表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』東晋の本紀を、贅沢に訳す

324年下、明帝の勝利

324年6月、王敦と決戦間近となった。

大動員と大封賞

秋七月壬申朔,敦遣其兄含及錢鳳、周撫、鄧嶽等水陸五萬,至於南岸。溫嶠移屯水北,燒硃雀桁,以挫其鋒。 帝躬率六軍,出次南皇堂。至癸酉夜,募壯士,遣將軍段秀、中軍司馬曹渾、左衛參軍陳嵩、鐘寅等甲卒千人渡水,掩其未備。平旦,戰於越城,大破之,斬其前鋒將何康。王敦憤惋而死。前宗正虞潭起義師於會稽。沈充帥萬餘人來會含等,庚辰,築壘於陵口。丁亥,劉遐、蘇峻等帥精卒萬人以至,帝夜見,勞之,賜將士各有差。義興人周蹇殺敦所署太守劉芳,平西將軍祖約逐敦所署淮南太守任台于壽春。乙未,賊眾濟水,護軍將軍應詹帥建威將軍趙胤等距戰,不利。賊至宣陽門,北中郎將劉遐、蘇峻等自南塘橫擊,大破之。劉遐又破沈充於青溪。

234年秋7月壬申朔、王敦は兄の王含、錢鳳、周撫、鄧嶽らに、水陸5万を率させて、長江の南岸に布陣した。
温嶠は陣を移して、長江北岸に駐屯した。温嶠は、接岸させるための木桁を焼き払い、王敦の勢いを削いだ。
明帝は六軍を率いて、南の皇堂に出た。癸酉の夜、明帝は壯士を募った。將軍の段秀、中軍司馬の曹渾、左衛參軍の陳嵩や鐘寅らに、武装兵1000人を率いさせ、川を渡った。王敦軍が備える前に、夜襲した。
朝になり、明帝軍は王敦の城を越えて、王敦を大いに破った。明帝軍は、王敦の前鋒將である何康を斬った。王敦は、敗戦に憤って死んだ。

直接戦って、破ったのではない。病死だ。

さきの宗正である虞潭は、会稽郡で、明帝のために挙兵した。沈充は万余人を率いて、駆けつけた。王敦の兄・王含と開戦した。庚辰、防壘を陵口に築いた。丁亥、明帝方の劉遐や蘇峻らは、精兵10000を率いて、到着した。明帝は夜に会見して、労をねぎらった。將士にそれぞれ賞賜した。
義興郡の人・周蹇は、王敦が任命した義興太守の劉芳を殺した。平西將軍の祖約は、王敦が任命した淮南太守の任台を、壽春から追い出した。
乙未、王敦軍が川を北へ渡った。護軍將軍の應詹は、建威將軍の趙胤らを率いて、王敦軍を防いだ。だが王敦軍に負けた。王敦軍は宣陽門に到った。明帝方の北中郎將・劉遐、蘇峻らは、南塘を討った。また劉遐は、沈充を青溪で破った。

丙申,賊燒營宵遁。丁西,帝還宮,大赦,惟敦党不原。於是分遣諸將追其黨與,悉平之。封司徒王導為始興郡公,邑三千戶,賜絹九千匹;丹陽尹溫嶠建寧縣公,尚書卞壼建興縣公,中書監庾亮永昌縣公,北中郎將劉遐泉陵縣公,奮武將軍蘇峻邵陵縣公,邑各一千八百戶,絹各五千四百匹;尚書令郗鑒高平縣侯,護軍將軍應詹觀陽縣侯,邑各千六百戶,絹各四千八百匹;建威將軍趙胤湘南縣侯,右將軍卞敦益陽 縣侯,邑各千六百戶,絹各三千二百匹。其餘封賞各有差。

334年7月丙申、王敦軍は幕営を焼き払って、夜逃げした。
丁西、明帝は宮殿に戻った。大赦したが、王敦の一党だけは許さなかった。諸将に王敦の残党を追討させて、王敦の乱は全て平定された。
司徒の王導(王敦の従弟)を、始興郡公に封じて、邑3000戸を与え、絹9000匹を賜った。
丹陽尹の温嶠を、建寧縣公とした。尚書の卞壼を、建興縣公とした。中書監の庾亮を、永昌縣公とした。北中郎將の劉遐を、泉陵縣公とした。奮武將軍の蘇峻を、邵陵縣公として、以上の5名にそれぞれ1800戸、絹5400匹を与えた。
尚書令の郗鑒を高平縣侯にした。護軍將軍の應詹を觀陽縣侯にした。以上2名にそれぞれ邑1600戸、絹4800匹を与えた。
建威將軍の趙胤を湘南縣侯とし、右將軍の卞敦を益陽 縣侯とした。以上2名にそれぞれ邑1600戸、絹3200匹を与えた。その他の人たちも、封賞をもらった。

王敦討伐の評価が、数字で視える化されていて、とても良い(笑)「王導は、温嶠の2倍弱だ。温嶠と庾亮と蘇峻が同格だ・・・」などなど。


冬十月,以司徒王導為太保、領司徒,太宰、西陽王羕領太尉,應詹為平南將軍、都督江州諸軍事、江州刺史,劉遐為監淮北諸軍事、徐州刺史,庾亮為護軍將軍。詔王敦群從一無所問。是時,石勒將石生屯洛陽,豫州刺史祖約退保壽陽。十二月壬子,帝謁建平陵,從大祥之禮。梁水太守爨亮、盜竊州太守李逷以興古叛,降于李雄。沈充故將顧颺反于武康,攻燒城邑,州縣討斬之。

334年冬10月、司徒の王導を太保とし、司徒と太宰を領ねさせた。

晋には、後漢の三公に匹敵する「八公」がある。王導は宰相のポストの8分の3を占めたわけだが・・・言葉遊びに見えなくもない(笑)

西陽王の司馬羕は、太尉を領ねた。應詹は平南將軍となり、江州の諸軍事を全て任され、江州刺史となった。劉遐は、淮北の諸軍事を全て任され、徐州刺史となった。庾亮は護軍將軍となった。
明帝は詔して、王敦に関わった人の罪を不問にした。
このとき後趙の石勒の部将・石生は、洛陽に駐屯した。豫州刺史の祖約は、後趙に押され、壽陽まで後退させられた。
12月壬子、明帝は建平陵を詣でて、大祥之禮に従った。
梁水太守の爨亮は、竊州太守の李逷を捉えて、成漢の李雄に降伏した。(王敦の部将だった)沈充に以前従った顧颺が、武康で叛乱した。城邑を攻めて焼き討ちにした。州縣の官軍は顧颺を斬り、叛乱を平定した。