表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』東晋の本紀を、贅沢に訳す

365-69年、桓温は諦めず

洛陽を失ったが、あまり悲しそうじゃない東晋。
輿望が去る様子を見届けましょう。

その号は「廃帝」

廢帝諱奕,字延齡,哀帝之母弟也。咸康八年封為東海王。永和八年拜散騎常侍,尋加鎮軍將軍;升平四年拜車騎將軍。五年,改封琅邪王。隆和初,轉侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司。興甯三年二月丙申,哀帝崩,無嗣。丁酉,皇太后詔曰:「帝遂不救厥疾,艱禍仍臻,遺緒泯然,哀慟切心。琅邪王奕,明德茂親,屬當儲嗣,宜奉祖宗,纂承大統。便速正大禮,以寧人神。」於是百官奉迎於琅邪第。是日,即皇帝位,大赦。

廢帝は、諱を奕といい、あざなは延齡だ。哀帝の同母弟である。

驚くところですが、哀帝と廃帝は、同母兄弟で1歳違いです。父・成帝と叔父・康帝も、同母兄弟で1歳違いでした。流行ってるのか?

咸康八(342)年、東海王に封じられた。永和八(352)年、散騎常侍となり、鎮軍將軍を加えられた。升平四(360)年、車騎將軍となった。五(361)年、瑯邪王に改められた。隆和初(362年)、侍中に転じ、驃騎大將軍、開府儀同三司。
興甯三(365)年2月丙申、哀帝が崩じたが、皇子がいなかった。丁酉、皇太后が詔した。 「哀帝の病気はもう良くならない。悲しいことだ琅邪王の司馬奕が継ぎ、人心を安定させよ」
百官は司馬奕を琅邪王の屋敷に迎えに行った。廃帝が即位した。大赦した。

365年、成都王の自立

三月壬申,葬哀皇帝于安平陵。癸酉,散騎常侍、河間王欽薨。丙子,慕容將慕容恪陷洛陽,甯朔將軍竺瑤奔于襄陽,冠軍長史、揚武將軍沈勁死之。夏六月戊子,使持節、都督益甯二州諸軍事、鎮西將軍、益州刺史、建城公周撫卒。秋七月,匈奴左賢王衛辰、右賢王曹谷帥眾二萬侵苻堅杏城。己酉,改封會稽王昱為琅邪王。壬子,立皇后庾氏。封琅邪王昱子昌明為會稽王。冬十月,梁州刺史司馬勳反,自稱成都王。十一月,帥眾人劍閣,攻涪,西夷校尉毌丘棄城而遁。乙卯,圍益州刺史周楚于成都,桓溫遣江夏相硃序救之。十二月戊戌,以會稽內史王彪之為尚書僕射。

365年3月壬申、哀皇帝を安平陵に葬った。癸酉、司馬欽が薨じた。司馬欽は、散騎常侍・河間王だった。
丙子、慕容イの將・慕容恪は、洛陽を陥落させた。甯朔將軍の竺瑤は、襄陽に逃げた。冠軍長史で揚武將軍の沈勁は戦死した。

沈勁は、前年9月に冠軍將軍・陳祐が、洛陽守備に置いていった人。『晋書』の列伝「忠義」に載っている。

夏6月戊子、周撫が死んだ。周撫は、使持節、都督益甯二州諸軍事、鎮西將軍、益州刺史、建城公であった。
秋7月、匈奴の左賢王・衛辰と、右賢王・曹谷が、20000を率いて苻堅の杏城を侵した。己酉、會稽王の司馬昱を琅邪王とした。壬子、庾氏を皇后に立てた。琅邪王・司馬昱の子・司馬昌明を、會稽王とした。
梁州刺史の司馬勳が叛乱して、自ら成都王を称した。 11月、司馬勳は劍閣の軍を率いて、涪城を攻めた。西夷校尉の毌丘氏は、涪城を捨てて逃げた。乙卯、司馬勳は、益州刺史・周楚を成都で包囲した。桓温は、江夏相の硃序に、成都を救援させた。
12月戊戌、會稽内史・王彪之を、尚書僕射とした。

366年、益州と梁州を平定

太和元年春二月己醜,以涼州刺史張天錫為大將軍、都督隴右關中諸軍事、西平郡公。丙申,以宣城內史桓秘為持節、監梁益二州征討諸軍事。三月辛亥,新蔡王邈薨。荊州刺史桓豁遣督護桓羆攻南鄭,魏興人畢欽舉兵以應羆。夏四月,旱。五月戊寅,皇后庾氏崩。硃序攻司馬勳于成都,眾潰,執勳,斬之。秋七月癸酉,葬孝皇后于敬平陵。九月甲午,曲赦梁、益二州。冬十月辛醜,苻堅將王猛、楊安攻南鄉,荊州刺史桓豁救之,師次新野而猛、安退。以會稽王昱為丞相。十二月,南陽人趙弘、趙憶等據宛城反,太守桓澹走保新野。慕容將慕容厲陷魯郡、高平。

