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325年、明帝の死

王敦を滅ぼした歳が終わりましたが、明帝が死にます。王敦を滅ぼすためだけに、皇帝になったような人です。

国家の身づくろい

三年春二月戊辰,複三族刑,惟不及婦人。三月,幽州刺史段末波卒,以弟牙嗣。戊辰,立皇子衍為皇太子,大赦,增文武位二等,大酺三日,賜鰥寡孤獨帛,人二匹。癸巳,征處士臨海任旭、會稽虞喜並為博士。夏四月,詔曰:「大事初定,其命惟新。其令太宰、司徒巳下,詣都坐參議政道,諸所因革,務盡事中。」又詔曰:「餐直言,引亮正,想群賢達吾此懷矣。予違汝弼,堯舜之相君臣也。吾雖虛暗,庶不距逆耳之談。稷契之任,君居之矣。望共勖之。」己亥,雨雹。石勒將石良寇兗州,刺史檀贇力戰,死之。將軍李矩等並眾潰而歸,石勒盡陷司、兗、豫三州之地。五月,以征南大將軍陶侃為征西大將軍、都督荊湘雍梁四州諸軍事、荊州刺史,王舒為安南將軍、都督廣州諸軍事、廣州刺史。

太寧三(325)年春2月戊辰、ふたたび三族を連座させる刑を復活させた。だが、婦人は連座させなかった。
3月、幽州刺史の段末波が死んだ。弟の段牙が嗣いだ。

この鮮卑は、東晋と同盟関係です。

戊辰、皇子の司馬衍を皇太子にした。これを祝って大赦し、文武の官人を2ランクアップさせた。宴会が3日開かれ、孤児や未亡人に2匹ずつ布が配られた。癸巳、任旭と虞喜を博士にした。
夏4月、明帝は詔した。
「東晋の建国事業が、やっと定まった。天命は刷新された。太宰と司徒(司馬羕と王導)以下、政治に努めてくれ」
また明帝は詔した。
「私は、あまり賢くない君主である。どんな耳に痛い諫言も聞くつもりだから、アドバイスしてくれ」
己亥、雹が降った。
石勒の部将・石良が、兗州を寇した。兗州刺史の檀贇は、力戰したが殺された。將軍の李矩らは、軍を全滅させて、逃げ帰ってきた。石勒は、司州・兗州・豫州の3州を、勢力下に収めた。
5月、征南大將軍の陶侃を、征西大將軍とした。陶侃に、荊・湘・雍・梁の4州の諸軍事を任せ、荊州刺史とした。王舒を安南將軍とし、廣州の諸軍事を任せ、廣州刺史とした。

六月,石勒將石季龍攻劉曜將劉岳於新安,陷之。以廣州刺史王舒為都督湘州諸軍事、湘州刺史,湘州刺史劉顗為平越中郎將、都督廣州諸軍事、廣州刺史。大旱,自正月不雨,至於是月。秋七月辛未,以尚書令郗鑒為車騎將軍、都督青兗二州諸軍事、假節,鎮廣陵,領軍將軍卞壼為尚書令。詔曰:「三恪二王,世代之所重;興滅繼絕,政道之所先。又宗室哲王有功勳于大晉受命之際者,佐命功臣,碩德名賢,三祖所與共維大業,咸開國胙土、誓同山河者,而並廢絕,禋祀不傳,甚用懷傷。主者其祥議諸應立後者以聞。」又詔曰:「郊祀天地,帝王之重事。自中興以來,惟南郊,未曾北郊,四時五郊之禮都不復設,五嶽、四瀆、名山、大川載在祀典應望秩者,悉廢而未舉。主者其依舊詳處。」

325年6月、石勒の部将・石虎は、劉曜の部将・劉岳を、新安で攻めて陥落させた。
廣州刺史の王舒に、湘州の諸軍事を任せて、湘州刺史とした。湘州刺史の劉顗を、平越中郎將として、廣州の諸軍事を任せ、廣州刺史とした。

王舒と劉顗の単純な入れ替え。列伝で経緯を知らねば。

日照りがひどくて、正月から雨が降らないまま、半年が経った。
秋7月辛未、尚書令の郗鑒を車騎將軍として、青州と兗州の諸軍事任せ、假節、廣陵に出鎮させた。領軍將軍の卞壼を、尚書令とした。
明帝は詔した。
「三恪と二王は、歴代ずっと重視されてきた。興隆と滅亡、継承と断絶は、政道が先んじられるところだ。司馬氏の建国を助けた佐命の功臣に対し、西晋が滅びてから祭祀が途絶えている。傷ましいことだ。子孫を探し出して、祭祀が絶えないようにせよ」

昨日読んだ『漢晋春秋』でも、晋の建国で「三恪」が出てきた。誰?

