

穆帝はもうすぐ、子を残さずに死ぬわけですが。鳳凰は出番を間違えた?
それとも鳳凰の多いヒナは、華北の諸王朝を指す?

秋7月、軍事出費が多いから、皇帝の食費を削った。
8月辛酉朔、日食。冬10月、天狗が西南に流れ着いた。

日本にいる鼻が高い怪人じゃなく、天から降ってきたイヌ?

11月、太尉の桓温を、南郡公に封じた。桓温の弟・桓沖を、豐城縣公にした。桓温の子・桓濟を、臨賀郡公にした。
鳳凰が、ふたたび豐城に現れた。多くの鳥が、鳳凰に随って飛んだ。

361年、成帝系の復帰

五年春正月戊戌,大赦,賜鰥寡孤獨不能自存者,人米五斛。北中郎將、都督徐兗青冀幽五州諸軍事、徐兗二州刺史郗曇卒。二月,以鎮軍將軍范汪為都督徐兗青冀幽五州諸軍事、安北將軍、徐兗二州刺史。平南將軍、廣州刺史、陽夏侯滕含卒。夏四月,大水。太尉桓溫鎮宛,使其弟豁將兵取許昌。鳳皇見於沔北。
五月丁巳,帝崩于顯陽殿,時年十九。葬永平陵,廟號孝宗。

五(361)年春正月戊戌、穆帝は大赦した。米を5斛ずつ、生活補助した。
郗曇が死んだ。郗曇は、北中郎將、都督徐兗青冀幽五州諸軍事、徐兗二州刺史だった。
2月、鎮軍將軍の范汪を、都督徐兗青冀幽五州諸軍事、安北將軍、徐兗二州刺史とした。
滕含が死んだ。 滕含は、平南將軍、廣州刺史、陽夏侯だった。
夏4月、大水。太尉の桓温は宛城に出鎮した。桓温の弟・桓豁は、兵を率いて許昌を取った。
鳳皇が、沔北に現れた。
5月丁巳、穆帝は顯陽殿で崩じた。19歳だった。永平陵に葬られた。廟號は孝宗である。

(哀帝紀より抜粋)
皇太后令曰:「帝奄不救疾,胤嗣未建。琅邪王丕,中興正統,明德懋親。昔在咸康,屬當儲貳。以年在幼沖,未堪國難,故顯宗高讓。今義望情地,莫與為比,其以王奉大統。」

皇太后が令した。
「穆帝は、病気が治らない。だが皇子がまだいない。琅邪王の司馬丕(成帝の子)よ、正統を中興し、明德懋親せよ。むかし咸康年間(-342)、傍流から皇帝を輩出させた。当時は、司馬丕が幼く、国内に堪えられないと考えたので、亡き顯宗(成帝)は、皇統を康帝に譲ったのである。いま司馬丕は義望情地、もっとも適任である。司馬丕は、大統を奉れ」

これが哀帝です。このとき、21歳。ちなみに父の成帝が死んだときは、2歳だった。ところで・・・康帝が死に、今の穆帝が即位したときも、2歳だった。康帝が死んだときに、哀帝を即位させても同じだった?