表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』東晋の本紀を、贅沢に訳す

343-44年、お任せ政権

わりに名君だった成帝の次は、同母弟の康帝です。

諒陰不言(アホ)の康帝

康皇帝諱岳,字世同,成帝母弟也。咸和元年封吳王,二年徙封琅邪王;九年拜散騎常侍,加驃騎將軍,咸康五年遷侍中、司徒。八年六月庚寅,成帝不豫,詔以琅邪王為嗣。癸巳,成帝崩。甲午,即皇帝位,大赦。諸屯戍文武及二千石官長,不得輒離所局而來奔赴。己亥,封成帝子丕為琅邪王,奕為東海王。時帝諒陰不言,委政於庾冰、何充。秋七月丙辰,葬成皇帝于興平陵。帝親奉奠於西階,既發引,徒行至閶闔門,升素輿,至於陵所。己未,以中書令何充為驃騎將軍。八月辛醜,彭城王紘薨。以江州刺史王允之為衛將軍。九月,詔琅邪國及府史進位各有差。冬十月甲午,衛將軍王允之卒。十二月,增文武位二等。壬子,立皇后褚氏。

康皇帝は、諱を(司馬)岳といい、あざなは世同である。 成帝の同母弟である。
咸和元(326)年、呉王に封じられた。二(327)年、瑯邪王に徙された。九(334)年、散騎常侍を拝し、驃騎將軍を加えられた。咸康五(339)年、侍中に遷り、司徒になった。
八(342)年6月庚寅、成帝が政治を執れなくなり、詔して、瑯邪王(司馬岳)を後嗣にした。癸巳、成帝が崩じた。
甲午、康帝は皇帝に即位して、大赦した。
各地を守備している文武官や、二千石官長(地方長官)は、任地を離れて、建康まで即位を祝いにくることが出来なかった。
己亥、成帝の子・司馬丕を琅邪王に封じた。成帝の子・司馬奕を東海王に封じた。

司馬丕は、のちの哀帝。司馬奕は、のちの哀帝海西公。

康帝は、頭の回転が鈍く、口下手だったから、政治を庾冰と何充に任せた。
秋7月丙辰、成皇帝を興平陵に葬った。康帝は自ら、西階で供え物をした。(康帝は遅刻して)すでに皇帝用の輿が出発していたので、康帝は閶闔門まで歩いて行き、そこで一般用の輿に乗って、成帝の陵所に行った。
己未、中書令の何充を驃騎將軍にした。
8月辛酉、彭城王の司馬紘が薨じた。江州刺史の王允之を、衛將軍にした。
9月、康帝は詔して、琅邪國の役人たちを、それぞれ昇進させた。

瑯邪王は成帝の子・司馬丕。もとの皇統を尊んだ?

冬10月甲午、衛將軍の王允之が死んだ。12月、文武官を2ランクアップさせた。壬子、褚氏を皇后に立てた。

343年、後趙↓と和解、前燕↑と絶交

建元元年春正月,改元,振恤鰥寡孤獨。三月,以中書監庾冰為車騎將軍。夏四月,益州刺史周撫、西陽太守曹據伐李壽,敗其將恆于江陽。五月,旱。六月壬午,又以束帛征處士尋陽翟湯、會稽虞喜。有司奏,成帝崩一周,請改素服,禦進膳如舊。壬寅,詔曰:「禮之降殺,因時而寢興,誠無常矣。至於君親相准,名教之重,莫之改也。權制之作,蓋出近代,雖曰適事,實弊薄之始。先王崇之,後世猶怠,而況因循,又從輕降,義弗可矣。」石季龍帥眾伐慕容皝,皝大敗之。

建元元(343)年春正月、改元して、生活補助をバラまいた。
3月、中書監の庾冰を、車騎將軍にした。
夏4月、益州刺史の周撫と、西陽太守の曹據が、李壽を征伐しした。東晋方は、李壽の部将・李恆に、江陽で敗れた。 5月、日照り。
6月壬午、又以束帛征處士、尋陽の翟湯、會稽の虞喜。

