表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』東晋の本紀を、贅沢に訳す

345-47年、西半分の蟻乱

成人であること理由に、康帝は、皇統を兄(成帝)からもらった。
だが、康帝がすぐに死に、康帝の子の乳児が即位した。兄(成帝)に、皇統を返すべきではないのかなあ。

2歳の皇帝

穆皇帝諱聃,字彭子,康帝子也。建元二年九月丙申,立為皇太子。戊戌,康帝崩。己亥,太子即皇帝位,時年二歲。大赦,尊皇后為皇太后。壬寅,皇太后臨朝攝政。冬十月乙丑,葬康皇帝于崇平陵。十一月庚辰,車騎將軍庾冰卒。

穆皇帝は、諱を(司馬)聃という。あざなは彭子で、康帝の子である。
建元二(344)年9月丙申、皇太子に立てられた。戊戌、康帝が崩じた。己亥、2歳で即位した。

ぼくたちの思い浮かべる2歳は、満2歳だから、違う。穆帝は、生まれて1回お正月を迎えただけだ。年末生まれなら、生後数ヶ月だ。

大赦した。皇后の褚氏を、皇太后とした。壬寅、褚皇太后が臨朝攝政した。
冬10月乙丑、康皇帝を崇平陵に葬った。
11月庚辰、車騎將軍の庾冰が死んだ。

次の行で、即位を祝って改元します。「建元」が終わります。庾冰はあと1ヶ月ちょい生きていれば、前頁で見た不吉な予言を、回避できたのに。

345年、褚皇太后の臨朝

永和元年春正月甲戌朔,皇太后設白紗帷於太極殿,抱帝臨軒。改元。甲申,進鎮軍將軍、武陵王晞為鎮軍大將軍、開府儀同三司,以鎮軍將軍顧眾為尚書右僕射。夏四月壬戌,詔會稽王昱錄尚書六條事。五月戊寅,大雩。尚書令、金紫光祿大夫、建安伯諸葛恢卒。六月癸亥,地震。秋七月庚午,持節、都尉江荊司梁雍益甯七州諸軍事、江州刺史、征西將軍、都亭侯庾翼卒。翼部將于瓚、戴羲等殺冠軍將軍曹據,舉兵反,安西司馬硃燾討平之。

永和元(345)年春正月甲戌朔、皇太后は、白紗帷(カーテン)を太極殿に設けた。褚皇太后は、穆帝を抱いて、政治の場に現れた。改元。
甲申、鎮軍將軍で武陵王の司馬晞を、鎮軍大將軍、開府儀同三司とした。鎮軍將軍の顧眾を、尚書右僕射とした。
夏4月壬戌、皇太后は詔して、會稽王の司馬昱に、尚書六條事を管理させた。

司馬昱は、のちの簡文帝だ。

5月戊寅、大いに雨乞い。
諸葛恢が死んだ。諸葛恢は、尚書令、金紫光祿大夫、建安伯だった。
6月癸亥、地震。
秋7月庚午、庾翼が死んだ。庾翼は、持節、都尉江荊司梁雍益甯七州諸軍事、江州刺史、征西將軍、都亭侯だった。庾翼の部将・于瓚、戴羲らが、冠軍將軍の曹據を殺して、挙兵した。安西司馬の硃燾は、于瓚、戴羲らを討ち平らげた。

今まで、「誰々将」と出てきたら、語調を整えるつもりで、勝手に「誰々の部将」と字を補ってきたが、もともと「部将」という表現が『晋書』にあったんだね。まずかったが、直すのも面倒なので・・・以後気をつけるということで。


八月,豫州刺史路永叛奔于石季龍。庚辰,以輔國將軍、徐州刺史桓溫為安西將軍、持節、都督荊司雍益梁甯六州諸軍事,領護南蠻校尉、荊州刺史。石季龍將路永屯于壽春。九月丙申,皇太后詔曰:「今百姓勞弊,其共思詳所以振恤之宜。及歲常調非軍國要急者,並宜停之。」冬十二月,李勢將爨頠來奔。涼州牧張駿伐焉耆,降之。

8月、豫州刺史の路永が叛いて、石虎の下に逃げた。
庚辰、輔國將軍、徐州刺史の桓温を、安西將軍、持節、都督荊司雍益梁甯六州諸軍事として、護南蠻校尉を領ねさせ、荊州刺史とした。
石虎の将・路永が、寿春に駐屯した。
9月丙申、皇太后は詔した。
「いま万民は疲弊している。緊急でない徴税は停止せよ」
冬12月、李勢の將・爨頠は、來奔した。涼州牧の張駿が、焉耆を討って、降した。

346年、桓温の出陣

二年春正月丙寅,大赦。己卯,使持節、侍中、都督揚州諸軍事、揚州刺史、驃騎將軍、錄尚書事、都鄉侯何充卒。二月癸醜,以左光祿大夫葵謨領司徒,錄尚書六條事、撫軍大將軍、會稽王昱及謨並輔政。三月丙子,以前司徒左長史殷浩為建武將軍、揚州刺史。夏四月己酉朔,日有蝕之。五月丙戌,涼州牧張駿卒,子重華嗣。六月。石季龍將王擢襲武街,執張重華護軍胡宣。又使麻秋、孫伏都伐金城,太守張沖降之。重華將謝艾擊秋,敗之。秋七月,以兗州刺史褚裒為征北大將軍,開府儀同三司。冬十月,地震。十一月辛未,安西將軍桓溫帥征虜將軍周撫,輔國將軍、譙王無忌,建武將軍袁喬伐蜀,拜表輒行。十二月,枉矢自東南流於西北,其長竟天。

