329-31年、後趙の覇権
蘇峻の乱が終わりました。次の東晋の主導権は?
329年、戦後処理の歳
四年春正月,帝在石頭,賊將匡術以苑城歸順,百官赴焉。侍中鐘雅、右衛將軍劉超謀奉帝出,為賊所害。戊辰,冠軍將軍趙胤遣將甘苗討祖約于曆陽,敗之,約奔于石勒,其將牽騰帥眾降。峻子碩攻台城,又焚太極東堂、秘閣,皆盡。城中大饑,米鬥萬錢。二月,大雨霖。丙戌,諸軍攻石頭。李陽與蘇逸戰於柤浦,陽軍敗。建威長史滕含以銳卒擊之,逸等大敗。含奉帝禦于溫嶠舟,群臣頓首號泣請罪。弋陽王羕有罪,伏誅。丁亥,大赦。時兵火之後,宮闕灰燼,以建平園為宮。甲午,蘇逸以萬餘人自延陵湖將入吳興。乙未,將軍王允之及逸戰于溧陽,獲之。壬寅,以湘州並荊州。劉曜太子毗與其大司馬劉胤帥百官奔於上邽,關中大亂。
四(329)年春正月、成帝は石頭にいる。
賊將の匡術が、苑城で帰順した。苑城にいた百官が出てきた。侍中の鐘雅と、右衛將軍の劉超が謀って、成帝を運び出そうとした。鐘雅と劉超は、賊に殺害された。
戊辰、冠軍將軍の趙胤は、部将の甘苗に命じて、歴陽にいる祖約を攻撃した。祖約は敗れ、石勒の下に逃亡した。祖約の部将・牽騰は、兵を率いて東晋に降った。
蘇峻の子・蘇碩は、台城を攻めた。蘇碩は太極東堂、秘閣に火をつけて、灰にしてしまった。台城の中は食料がなくなり、米価が万銭に高騰した。
2月、大雨霖。
丙戌、諸軍は石頭を攻めた。李陽と蘇逸は、柤浦で戦った。成帝方の李陽が敗れた。建威長史の滕含は、精鋭を率いて蘇逸を攻撃した。蘇逸らは大敗した。
滕含は、成帝を連れ出し、温嶠の舟を守った。
群臣は頓首號泣して、罪を請うた。弋陽王の司馬羕は有罪となり、誅に伏した。
丁亥、成帝は大赦した。ときに兵火のせいで、宮闕は灰燼に帰していたから、建平園で朝廷を開いた。
甲午、蘇逸は万余人を引き連れて、呉興に侵入しようとした。乙未、將軍の王允之は、蘇逸と溧陽で戦った。王允之は蘇逸を捕らえた。
壬寅、湘州を荊州と並置した。
前趙の劉曜の太子・劉毗は、前趙の大司馬・劉胤とともに、百官を率いて上邽に逃げた。関中は大乱した。
三月壬子,以征西大將軍陶侃為太尉,封長沙郡公;車騎將軍郗鑒為司空,封南昌縣公;平南將軍溫嶠為驃騎將軍、開府儀同三司,封始安郡公。其餘封拜各有差。庚午,以右光祿大夫陸曄為衛將軍、開府儀同三司,複封高密王紘為彭城王。以護軍將軍庾亮為平西將軍、都督揚州之宣城江西諸軍事、假節,領豫州刺史,鎮蕪湖。夏四月乙未,驃騎將軍、始安公溫嶠卒。秋七月,有星孛於西北。會稽、吳興、宣城、丹陽大水。詔複遭賊郡縣租稅三年。八月,利曜將劉胤等帥眾侵石生,次於雍。九月,石勒將石季龍擊胤,斬之,進屠上邽,盡滅劉氏,坑其党三千餘人。冬十月,廬山崩。十二月壬辰,右將軍郭默害平南將軍、江州刺史劉胤,太尉陶侃帥眾討默。是歲,天裂西北。
329年3月壬子、征西大將軍の陶侃を太尉として、長沙郡公に封じた。車騎將軍の郗鑒を司空として、南昌縣公に封じた。平南將軍の温嶠を驃騎將軍として、開府儀同三司、始安郡公に封じた。その他の人も、それぞれ封拜を受けた。
庚午、右光祿大夫の陸曄を衛將軍とし、開府儀同三司。また高密王の司馬紘を、彭城王に封じた。
護軍將軍の庾亮を、平西將軍として、都督揚州之宣城江西諸軍事、假節とし、豫州刺史を領ねさせ、蕪湖に出鎮させた。
夏4月乙未、温嶠が死んだ。温嶠は、驃騎將軍、始安公だった。
秋7月、西北の空で、星孛。會稽郡、呉興郡、宣城郡、丹陽郡で大水。
詔して、ふたたび賊に襲撃された郡県は、租税3年(を免除した?)
