表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』東晋の本紀を、贅沢に訳す

332-35年、成帝の元服

年号の「咸康」が続いています。9年まで続きます。
東晋王朝が、小康状態の証です。

332年、襄陽の奪い合い

七年春正月辛未,大赦。三月,西中郎將趙胤、司徒中郎匡術攻石勒馬頭塢,克之。勒將韓雍寇南沙及海虞。夏四月,勒將郭敬陷襄陽。五月,大水。秋七月丙辰,詔諸養獸之屬,損費者多,一切除之。太尉陶侃遣子平西參軍斌與南中郎將桓宣攻石勒將郭敬,破之,克樊城。竟陵太守李陽拔新野、襄陽,因而戍之。冬十一月壬子朔,進太尉陶侃為大將軍。詔舉賢良。十二月庚戌,帝遷于新宮。

七(332)年春正月辛未、成帝は大赦した。
3月、西中郎將の趙胤と、司徒中郎の匡術が、馬頭塢で石勒を攻めて、石勒に勝った。石勒の部将・韓雍は、南沙を寇して、海虞に及んだ。
夏4月、石勒の部将・郭敬が、襄陽を陥落させた。 5月、大水。
秋7月丙辰、成帝は詔して、獣のエサ代の節約を命じた。
太尉の陶侃は、陶侃の子で平西參軍の陶斌と、南中郎將の桓宣に命じて、石勒の部将・郭敬を攻めさせた。陶斌と桓宣は、郭敬を破って、樊城で勝った。竟陵太守の李陽は、新野と襄陽を抜いて、征圧した。

襄陽を取り戻した。東晋は、孫呉より領土が広い。

冬11月壬子朔、太尉の陶侃を、大將軍に進めた。詔して、賢良な人材を推挙させた。
12月庚戌、成帝は新しい宮殿に移った。

333年、石勒死後の降伏者

八年春正月辛亥朔,詔曰:「昔犬賊縱暴,宮室焚蕩,元惡雖翦,未暇營築。有司屢陳,朝會逼狹,遂作斯宮,子來之勞,不日而成。既獲臨禦,大饗群後,九賓充誕,百官象物。知君子勤禮,小人盡力矣。思蠲密綱,咸同斯惠,其赦五歲刑以下。」令諸郡舉力人能舉千五百斤以上者。丙寅,李雄將李壽陷甯州,刺史尹奉及建甯太守霍彪並降之。癸酉,以張駿為鎮西大將軍。丙子,石勒遣使致賂,詔焚之。夏四月,詔封故新蔡王弼弟邈為新蔡王。以束帛征處士尋陽翟湯、會稽虞喜。五月,有星隕於肥鄉。麒麟、騶虞見於遼東。乙未,車騎將軍、遼東公慕容廆卒,子皝嗣位。六月甲辰,撫軍將軍王舒卒。秋七月戊辰,石勒死,子弘嗣偽位,其將石聰以譙來降。冬十月,石弘將石生起兵於關中,稱秦州刺史,遣使來降。石弘將石季龍攻石朗於洛陽,因進擊石生,俱滅之。十二月,石生故部將郭權遣使請降。

八(333)年春正月辛亥朔、成帝は詔した。
犬賊(蘇峻)が暴をやり、宮殿が焼けた。みなの協力で、新しい宮殿が立った。気持ちを引き締めて政治しよう。5年未満の懲役刑は赦す」
諸郡に命じて、1500斤以上を持ち上げられる人を集めた。
丙寅、李雄の部将・李壽が甯州を陥落した。寧州刺史の尹奉と、建甯太守の霍彪は、成漢に降伏した。
癸酉、張駿を鎮西大將軍にした。
丙子、石勒は贈り物をよこした。だが成帝は詔して、品物を焚いた。

東晋目線だから「賂」と書いてあるが、宮殿が建ったお祝いのプレゼントだったのでは?東晋が、石勒を全く認めずに敵対していることが分かる。

夏4月、亡き新蔡王の司馬弼の弟、司馬邈を新蔡王にした。尋陽郡の翟湯、會稽郡の虞喜に、帛束を与えた。
5月、肥郷に隕石。麒麟、騶虞が、遼東に現れた。

騶虞は、晋では重要な生き物。戦闘を解除する「仁獣」・・・挿絵が欲しいなあ。

乙未、車騎將軍・遼東公の慕容廆が死んだ。子の慕容皝が位を嗣いだ。
6月甲辰、撫軍將軍の王舒が死んだ。
秋7月戊辰、石勒が死に、子の石弘が偽皇帝を嗣いだ。石弘の部将・石聡が、譙郡を引き連れて東晋に降伏した。

石聡は、石勒全盛期も、東晋にちょいちょい負けてた人。

冬10月、石弘の部将・石生が、関中で起兵した。石生は秦州刺史を称して、東晋に降伏の使者を送った。石弘の部将・石虎は、石朗を洛陽に攻めた。石虎は石生を撃って進み、石生と石朗をともに滅した。

石弘の後継者としての立場が弱く、反対勢力が東晋に靡いている。

12月、殺された石生の部将・郭權が、東晋に降伏の使者をよこした。

334年、後趙と成漢の「弑」

九年春正月,隕石於涼州二。以郭權為鎮西將軍、雍州刺史。二月丁卯,加鎮西大將軍張駿為大將軍。三月丁酉,會稽地震。夏四月,石弘將石季龍使石斌攻郭權於郿,陷之。六月,李雄死,其兄子班嗣偽位。乙卯,太尉、長沙公陶侃薨。大旱,詔太官撤膳;省刑,恤孤寡,貶費節用。辛末,加平西將軍庾亮都督江、荊、豫、益、梁、雍六州諸軍事。秋八月,大雩。自五月不雨,至於是月。九月戊寅,散騎常侍,衛將軍、江陵公陸曄卒。冬十月,李雄子期弑李班而自立,班弟玝與其將焦會、羅凱等並來降。十一月,石季龍弑石弘,自立為天王。十二月丁卯,以東海王沖為車騎將軍,琅邪王嶽為驃騎將軍。蘭陵人硃縱斬石季龍將郭祥,以彭城來降。