二(346)年春正月丙寅、大赦した。
己卯、何充が死んだ。何充は、使持節、侍中、都督揚州諸軍事、揚州刺史、驃騎將軍、録尚書事、都郷侯だった。
2月癸酉、左光祿大夫の葵謨に、司徒を領ねさせ、録尚書六條事、撫軍大將軍とした。會稽王の司馬昱と、葵謨が2人で輔政した。
3月丙子、前の司徒で左長史の殷浩を、建武將軍、揚州刺史とした。

桓温と「竹馬の友」にしてライバル、殷浩の登場です。

夏4月己酉朔、日食。
5月丙戌、涼州牧の張駿が死に、子の張重華が嗣いだ。

君主を「牧」扱いだ。漢民族の前涼は、半独立で、扱いが微妙だ。

6月、石虎の將・王擢が、武街を襲い、張重華の護軍・胡宣を捕えた。また石虎は、麻秋と孫伏都に、金城を討たせた。張重華の金城太守・張沖が、麻秋に降った。張重華の將・謝艾は、麻秋を敗った。
秋7月、兗州刺史の褚裒を征北大將軍とし、開府儀同三司。
冬10月、地震。
11月辛未、安西將軍の桓温が、蜀に出陣した。桓温が率いたのは、征虜將軍の周撫、輔國將軍で譙王の司馬無忌、建武將軍の袁喬である。桓温は蜀討ちを上表して、すぐに出陣した。
12月、矢の軌道が曲がり、東南から西北に流れた。矢は、天より高く飛んでいった。

言うまでもなく、東晋が成漢を滅ぼす暗示だ。

347年、成漢の併呑

三年春正月乙卯,桓溫攻成都,克之。丁亥,李勢降,益州平。林邑範文攻陷日南,害太守夏侯覽,以屍祭天。夏四月,地震。蜀人鄧定、隗文舉兵反,桓溫又擊破之,使益州刺史周撫鎮彭模。丁巳,鄧定、隗文複入據成都,征虜將軍楊謙棄涪城,退保德陽。五月戊申,進慕容皝為安北將軍。石季龍又使其將石甯、麻秋等伐涼州,次於曲柳。張重華使將軍牛旋禦之,退守枹罕。

三(347)年春正月乙卯、桓温は成都を攻めて、勝った。丁亥、李勢は降り、益州は平定された。
林邑の範文は、日南を攻め落として、東晋の日南太守・夏侯覽を殺害した。林邑の範文は、夏侯覽の屍体を天に祭った。
夏4月、地震。
蜀人の鄧定と隗文が、挙兵して東晋に反した。桓温は、鄧定と隗文を撃破した。桓温は、益州刺史の周撫に、彭模を鎮らせた。丁巳、鄧定と隗文は、ふたたび成都に入って、拠点とした。征虜將軍の楊謙は、涪城を棄てて、德陽まで下がった。
5月戊申、慕容皝を安北將軍に進めた。

東晋と前燕と関係改善したっぽい。後趙が前涼と忙しいから、目線が逸れた? 成漢を滅ぼした東晋が、自信をつけて、懐が大きくなった?

石虎は、將・石甯に命じ、涼州で麻秋らを伐った。石虎は、曲柳に向った。張重華は、將軍の牛旋に命じて、曲柳を守らせた。前涼方の牛旋は、枹罕まで退いて守った。

六月辛酉,大赦。秋七月,範文複陷日南,害督護劉雄。隗文立範賁為帝。八月戊午,張重華將謝艾進擊麻秋,大敗之。九月,地震。冬十月乙丑,假涼州刺史張重華大都督隴右關中諸軍事、護羌校尉、大將軍,武都氐王楊初為征南將軍、雍州刺史、平羌校尉、仇池公,並假節。十二月,振威護軍蕭敬文害征虜將軍楊謙,攻涪城,陷之。遂取巴西,通於漢中。

6月辛酉、大赦。
秋7月、林邑の範文はふたたび日南郡を陥落させ、東晋の督護・劉雄を殺害した。蜀人の隗文は、範賁を皇帝に立てた。

益州とその南方、もう誰が誰やら分からん。皇帝の範賁って、範文の一族?
後趙と前涼も、登場人物が多すぎる。「関中で戦闘多発」と知ればいいや。

8月戊午、張重華の將・謝艾は、麻秋を破った。
9月、地震。
冬10月乙丑、涼州刺史の張重華を、大都督隴右關中諸軍事、護羌校尉、大將軍に仮した。武都氐王の楊初を、征南將軍、雍州刺史、平羌校尉、仇池公として、假節を与えた。

前涼に官位だけ送って、東晋が関中にちょっかいを出した。

12月、振威護軍の蕭敬文は、征虜將軍の楊謙を害し、涪城を攻め落とした。ついに東晋は、巴西郡を取り、漢中に通じた。