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341-42年、奇蹟の年号

蘇峻を片付けた後、生年皇帝の成帝が、小康状態を作っている。
だが、王導、郗鑒、庾亮が立て続けに死んだ。
また権力闘争が始まらなければいいけど・・・

341年、土断の実施

七年春二月甲子朔,日有蝕之,己卯,慕容皝遣使求假燕王章璽,許之。三月戊戌,杜皇后崩。夏四月丁卯。葬恭皇后于興平陵。實編戶,王公已下皆正土斷白籍。秋八月辛酉,驃騎將軍、東海王沖薨。九月,罷太僕官。冬十二月癸酉,司空、興平伯陸玩薨。除樂府雜伎。罷安州。

七(341)年2二月甲子朔、日食。
己卯、慕容皝は、東晋に「假燕王章璽」をねだった。成帝は許した。
3月戊戌、杜皇后が崩じた。
夏4月丁卯、恭皇后(杜氏)を、興平陵に葬った。戸籍を実態に合わせて編集し、王公以下はみな土断白籍。

「土断法」というやつです。華北から移住してきた人を、本籍地ではなく、現在の居住地で戸籍に登録する。戸籍に基づいて、課税する。

秋8月辛酉、司馬沖が薨じた。司馬沖は、驃騎將軍、東海王だった。
9月、太僕官を罷免した。
冬12月癸酉、陸玩が薨じた。司空、興平伯だった。
樂府の雜伎を除いた。安州を除いた。

342年、22歳の崩御

八年春正月己未朔,日有蝕之。乙丑,大赦。三月,初以武悼楊皇后配饗武帝廟。夏六月庚寅,帝不豫,詔曰:「朕以眇年,獲嗣洪緒,托于王公之上,于茲十有八年。未能闡融政道。翦除逋昆,夙夜戰兢,匪遑寧處。今遘疾殆不興,是用震悼於厥心。千齡眇眇,未堪艱難。司徒、琅邪王嶽,親則母弟,體則仁長,君人之風,允塞時望。肆爾王公卿士,其輔之!以祗奉祖宗明祀,協和內外,允執其中。嗚呼,敬之哉!無墜祖宗之顯命。」壬辰,引武陵王晞、會稽王昱、中書監庾冰、中書令何充、尚書令諸葛恢並受顧命。癸巳,帝崩於西堂,時年二十二,葬興平陵,廟號顯宗。

八(342)年、春正月己未朔、日食。乙丑、成帝は大赦した。
3月、司馬炎の武悼楊皇后を、武帝廟に配饗した。
夏6月庚寅、成帝は体調を崩した。詔した。
「私は年端も行かない幼児のくせに、皇帝になった。王公の上位に、18年間君臨してきた。政治はうまくいかないし、外敵との戦いばかりで、国家は落ち着いていない。だが私に余命はない。司徒で琅邪王の司馬嶽は、私の同母弟だから、血筋がとても近い。風体は仁長で、君人之風の持ち主だ。司馬嶽は、閉塞を切り開いてくれる人物だと思う。臣下一同、司馬嶽を輔けてくれ。司馬氏の祖先は、なんと立派であることか。司馬氏が受けた天命を、絶やさないようにな」
壬辰、武陵王の司馬晞、會稽王の司馬昱、中書監の庾冰、中書令の何充、尚書令の諸葛恢は、成帝の遺命を受けた。

朝廷の重要人物が、ここで一覧できます。それにしても、自分より「若い」青年が、老成した遺言を吐くのを読むのは、複雑な気持ちです。そりゃゴーストがいただろうが、どんな気持ちで遺言したんだろ。

癸巳、成帝は西堂で崩じた。22歳だった。成帝は、興平陵に葬られた。廟號は顯宗である。

帝少而聰敏,有成人之量。南頓王宗之誅也,帝不之知,及蘇峻平,問庾亮曰:「常日白頭公何在?」亮對以謀反伏誅,帝泣謂亮曰:「舅言人作賊,便殺之,人言舅作賊,複若何?」亮懼,變色。

成帝は若かったが、聡敏であり、成人之量があった。

名探偵コナンである。ぼくは別に好きじゃないけど・・・

南頓王の司馬宗が誅殺された。だが成帝は、誅殺を知らなかった。蘇峻を平定した後、成帝は庾亮に聞いた。
「いつもその辺にいる、白髪のオッチャン(司馬宗)はどこだ?」
庾亮は成帝に答えた。
「司馬宗どのは謀反を企んだので、誅に伏しました」
これを聞いた成帝は、泣きながら庾亮に言った。
「舅どの(庾亮)は、オッチャンが謀反したから、さっさと殺したという。もし誰かが、舅どの(庾亮)が謀反を企んでいると言ったら、どうするのだ?
庾亮は懼れて、顔色を変えた。

「便」というのは、「すなわち」と読む漢字のひとつだが、すんなりと前後関係が流れたことを指す。成帝が受け取ったニュアンスでは、司馬宗はろくに冤罪を検討されず、あっさり殺されたことになる。
庾亮は、もし自分に悪いウワサが立てば、ろくに捜査もなく殺されても文句を言えないことになった。だから庾亮は、懼れたのだと思う。


庾懌嘗送酒于江州刺史王允之,允之與犬,犬斃,懼而表之。帝怒曰:「大舅已亂天下,小舅複欲爾邪?」懌聞,飲藥而死。然少為舅氏所制,不親庶政。及長,頗留心萬機,務在簡約,常欲於後園作射堂,計用四十金,以勞費乃止。雄武之度,雖有愧于前王;恭儉之德,足追蹤於住烈矣。

庾懌はかつて、江州刺史の王允之に酒を送った。王允之はお返しとして、庾懌にイヌをプレゼントした。イヌが死んだとき、庾懌は懼れて、イヌの死を上表して報告した。
成帝は怒った。成帝は庾懌に言った。
「大舅(庾亮)は、すでに天下を乱した。小舅(庾懌)もまた、天下を乱そうというのか?」

庾懌はイヌの死を上表してアリバイを作り、王允之に恨まれないように先手を打ったか。だが成帝は、イヌの死なんて、しょーもないことを皇帝の耳に入れる庾懌のセコさに腹を立てたってこと?
それにしても、「庾亮が天下を乱した」なんてよく言ったな・・・

庾懌は成帝の怒りを聞いて、服毒自殺した。
このように成帝は、若いけれども、外戚の庾氏を抑えることに成功したのだ。
成帝は成人すると、抜け落ちなく目配り&心配りをして、政治手続きを簡素化した。
成帝は、後宮の園に、射堂(射撃の娯楽施設)を作りたいと思った。見積もりをさせたら、建設に40金かかることを知った。費用がかかり過ぎるから、成帝は計画を中止した。
成帝は、雄武之度では、古代の伝説の王たちに劣った。しかし恭儉之德では、古代の伝説の王たちに迫るものがあった。

成帝がすごいのは、年号を長続きさせたことだ。大きなトラブルがなかったことを意味する。327年から「咸和」を9年間。335年から「咸康」を8年間。しかも「咸和」から「咸康」に代えた理由は、成帝の元服。つまり慶事が理由だ。
治世の18年間、実質的に1つの年号を使い通した皇帝は珍しかろう。


つぎは、康帝紀です。
ネタバレしておくと、康帝は即位して2年後に死にます。