表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』東晋の本紀を、贅沢に訳す

352-54年、中原奪回の隙

後趙が滅びてから、華北が異民族の建国ラッシュです。
少しでも有利に戦おうと、東晋に使者を送ってくる。それが本紀では 「降ってきた」と書いてある。ものは言いようだ・・・というお手本。

352年、東晋に傳國璽が戻る

八(352)年、春正月辛卯、日食。
劉顯は、襄國で皇帝を僭称した。,冉閔擊破,殺之。苻健僭帝號于長安。二月,峻平、崇陽二陵崩。戊辰,帝臨三日,遣殿中都尉王惠如洛陽,以衛五陵。鎮西將軍張遇反於許昌,使其党上官恩據洛陽。樂弘攻督護戴施於倉垣。三月,使北中郎荀羨鎮淮陰。苻健別帥侵順陽,太守薛珍擊破之。夏四月,冉閔為慕容雋所滅。雋僭帝號於中山,稱燕。安西將軍謝尚帥姚襄與張遇戰於許昌之誡橋,王師敗績。苻健使其弟雄襲遇,虜之。

八(352)年春正月辛卯、日食。
劉顯が、襄國で皇帝を僭称した。冉閔が、劉顯を殺した。
苻健が、長安で皇帝を僭称した。
2月、峻平陵と崇陽陵が崩れた。

崩れた陵墓は、洛陽にある?この後、修復できずに穆帝が気を揉むので。

戊辰、穆帝は3日臨んだ。殿中都尉の王惠を洛陽に行かせ、五陵を守衛させた。
鎮西將軍の張遇が、許昌で東晋に反した。張遇の一党の上官恩は、洛陽に拠った。

張遇は冉魏の豫州牧で、前年8月に降ったばかり。東晋から王惠が洛陽に陵墓修繕に来たから、張遇が警戒したのか。

樂弘は、東晋の督護・戴施を倉垣で攻めた。
3月、北中郎の荀羨を、淮陰に出鎮させた。苻健の別軍が、順陽郡を侵した。東晋の順陽太守・薛珍は、苻健の別軍を撃破した。
夏4月、冉閔は、慕容雋に滅ぼされた。慕容雋は、中山で皇帝を僭称し、燕を建国した。
安西將軍の謝尚は、姚襄と張遇と、許昌の誡橋で戦った。東晋方の謝尚は、敗れた。苻健は、弟の苻雄に、張遇を襲わせ、張遇を捕虜にした。

姚襄は、後趙の旧臣。前年11月に東晋から、平北將軍、都督並州諸軍事、並州刺史、平郷縣公に封じられたばかり。


秋七月,大雩。石季龍故將王擢遣使請降,拜征西將軍、秦州刺史。丁酉,以鎮軍大將軍、武陵王晞為太宰,撫軍大將軍、會稽王昱為司徒,征西大將軍桓溫為太尉。八月,平西將軍周撫討蕭敬文於涪城,斬之。冉閔子智以鄴降,督護戴施獲其傳國璽,送之,文曰「受天之命,皇帝壽昌」,百僚畢賀。九月,冉智為其將馬願所執,降于慕容恪。中軍將軍殷浩帥眾北伐,次泗口,遣河南太守戴施據石門,滎陽太守劉遂戍倉垣。冬十月,秦州刺史王擢為苻健所逼,奔於涼州。

352年秋7月、大いに雨乞いした。
石虎の故將・王擢は、東晋に使者を送り、投降を願い出た。穆帝は王擢を、征西將軍、秦州刺史とした。
丁酉、鎮軍大將軍で武陵王の司馬晞を、太宰にした。撫軍大將軍で會稽王の司馬昱を、司徒とした。征西大將軍の桓温を太尉とした。
8月、平西將軍の周撫は、蕭敬文を涪城で斬った。
冉閔の子・冉智は、鄴で東晋に降った。督護の戴施は、冉魏から傳國璽を得て、東晋に送ってきた。傳國璽には、「受天之命,皇帝壽昌」と刻まれている。東晋の百官は、傳國璽の入手を祝った。

孫策⇒袁術⇒曹操⇒司馬炎⇒劉聡⇒石勒⇒冉閔⇒東晋の穆帝?
王莽の伯母・元后が投げつけてカドが欠けたものが、桓温による洛陽奪還の4年前に東晋に来たのは、とてもいい!