いつも訳し方が分からない。だのによく出てくる、これは何だろう・・・

有司が奏上した。有司曰く、成帝が崩御して1年が経つので、服装と食事を元に戻したいと。康帝は、詔した。
「喪に服するルールは、時代とともに移り変わるものだ。どんどんシンプル化される傾向があるが、成帝の喪については、シンプル化は許さない
慕容皝は、攻めてきた石虎を大いに負かした。

秋七月,石季龍將戴開帥眾來降。丁巳,詔曰:「慕容皝摧殄羯寇,乃雲死沒八萬餘人,將是其天亡之始也。中原之事,宜加籌量。且戴開已帥部黨歸順,宜見慰勞。其遣使詣安西、驃騎,咨謀諸軍事。」以輔國將軍、琅邪內史桓溫為前鋒小督、假節,帥眾入臨淮,安西將軍庾翼為征討大都督,遷鎮襄陽。庚申,晉陵、吳郡災。

秋7月、石虎の部将・戴開が、兵を率いて東晋に降伏した。丁巳、詔した。
「慕容皝は、摧殄羯寇で、8万余人を殺した大悪人だという。慕容皝のような奴が現れたのは、天亡之始である。中原のことは、東晋に任せなさい。東晋に帰順した、後趙の戴開を、よく労ってやれ。安西将軍(庾冰)と驃騎将軍(何充)は、軍事政策について話し合うように」

雲行きが変わった!今まで慕容部の前燕は、東晋に臣従する同盟国だった。前燕が、後趙より強くなったから、同盟は壊れた? 前燕との絶交が、成帝と康帝が交代したタイミングと、ぴったり同じなのも面白い。

輔國將軍で琅邪内史の桓温を、前鋒小督とし、假節、兵を率いて臨淮郡に入らせた。

桓温が登場!ぼくが東晋の本紀を訳す動機を作った人だ。瑯邪内史だから、成帝の子・司馬丕の臣。司馬丕が皇帝のとき(哀帝)、出世したわけだ。

安西將軍の庾翼を、征討大都督とし、襄陽に遷らせた。
7月庚申、晉陵、呉郡で火災。

八月,李壽死,子勢嗣偽位。石季龍使其將劉甯攻陷狄道。冬十月辛巳,以車騎將軍庾冰都督荊江司雍益梁六州諸軍事、江州刺史,以驃騎將軍何充為中書監、都督揚豫二州諸軍事、揚州刺史、錄尚書事,輔政。以琅邪內史桓溫都督青徐兗三州諸軍事、徐州刺史,褚裒為衛將軍、領中書令。十一月己巳,大赦。十二月,石季龍侵張駿,駿使其將軍謝艾拒之,大戰於河西,季龍敗績。十二月,高句驪遣使朝獻。

8月、李壽が死に、子の李勢が嗣いだ。

桓温と李勢が揃いました。成漢を滅ぼす人、滅ぼされる人だ。

石虎は、部將の劉甯に命じて、狄道を攻め落とさせた。
冬10月辛巳、車騎將軍の庾冰を、都督荊江司雍益梁六州諸軍事、江州刺史とした。驃騎將軍の何充を、中書監、都督揚豫二州諸軍事、揚州刺史、録尚書事として、輔政させた。琅邪内史の桓温を、都督青徐兗三州諸軍事、徐州刺史とした。褚裒を衛將軍として、中書令を領ねさせた。

庾冰は西方、何充は中央、桓温は北方の守り。褚裒は皇后の一族?

