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327-28年、南北の淘汰

明帝の時代と、対外環境は同じです。しかし明帝という司令塔を失い、6歳の成帝では、国境守備を仕切れません。

328年、祖約・蘇峻が挙兵

二年春正月,甯州秀才龐遺起義兵,攻李雄將任回、李謙等,雄遣其將羅恆、費黑救之。甯州刺史尹奉遣裨將姚岳、硃提太守楊術援遺,戰於台登,嶽等敗績,術死之。三月,益州地震。夏四月,旱。己未,豫章地震。五月甲申朔,日有蝕之。丙戌,加豫州刺史祖約為鎮西將軍。戊子,京師大水。冬十月,劉曜使其子胤侵枹罕,遂略河南地。

二(328)年春正月、甯州の秀才である龐遺が義兵を起こし、李雄(成漢)の部将である任回と李謙らを攻めた。李雄(成漢)は、羅恆と費黑に救わせた。甯州刺史の尹奉は、裨將の姚岳と硃提太守の楊術に、龐遺を援けさせた。成漢と東晋は、台登で戦った。東晋が負け、楊術は殺された。
3月、益州で地震。
夏4月、日照り。己未、豫章で地震。5月甲申朔、日食。丙戌、豫州刺史の祖約に、鎮西將軍を加えた。戊子、京師で大水。
冬10月、前趙の劉曜は、子の劉胤に枹罕を攻めさせ、河南を攻略した。

十一月,豫州刺史祖約、曆陽太守蘇峻等反。 十二月辛亥,蘇峻使其將韓晃入姑孰,屠於湖。壬子,彭城王雄、章武王休叛,奔峻。庚申,京師戒嚴。假護軍將軍庾亮節為征討都督,以右衛將軍趙胤為冠軍將軍、曆陽太守,使與左將軍司馬流帥師距峻,戰於慈湖,流敗,死之。假驍騎將軍鐘雅節,帥舟軍,與趙胤為前鋒,以距峻。丙寅,徒封琅邪王昱為會稽王,吳王嶽為琅邪王。辛未,宣城內桓彝及峻戰於蕪湖,彝軍敗績。軍騎將軍郗鑒遣廣陵相劉矩帥師赴京師。

328年11月、豫州刺史の祖約と、歴陽太守の蘇峻らが反した。
12月辛亥、蘇峻は、部将の韓晃に姑孰へ入らせ、蕪湖で東晋の兵を屠った。壬子、彭城王の司馬雄、章武王の司馬休が叛して、蘇峻に味方した。
庚申、建康は戒厳令が布かれた。假の護軍將軍である庾亮は節を与えられ、征討都督となった。右衛將軍の趙胤は、冠軍將軍となり、歴陽太守となった。

庾亮が総大将。趙胤が歴陽太守になったのは、叛いた蘇峻の後任。

庾亮と趙胤は、左將軍の司馬流とともに、蘇峻の進軍を防いだ。司馬流は、慈湖で蘇峻に敗れて殺された。假の驍騎將軍である鐘雅は節を与えられ、舟軍を率いた。鐘雅は、趙胤とともに先鋒を務め、蘇峻を防いだ。
丙寅、琅邪王の司馬昱を徙して、會稽王とした。呉王の司馬嶽は、瑯邪王になった。

司馬昱は、のちの簡文帝。なぜ蘇峻の叛乱で忙しいときに封地換え?

12月辛未、宣城内の桓彝が、蘇峻と蕪湖で戦った。桓彝は敗れた。軍騎將軍の郗鑒は、廣陵相の劉矩に兵を任せて、建康に向わせた。

329年、華南・華北の各統一

三年春正月,平南將軍溫嶠帥師救京師,次於尋陽,遣督護王愆期、西陽太守鄧岳、鄱陽太守紀睦為前鋒。征西大將軍陶侃遣督護龔登受嶠節度。鐘雅、趙胤等次慈湖,王愆期、鄧嶽等次直瀆。丁未,峻濟自橫江,登牛渚。二月庚戌,峻至於蔣山。假領軍將軍卞壼節,帥六軍,及峻戰於西陵,王師敗績。丙辰,峻攻青溪柵,因風縱火,王師又大敗。尚書令、領軍將軍卞壼,丹陽尹羊曼,黃門侍郎周導,廬江太守陶瞻並遇害,死者數千人。庾亮又敗于宣陽門內,遂攜其諸弟與郭默、趙胤奔尋陽。於是司徒王導、右光祿大夫陸曄、荀崧等衛帝於太極殿,太常孔愉守宗廟。賊乘勝麾戈接於帝座,突入太后後宮,左右侍人皆見掠奪。是時太官唯有燒余米數石,以供禦膳。百姓號泣,響震都邑。

三(329)年春正月、平南將軍の温嶠は、兵を率いて建康を救援した。つづいて温嶠は、尋陽を救援した。温嶠は、督護の王愆期、西陽太守の鄧岳、鄱陽太守の紀睦を遣わして、前鋒とした。
征西大將軍の陶侃は、督護の龔登に命じ、温嶠の指揮下に移らせた。鐘雅、趙胤らは、慈湖に行った。王愆期、鄧嶽らは、直瀆に行った。
丁未、蘇峻は自ら、橫江を渡って、牛渚に登った。
2月庚戌、蘇峻は蔣山に到った。假の領軍將軍である卞壼は節を与えられ、六軍を率いた。蘇峻は西陵で戦い、東晋軍が敗れた。
丙辰、蘇峻は青溪柵を攻めた。蘇峻は風に乗せて火を放ち、東晋軍は大敗した。尚書令で領軍將軍の卞壼と、丹陽尹羊曼と、黄門侍郎の周導と、廬江太守の陶瞻は、殺害されてしまった。東晋の死者は数千人だった。
庾亮も、宣陽門内で敗れた。庾亮は弟たちを敵に捕らえられた。庾亮は、郭默や趙胤とともに尋陽へ逃げた。
ここにおいて、司徒の王導、右光祿大夫の陸曄と荀崧らが、太極殿で成帝を守った。太常の孔愉は、司馬氏の宗廟を守った。賊の蘇峻は、勝利に乗じて、凶器をチラつかせて玉座に迫った。蘇峻は、庾太后の後宮に突入し、左右の侍人はみな掠奪された。
このとき宮殿には、焼け残った米が数石あるだけで、皇帝はそれを食べるしかなかった。百姓は號泣して、泣声は都邑に響いた。