9月、冉閔の子・冉智は、部将の馬願に捕えられ、慕容恪に降った。
中軍將軍の殷浩が北伐をして、泗口に入った。河南太守・戴施は、石門に拠った。滎陽太守・劉遂は、倉垣を守った。

殷浩による北伐は、冉魏の滅亡を受けたもの。タイミングがそう教えてくれる。

冬10月、東晋の秦州刺史・王擢は、苻健の圧力を受け、涼州に逃げた。

353年、姚襄に裏切られた殷浩

九年春正月乙卯朔,大赦。張重華使王擢與苻健將苻雄戰,擢師敗績。丙寅,皇太后與帝同拜建平陵。三月,旱。交州刺史阮敷討林邑范佛于日南,破其五十餘壘。夏四月,以安西將軍謝尚為尚書僕射。五月,大疫。張重華複使王擢襲秦州,取之。仇池公楊初為苻雄所敗。秋七月丁酉,地震,有聲如雷。

九(353)年春正月乙卯朔、大赦した。
張重華は王擢に、苻健の將・苻雄と戦わせた。前涼方の王擢が敗れた。
丙寅、皇太后と穆帝は、建平陵に拝した。
3月、日照り。交州刺史の阮敷は、林邑の范佛を日南で討ち、林邑の50余の防塁を破った。
夏4月、安西將軍の謝尚を、尚書僕射にした。
5月、大いに疫病。
張重華はまた王擢に、秦州を襲わせ、前涼が秦州を取った。仇池公の楊初は、苻雄に敗れた。
秋7月丁酉、地震があり、雷鳴のような声が聞こえた。

八月,遣兼太尉、河間王欽修復五陵。冬十月,中軍將軍殷浩進次山桑,使平北將軍姚襄為前鋒,襄叛,反擊浩,浩棄輜重,退保譙城。丁未,涼州牧張重華卒,子耀靈嗣。是月,張祚弑耀靈而自稱涼州牧。十一月,殷浩使部將劉啟、王彬之討姚襄,複為襄所敗,襄遂進據芍陂。十二月,加尚書僕射謝尚為都督豫、揚、江西諸軍事,領豫州刺史,鎮曆陽。

353年8月、太尉で河間王の司馬欽が、五陵を修復した。
冬10月、中軍將軍の殷浩は、山桑に進軍した。殷浩は、平北將軍の姚襄に前鋒を務めさせた。姚襄は、殷浩を裏切った。殷浩は、輜重を棄てて、譙城に退いた。
丁未、涼州牧の張重華が死に、子の張耀靈が嗣いだ。 この月(10月)、張祚は張耀靈を弑して、自ら涼州牧を称した。

東晋以外の国は、君主が病没すると、必ず弑殺が起きる。異民族は儒教に染まらず、実力でトップを決めるらしいが、如実に分かる。ぼくはこの一事を見ても、東晋が西晋の後継だと感じます。

11月、殷浩は部將の劉啟、王彬之に姚襄を討たせたが、殷浩は姚襄に敗れた。姚襄は進んで、芍陂に拠った。

殷浩の北伐がコケた原因は、姚襄の裏切り。桓温登場の舞台が整った。

12月、尚書僕射の謝尚に、都督豫揚、江西諸軍事を加え、豫州刺史を領ねさせ、歴陽を鎮らせた。

354年、桓温の関中攻め

十年春正月己酉朔,帝臨朝,以五陵未複,懸而不樂。涼州牧張祚僭帝位。冉閔降將周成舉兵反,自宛陵襲洛陽。辛酉,河南太守戴施奔鮪渚。丁卯,地震,有聲如雷。二月己醜,太尉、征西將軍桓溫帥師伐關中。廢揚州刺史殷浩為庶人,以前會稽內史王述為揚州刺史。夏四月己亥,溫及苻健子萇戰于藍田,大敗之。五月,江西乞活郭敞等執陳留內史劉仕而叛,京師震駭,以吏部尚書周閔為中軍將軍,屯于中堂,豫州刺史謝尚自曆陽還衛京師。六月,苻健將苻雄悉眾及桓溫戰于白鹿原,王師敗績。秋九月辛酉,桓溫糧盡,引還。

十(354)年春正月己酉朔、穆帝は臨朝した。五陵が修復されていないので、楽しまず。
涼州牧の張祚が、皇帝を僭称した。

前涼だ。西晋の年号を40年以上も使い続けた国の自立。

冉閔の降將・周成が挙兵して、東晋に反した。宛陵から洛陽を襲った。

352年2月、冉魏から東晋に降った張遇が持ち逃げした。同年4月、東晋の謝尚が張遇を攻めたが負けたから、洛陽は得られず。苻健の弟が、張遇を捕えた。だからこの時点で洛陽は、苻氏(前秦)のものだった。それを、冉魏の旧将・周成が襲ったのだ。

辛酉、河南太守の戴施は、鮪渚に逃げた。
丁卯、地震があり、雷鳴のようだった。
2月己酉、太尉で征西將軍の桓温が、関中を攻めた。揚州刺史の殷浩を廃して、庶人に貶めた。前の會稽内史・王述を、殷浩の後任の揚州刺史にした。
夏4月己亥、桓温と、苻健の子・苻萇が、藍田で戦った。桓温は大敗した。
5月、江西郡の乞活・郭敞らが、陳留内史の劉仕を捕えて、叛いた。建康は震駭した。首都を守るため、吏部尚書の周閔を、中軍將軍として、中堂に駐屯させた。豫州刺史の謝尚は、歴陽から建康に戻った。
6月、苻健の將・苻雄の全軍は、桓温と白鹿原で戦った。桓温は敗れた。
秋9月辛酉、桓温は兵糧が尽きて、撤退した。