11月己巳、大赦した。
12月、後趙の石虎は、前涼の張駿を侵した。張駿は、部将の謝艾に防がせた。河西で大戦した、石虎が敗れた。

後趙は、東北の前燕と、西北の前涼に敗れた。華北統一が危うい。後趙が滅びてくれないと、桓温が洛陽を取り戻しに行けません。滅びてしまえ・・・

12月、高句麗の使者が、朝献した。

344年、中興の中断

二年春正月,張駿遣其將和驎、謝艾討南羌於闐和,大破之。二月,慕容皝及鮮卑帥宇文歸戰于昌黎,歸眾大敗,奔於漠北。四月,張駿將張瓘敗石季龍將王擢於三交城。秋八月丙子,進安西將軍庾翼為征西將軍。庚辰,持節、都督司雍梁三州諸軍事、梁州刺史、平北將軍、竟陵公桓宣卒。丁巳,以衛將軍褚裒為特進、都督徐兗二州諸軍事、兗州刺史,鎮金城。九月,巴東太守楊謙擊李勢將申陽,走之,獲其將樂高。丙申,立皇子聃為皇太子。戊戌,帝崩於式乾殿。時年二十三,葬崇平陵。

二(344)年春正月、前涼の張駿は、部将の和驎と謝艾に命じて、南羌を闐和で討たせた。和驎と謝艾は、南羌を大いに破った。
2月、慕容皝と、鮮卑の棟梁・宇文歸が、昌黎で戦った。宇文歸の軍は、大いに敗れて、漠北に逃げた。

鮮卑の中での主導権争いだ。

4月、前涼の張駿の部将・張瓘は、後趙の石虎の部将・王擢を、三交城で負かした。
秋8月丙子、安西將軍の庾翼を、征西將軍に進めた。
庚辰、桓宣が死んだ。桓宣は、持節、都督司雍梁三州諸軍事、梁州刺史、平北將軍、竟陵公だった。
丁巳、衛將軍の褚裒を、特進として、都督徐兗二州諸軍事、兗州刺史とし、金城に出鎮させた。
9月、巴東太守の楊謙が、李勢の部将・申陽を撃って、敗走させた。楊謙は、申陽の部将・樂高を捕えた。
丙申、康帝の子・司馬聃を皇太子に立てた。戊戌、康帝は式乾殿で崩じた。23歳だった。康帝は、崇平陵に葬られた。

康帝は、成帝の2年後に死んで、享年が1歳上だった。つまり、成帝と康帝は、母が同じ年子だ。

初,成帝有疾,中書令庾冰自以舅氏當朝,權侔人主,恐異世之後,戚屬將疏,乃言國有強敵,宜立長君,遂以帝為嗣。制度年號,再興中朝,因改元曰建元。或謂冰曰:「郭璞讖雲'立始之際丘山傾',立者,建也;始者,元也;丘山,諱也。」冰瞿然,既而歎曰:「如有吉凶,豈改易所能救乎?」至是果驗雲。

かつて成帝が病気になったとき、中書令の庾冰は、外戚として、皇帝をしのぐほどの権力を持っていた。成帝が死んだ後、庾氏が簒逆するリスクを避けるため、成人皇帝を立てることにした。だから康帝は、成帝の子を差し置いて、即位したのである。
年号を決めるときは、(庾氏に負けず)東晋を立て直したいという願いを込めて、「建元」とした。
ある人が、庾冰に言った。
「郭璞は占って、『立始の際に、丘山が傾く』という言葉を得ました。『立』は、たてるという意味で、建に通じます。『始』は、はじめという意味で、元に通じます。丘山とは、庾冰さんの名でしょう。年号が建元となれば、庾冰さんは傾いてしまいます」
庾冰は真っ青になって、嘆いた。
「吉凶が示されたら、どうして占い結果を変えて、自分を救うことができるだろうか(反語)」
果たして占いのとおり、外戚の庾冰の権勢は傾いた。

庾冰は抑えても、康帝が死んだら意味ない。次は2歳の皇帝。強力な外戚の出現は牽制したかも知れないが、中興は中断せざるを得ないね。