丁巳,峻矯詔大赦,又以祖約為侍中、太尉、尚書令,自為驃騎將軍、錄尚書事。吳郡太守庾冰奔於會稽。三月丙子,皇太后庾氏崩。夏四月,石勒攻宛,南陽太守王國叛,降於勒。壬申,葬明穆皇后于武平陵。五月乙未,峻逼遷天子于石頭,帝哀泣升車,宮中慟哭。峻以倉屋為宮,遣管商、張瑾、弘徽寇晉陵,韓晃寇義興。吳興太守虞潭與庚冰、王舒等起義兵于三吳。丙午,征西大將軍陶侃、平南將軍溫嶠、護軍將軍庾亮、平北將軍魏該舟軍四萬,次於蔡洲。

2月丁巳、蘇峻は詔を偽造して、大赦した。また蘇峻は、祖約を侍中・太尉・尚書令とした。祖約は、自ら驃騎將軍録尚書事となった。呉郡太守の庾冰は、會稽に逃げた。
3月丙子、皇太后の庾氏は崩じた。

蘇峻に踏み込まれたタイミングで死んだ。ストレス?

夏4月、後趙の石勒は宛を攻めた。南陽太守の王國は東晋に叛き、石勒に降った。
壬申、明穆皇后(庾氏)を武平陵に葬った。
5月乙未、庾峻は成帝に迫って、ムリに石頭へ遷した。成帝は哀泣して馬車に乗ったから、宮中は慟哭した。蘇峻は、ボロい倉屋に成帝を押し込んだ。蘇峻は、管商、張瑾、弘徽に命じて、歴代の晋帝の陵墓を盗掘させた。韓晃が、義興郡を寇した。呉興太守の虞潭は、庚冰、王舒らとともに、三呉の地で挙兵した。
丙午、征西大將軍の陶侃と、平南將軍の温嶠と、護軍將軍の庾亮と、平北將軍の魏該は、舟軍40000を率いて、蔡洲に入った。

六月,韓晃攻宣城,內史桓彝力戰,死之。壬辰,平北將軍、雍州刺史魏該卒于師。廬江太守毛寶攻賊合肥戍,拔之。秋七月,祖約為石勒將石聰所攻,眾潰,奔于曆陽。石勒將石季龍攻劉曜于蒲阪。八月,曜及石季龍戰于高候,季龍敗績,曜遂圍石生於洛陽。九月戊申,司徒王導奔于白石。庚午,陶侃使督護楊謙攻峻於石頭。溫嶠、庾亮陣于白石,竟陵太守李陽距賊南偏。峻輕騎出戰,墜馬,斬之,眾遂大潰。賊党複立峻弟逸為帥。前交州刺史張璉據始興反,進攻廣州,鎮南司馬曾勰等擊破之。冬十月,李雄將張龍寇涪陵,太守趙弼沒於賊。十二月乙未,石勒敗劉曜於洛陽,獲之。是歲,石勒將石季龍攻氐帥蒲洪於隴山,降之。

329年6月、蘇峻方の韓晃は、宣城を攻めた。内史の桓彝は力戰したが、殺された。
壬辰、魏該が陣中で死んだ。魏該は、平北將軍、雍州刺史だった。
廬江太守の毛寶が、合肥で蘇峻方を攻めた。毛寶は、合肥を抜いた。
秋7月、祖約は、石勒の部長・石聡に攻められた。祖約は潰走して、歴陽に逃げ込んだ。
石勒の部将・石虎は、劉曜を蒲阪で攻めた。
8月、劉曜と石虎は、高候で戦った。石虎が敗れた。劉曜は、ついに洛陽で石生を包囲した。
9月戊申、司徒の王導は、白石に逃げた。庚午、陶侃は、督護の楊謙に命じて、石頭にいる蘇峻を攻めさせた。

石頭には、蘇峻に捕まっている成帝もいます。

温嶠と庾亮は、白石に布陣した。竟陵太守の李陽は、南偏で蘇峻方を防いだ。蘇峻は軽騎で出撃したが、落馬した。蘇峻は斬られた。蘇峻の軍は、大いに潰走した。蘇峻方は、弟の蘇逸を、代わりのリーダーに立てた。
前の交州刺史である張璉は、始興郡を拠点にして、東晋に叛いた。張璉は、廣州に進攻した。鎮南司馬の曾勰らは、張璉を破った。
冬10月、李雄の部将・張龍は、涪陵を寇した。涪陵太守の趙弼は、賊の張龍に殺された。
12月乙未、石勒は、洛陽で劉曜を敗り、劉曜を捕獲した。この歳、石勒の部将・石虎は、氐族のリーダーである蒲洪を、隴山に攻めた。蒲洪は石虎に降った。

蘇峻が落馬して斬られた。石勒が劉曜を捕らえた。東晋は叛乱が治まり、後趙が華北を統一。安定する時期を示し合わせたようです。