太和元(366)年春2月己酉、涼州刺史の張天錫を、大將軍、都督隴右關中諸軍事、西平郡公とした。丙申、宣城内史の桓秘を、持節、監梁益二州征討諸軍事とした。
3月辛亥、新蔡王・司馬邈が薨じた。荊州刺史・桓豁は、督護の桓羆に南鄭を攻めさせた。魏興郡の人・畢欽は挙兵して、桓羆に呼応した。

南鄭とは、漢中だ。自称・成都王の司馬勳を、荊州から攻めたのだ。

夏4月、日照り。5月戊寅、皇后の庾氏が崩じた。
硃序は、成都で司馬勳を攻めた。司馬勳を捕えて斬った。
秋7月癸酉、孝皇后(庾氏)を敬平陵に葬った。
9月甲午、司馬勳に属した、梁州、益州の2州を許した。
冬10月辛酉、苻堅の將・王猛と楊安は、南郷を攻めた。荊州刺史の桓豁は、南郷を救って新野に入った。苻堅の将・王猛と楊安は退いた。
會稽王の司馬昱を丞相とした。
12月、南陽郡の人・趙弘、趙憶らが、宛城で東晋に反した。南陽太守の桓澹は、新野に逃げた。慕容イの將・慕容厲は、魯郡と高平郡を陥落させた。

367-69年、桓温の執念と企み

二年春正月,北中郎將庾稀有罪,走入於海。夏四月,慕容將慕容塵寇竟陵,太守羅崇擊破之。苻堅將王猛寇涼州,張天錫距之,猛師敗績。五月,右將軍桓豁擊趙憶,走之,進獲慕容將趙槃,送于京師。秋九月,以會稽內史郗愔為都督徐兗青幽四州諸軍事、平北將軍、徐州刺史。冬十月乙巳,彭城王玄薨。
三年春三月丁巳朔,日有蝕之。癸亥,大赦。夏四月癸巳,雨雹,大風折木。秋八月壬寅,尚書令、衛將軍、藍田侯王述卒。

二(367)年春正月、北中郎將の庾稀は罪を受け、海に逃げた。
夏4月、慕容イの將・慕容塵が、竟陵を寇した。竟陵太守・羅崇は、慕容塵を撃破した。苻堅の將・王猛が、涼州に寇した。張天錫は、王猛を敗った。
5月、右將軍・桓豁は、趙憶を敗走させた。桓豁は進軍し、慕容イの將・趙槃を捕えて、建康に送った。
秋9月、會稽内史の郗愔を、都督徐兗青幽四州諸軍事、平北將軍、徐州刺史とした。 冬10月乙巳、彭城王・司馬玄が薨じた。
三(368)年春3月丁巳朔、日食。癸亥、大赦。夏4月癸巳、雹が降って、大風が木を折った。
秋8月壬寅、王述が死んだ。王述は、尚書令、衛將軍、藍田侯であった。

四年夏四月庚戌,大司馬桓溫帥眾伐慕容。秋七月辛卯,將慕容垂帥眾距溫,溫擊敗之。九月戊寅,桓溫裨將鄧遐、硃序遇將傅末波于林渚,又大破之。戊子,溫至枋頭。丙申,以糧運不繼,焚舟而歸。辛醜,慕容垂追敗溫後軍於襄邑。冬十月,大星西流,有聲如雷。己巳,溫收散卒,屯于山陽。豫州刺史袁真以壽陽叛。十一月辛醜,桓溫自山陽及會稽王昱會于塗中,將謀後舉。十二月,遂城廣陵而居之。

四(369)年夏4月庚戌、大司馬の桓温は、慕容イを攻撃した。
秋7月辛卯、慕容イの將・慕容垂が、桓温を防いだ。桓温は、慕容垂を負かした。
9月戊寅、桓温の裨將・鄧遐、硃序が、慕容イの將・傅末波と、林渚で会戦した。東晋方が大勝した。戊子、桓温は枋頭に到った。丙申、桓温は、兵糧輸送が続かないので、舟を焼いて撤退した。辛酉、慕容垂は桓温を追い、桓温の後詰を襄邑で破った。
冬10月、大星が西で流れ、雷鳴のような音がした。己巳、桓温は離散した兵を集めて、山陽に駐屯した。豫州刺史の袁真が、壽陽で桓温に叛いた。
11月辛酉、桓温は、山陽から塗中に行き、會稽王・司馬昱と会った。桓温は、司馬昱を次の皇帝にする相談をした。12月、桓温は廣陵城に入った。