また詔した。
「天地を祭ることは、帝王の重要な仕事だ。東晋を中興してから、南郊で祭祀をやるだけで、北郊で祭祀をやっていない。古代以来の作法を研究して、明らかにせよ」

明帝の死

八月,詔曰:「昔周武克殷,封比干之墓;漢高過趙,錄樂毅之後,追顯既往,以勸將來也。吳時將相名賢之胄,有能纂修家訓,又忠孝仁義,靜己守真,不聞于時者,州郡中正亟以名聞,勿有所遺。」閏月,以尚書左僕射荀崧為光祿大夫、錄尚書事,尚書鄧攸為尚書左僕射。壬午,帝不豫,召太宰、西陽王羕,司徒王導,尚書令卞壼,車騎將軍郗鑒,護軍將軍庾亮,領軍將軍陸曄,丹陽尹溫嶠並受遺詔,輔太子。丁亥,詔曰:「自古有死,賢聖所同,壽夭窮達,歸於一概,亦何足特痛哉!朕枕疾已久,常慮忽然。仰惟祖宗洪基,不能克終堂構,大恥未雪,百姓塗炭,所以有慨耳。不幸之日,斂以時服,一遵先度,務從簡約,勞眾崇飾,皆勿為也。衍以幼弱,猥當大重,當賴忠賢,訓而成之。昔周公匡輔成王,霍氏擁育孝昭,義行前典,功冠二代,豈非宗臣之道乎?凡此公卿,時之望也。敬聽顧命,任託付之重,同心斷金,以謀王室。諸方嶽征鎮 ,刺史將守,皆朕扞城,推轂於外,雖事有內外,其致一也。故不有行者,誰扞牧圉?譬若脣齒,表裏相資。宜戮力一心,若合符契,思美焉之美,以緝事為期。百辟卿士,其總己以聽於塚宰,保祐沖幼,弘濟艱難,永令祖宗之靈,甯於九天之上,則朕沒於地下,無恨黃泉。」戊子,帝崩於東堂,年二十七,葬武平陵,廟號肅祖。

325年8月、明帝は詔した。
「劉邦は趙に来たとき、楽毅の働きをほめて、趙の人材を集めようとした。州郡の中正は、漏れなく有能な人物を推挙せよ」
閏月、尚書左僕射の荀崧を光祿大夫とし、錄尚書事にした。尚書の鄧攸を尚書左僕射とした。
8月壬午、明帝は体調を崩した。
太宰で西陽王の司馬羕、司徒の王導、尚書令の卞壼、車騎將軍の郗鑒、護軍將軍の庾亮、領軍將軍の陸曄、丹陽尹の温嶠らは、遺言で皇太子を助けよと頼まれた。丁亥、明帝は詔した。
「古代から、どんな賢聖な人だって、いつか死ぬことは決まっている。私の死は特に悲しむことではない。だが、中原を取り戻せなくて、万民に苦労させたことが残念だ。皇太子は幼弱で、皇帝の重責を負えないから、教え導いてくれ。むかし周公は、成王を助けた。前漢で霍氏は、昭帝を助けた。中央官も地方官も団結して、国家を経営してほしい。そうすれば安らかに死んでいられる」
明帝は、東堂で死んだ。27歳だった。武平陵に葬られ、廟號は「肅祖」である。

帝聰明有機斷,尤精物理。于時兵凶歲饑,死疫過半,虛弊既甚,事極艱虞。屬王敦挾震主之威,將移神器。帝騎驅遵養,以弱制強,潛謀獨斷,廓清大昆。改授荊、湘等四州,以分上流之勢,撥亂反正,強本弱枝。雖享國日淺,而規模弘遠矣。

明帝は聡明で、決断力があった。明帝は、物事の道理に精通していた。王敦と戦った歳は不作で、人口の半分以上が、飢饉や病気で死んだ。東晋が存続できるかどうか、危うかった。王敦の威勢は、東晋皇帝を脅かして、禅譲のリスクがあった。だが明帝は、軍隊を整え、弱きで強きを制した。明帝は、単身で偵察を行って、勝利に導いた。荊州や湘州などの4州には、王敦の代わりに有力な臣を配して、長江上流(成漢)の威勢を防いだ。

東晋の周辺(徐州、荊州など)に地方官を命じる記事が、明帝紀にはとても多い。成漢・後趙から攻撃を受けて、どんな後退をしたか、地図にすべきだな。

明帝は、皇帝の期間は短かったが、遠くまで治世を行き渡らせた。

『逸周書』によれば、外征・外交に成功し、周辺諸国まで照らした人が、「明」をおくり名されるルールだ。東晋にとっての「明」は、異民族の圧迫を取りさばくことだった。そういう解釈でいいのか?
王敦との決戦より、国境の経営に歴史的評価の重点があるようで。