8月、劉曜の部将・劉胤らが、兵を率いて石生を攻めた。劉胤らは、雍州に入った。
9月、石勒の部将・石虎は、劉胤を斬った。上邽郡に進み、劉氏を殲滅した。劉氏の与党は、3000余人が穴埋めになった。
冬10月、廬山が崩れた。
12月壬辰、右將軍の郭默が、平南將軍・江州刺史の劉胤を殺害した。太尉・陶侃は、郭默を討った。
この歳、天は西北に裂けた。
330年、石勒の皇帝即位
五年春正月己亥,大赦。癸亥,詔除諸將任子。二月,以尚書陸玩為尚書左僕射,孔愉為右僕射。夏五月,旱,且饑疫。乙卯,太尉陶侃擒郭默于尋陽,斬之。石勒將劉徵寇南沙,都尉許儒遇害,進入海虞。六月癸巳,初稅田,畝三升。秋八月,石勒僭即皇帝位,使其將郭敬寇襄陽。南中郎將周撫退歸武昌,中州流人悉降於勒。郭敬遂寇襄陽,屯于樊城。九月,造新宮,始繕苑城。甲辰,徒樂成王欽為河間王,封彭城王紘子浚為高密王。冬十月丁醜,幸司徒王導第,置酒大會。李雄將李壽寇巴東、建平,監軍毌丘奧、太守楊謙退歸宜都。十二月,張駿稱臣于石勒。
五(330)年春正月己亥、成帝は大赦した。
癸亥、成帝は詔して、諸將の任子を除いた。
2月、尚書の陸玩を、尚書左僕射とした。孔愉を右僕射とした。
夏5月、日照り、飢饉、疫病。
乙卯、太尉の陶侃は、郭默を尋陽で捕まえて斬った。
石勒の部将・劉徵が、南沙を寇した。都尉の許儒が殺害された。劉徵は、海虞に進入した。
6月癸巳、初めて税田、畝三升。
秋8月、石勒は皇帝を僭称した。石勒は、部将の郭敬に襄陽を寇させた。南中郎將の周撫は、武昌に逃げた。中州(荊州の北部?)の流民は、全て石勒に降った。
石勒の部将・郭敬は、ついに襄陽を寇して、樊城に駐屯した。
9月、成帝は新しい宮殿に着手した。はじめ苑城を修繕した。
甲辰、樂成王の司馬欽を、河間王に封じた。彭城王・司馬紘の子である司馬浚を、高密王にした。
冬10丁酉、成帝は司徒・王導の屋敷に遊びに行った。宴会した。
李雄の部将・李壽が、巴東郡、建平郡を寇した。監軍の毌丘奧と、太守の楊謙は、宜都郡まで逃げてきた。
12月、張駿が、石勒の臣下を称した。
331年、鮮卑段部とのつながり
六年春正月癸巳,劉徵複寇婁縣,遂掠武進。乙未,進司空郗鑒都督吳國諸軍事。戊午,以運漕不繼,發王公已下千余丁,各運米六斛。二月己醜,以幽州刺史、大單于段遼為驃騎將軍。三月壬戌朔,日有蝕之。癸未,詔舉賢良直言之士。夏四月,旱。六月丙申,複故河間王顒爵位,封彭城王植子融為樂成王,章武王混子珍為章武王。秋七月,李雄將李壽侵陰平,武都氐帥楊難敵降之。八月庚子,以左僕射陸玩為尚書令。
六(331)年春正月癸巳、石勒の部将・劉徵が、ふたたび婁県に寇して、武進で掠奪した。
乙未、司空の郗鑒を、都督呉國諸軍事に進めた。
戊午、税収の舟輸送に失敗したので、王公以下の1000余丁に、それぞれ米6斛を運ばせた。
2月己酉、幽州刺史で大單于の段遼を、驃騎將軍とした。
3月壬戌朔、日食があった。
癸未、詔して、賢良直言の士を挙げさせた。
夏4月、日照り。
6月丙申、もと河間王の司馬顒の爵位を戻した。
彭城王・司馬植の子、司馬融を樂成王にした。章武王・司馬混の子、司馬珍を、章武王にした。
秋7月、李雄の部将・李壽が、陰平郡、武都郡を寇した。氐族のリーダー楊難敵は、李壽に降伏した。
8月庚子、左僕射の陸玩を、尚書令とした。