九(334)年春正月、涼州に2つ隕石。

涼州は東晋の支配外だから、むしろ隕石は吉兆?そんなことないか・・・

後趙の降将・郭權を、鎮西將軍・雍州刺史とした。

優遇だ。曹魏から孫呉への降伏者は、あり得なかった。「後趙-東晋-成漢」と、三国鼎立が地理的に再現されているが、心理的な優劣は違う。

2月丁卯、鎮西大將軍の張駿に、大將軍を加えた。
3月丁酉、會稽郡で地震。
夏4月、石弘の部将・石虎は、石斌に「郿城にいる郭權を撃て」命じた。石斌は、郿城を陥落させた。

関中で東晋に味方していた、後趙の裏切り者は、制裁された。
ところでこの文、英語の関係代名詞の問題みたいに、修飾が複雑だった。
ここで謎かけを1つ。石勒死後の後趙とかけまして、ライターがない時代の点火手段と解く。そのココロは、石と石がぶつかりあう。・・・もはや訳注じゃないな

6月、李雄が死に、兄の子の李班が、偽の皇位を嗣いだ。
乙卯、陶侃が薨じた。陶侃は、太尉・長沙公だった。
大いに日照り。詔して、官費を削り、刑を軽くし、生活補助を出した。
辛末、平西將軍の庾亮に、都督江、荊、豫、益、梁、雍六州諸軍事を加えた。

陶侃が死んで、庾亮が西府のトップになった。

秋8月、大いに雩(あまごい)した。
5月から8月まで、雨が降っていない。
9月戊寅、陸曄が死んだ。陸曄は、散騎常侍、衛將軍、江陵公だった。
冬10月、李雄の子・李期が、李班を弑して自立した。李班の弟・李玝は、部将の焦會、羅凱らと、東晋に降伏した。
11月、石虎は石弘を弑して、自ら天王に立った。

石勒と李雄が死に、両国とも弑逆が起きた。なぜか歩調が合う・・・

12月丁卯、東海王の司馬沖を、車騎將軍とした。琅邪王の司馬嶽を、驃騎將軍とした。蘭陵郡の人・硃縱は、石虎の部将・郭祥を斬った。硃縱は、東晋の彭城に降った。

335年、石虎VS王導

咸康元年春正月庚午朔,帝加元服,大赦,改元,增文武位一等,大酺三日,賜鰥寡孤獨不能自存者米,人五斛。二月甲子,帝親釋奠。揚州諸郡饑,遣使振給。三月乙酉,幸司徒府。夏四月癸卯,石季龍寇曆陽,加司徒王導大司馬、假黃鉞、都督征討諸軍事,以禦之。癸醜,帝觀兵于廣莫門,分命諸將,遣將軍劉仕救曆陽,平西將軍趙胤屯慈湖,龍驤將軍路永戍牛渚,建武將軍王允之戍蕪湖。司空郗鑒使廣陵相陳光帥眾衛京師,賊退向襄陽。戊午,解嚴。石季龍將石遇寇中廬,南中郎將王國退保襄陽。秋八月,長沙、武陵大水。束帛徵處士翟湯、郭翻。冬十月乙未朔,日有蝕之。是歲,大旱,會稽余姚尤甚,米鬥五百價,人相賣。

咸康元(335)年春正月庚午朔、成帝は元服した。大赦して改元し、バラまきをした。
2月甲子、成帝は釋奠した。

「釋奠」は、セキテンと読む。天子が地方巡幸して、もしくは征伐前に、山川の神や古代の聖人に、牛・羊などの生贄や、その他供え物をする祭り。もしくは、孔子の祭り。

揚州の諸郡が飢饉なので、成帝は食物を配らせた。
3月乙酉、成帝は司徒府に行った。
夏4月癸卯、石虎が歴陽を寇した。司徒の王導に大司馬を加え、假黄鉞、都督征討諸軍事として、石虎を防がせた。

王導のおっさんは、まだ生きていた!王導は司馬睿より9つ歳上でした。東晋建国のとき、世話役だったわけだ。司馬睿の孫が元服しても、まだ王導は生きているとは・・・ネタバレをしておくと、王導は339年まで生きます。

癸酉,成帝は廣莫門で、閲兵して、諸将に命令を下した。將軍の劉仕には歴陽を救わせ、平西將軍の趙胤は慈湖に屯させ、龍驤將軍の路永に牛渚を守らせ、建武將軍の王允之に蕪湖を守らせた。

「戍」は、まもること。「戌(いぬ)」とは別の字。内側が「、」か「一」か。へー。

司空の郗鑒は、廣陵相の陳光に、建康を防衛させた。賊(石虎)は、退いて襄陽に向った。戊午、厳戒態勢が解かれた。石虎の部将・石遇は、中廬を寇した。南中郎將の王國は、退いて襄陽を保った。
秋8月、長沙郡、武陵郡で大水。翟湯と郭翻に束帛を徴した。
冬10月乙未朔、日食。この歳、大いに日照り。會稽郡の余姚県がもっとも酷く、米の値段が五百価になった。