125年春、安帝が死に、閻氏が劉懿を立てる
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
125年春、安帝が死に、閻氏が劉懿を立てる
125年春2月乙亥、下邳惠王の劉衍が薨じた。
2月甲辰、安帝の車駕は南巡した。
3月戊午ついたち、日食あり。3月庚申、安帝は宛につき、体調わるい。3月乙丑、安帝は宛県をたつ。3月丁卯、葉県につく。安帝は、乘輿で崩じた。32歳。
閻皇后と閻顯の兄弟と、江京、樊豐らは、謀った。「いま晏駕は道中だ。濟陰王の劉保は、京師にいる。公卿が、劉保を皇帝にする。私たちには大害だ」と。そこで「安帝は病気だ」と偽る。生前のように、食事をあげ、起居を問う。4日、驅馳して、3月庚
午、還宮した。3月辛未、司徒の劉熹は、郊廟・社稷にゆき、天命を告請した。その日の夕、安帝の喪を発した。閻皇后を尊び、閻太后とした。閻太后は臨朝した。
閻顯を車騎將軍、儀同三司とした。閻氏は、濟北惠王(劉寿)の子・北鄉侯の劉懿に嗣がせる。劉保は廢黜され、上殿できない。悲號して食べず。內外群僚は、劉保を哀しんだ。
3月甲戌、濟南孝王の劉香が薨じた。子なく、国を除く。3月乙酉、劉懿は皇帝となる。
125年夏、閻顯が、耿寶や樊豐らを除く
125年夏4月丁酉、太尉の馮石を、太傅とする。司徒の劉熹を、太尉とし、錄尚書事を参じる。さきの司空の李郃を、司徒とする。
己酉,葬孝安皇帝於恭陵,廟曰恭宗。 六月,乙巳,赦天下。
閻顯は、大將軍の耿寶がジャマだ。耿寶は、官位が高く、安帝のとき威行した。閻顯は、有司に吹きこむ。「耿寶および、耿寶の党与である、中常侍の樊豐、虎賁中郎將の謝惲、侍中の周廣、野王君の王聖、王聖の娘・王永らは、みな徒党をくみ、大いに不道した」と。
4月辛卯、閻顯が敵視した人は、みな獄死した。家屬は比景にうつる。耿寶および、弟の子・林慮侯の耿承を、亭侯とし、国にゆかす。耿寶は、道中で自殺した。
ぼくは補う。殤帝は、民間で養育され、いきなり鄧太后が連れてきた。諱がかぶっても、仕方ないか。章帝の娘の嫁ぎ先が、この時代にキーとなりそう。リストアップしたい。
王聖の母子は、雁門にうつる。ここにおいて、閻景を衛尉、閻耀を城門校尉、閻晏を執金吾とし、閻氏の兄弟が權要を独占した。威福は自由だ。
4月己酉、安帝を恭陵に葬り、廟を恭宗という。6月乙巳、天下を赦した。
125年冬10月、劉懿が死ぬ
125年秋7月、西域長史の班勇は、後部王を大破した。索班は、北匈奴の使者の首を、京師に届けた。
北鄉侯病篤,中常侍孫程謂濟陰王謁者長興渠曰:「王以嫡統,本無失德。先帝用 讒,遂至廢黜。若北鄉侯不起,相與共斷江京、閻顯,事無不成者。」渠然之。又中黃 門南陽王康,先為太子府史,及長樂太官丞京兆王國等並附同於程。江京謂閻顯曰: 「北鄉侯病不解,國嗣宜以時定,何不早征諸王子,簡所置乎!」顯以為然。辛亥,北 鄉侯薨。顯白太后,秘不發喪,而更征諸王子,閉宮門,屯兵自守。
125年冬10月丙午、越巂山が崩れた。
皇帝の劉懿は、病が篤い。中常侍の孫程は、劉保の謁者する長興渠に言った。「もし劉保が立たねば、江京や閻顯を斬ってでも、劉保を皇帝としよう」と。長興渠は、孫程に同意した。
また中黃門する南陽の王康は、さきに太子府史となる。長樂太官丞する京兆の王國らとともに、孫程に同意した。
江京は、閻顯に言う。「劉懿は病気が治らない。皇子を集めよ」と。閻顯は同意した。10月辛亥、皇帝の劉懿は薨じた。閻太后は、劉懿の死を秘し、皇子を集めた。宮門を閉じ、兵が守る。
次回、劉保が順帝となります。つづく。