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125年冬、順帝が立ち、楊震が名誉回復

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

125年11月、孫程が閻顯を殺し、劉保を立てる

十一月,乙卯,孫程、王康、王國與中黃門黃龍、彭愷、孟叔、李建、王成、張賢、 史泛、馬國、王道、李元、楊佗、陳予、趙封、李剛、魏猛、苗光等聚謀於西鐘下,皆 截單衣為誓。丁巳,京師及郡國十六地震。是夜,程等共會崇德殿上,因入章台門。

125年11月乙卯、孫程、王康、王國と、中黃門の黃龍、彭愷、孟叔、李建、王成、張賢、 史泛、馬國、王道、李元、楊佗、陳予、趙封、李剛、魏猛、苗光らは、西鐘に集まる。單衣を裁ち、劉保を立てようと誓う。11月丁巳、京師および郡國16で地震あり。

時 江京、劉發及李閏、陳達等俱坐省門下,程與王康共就斬京、安、達。以李閏權勢積為 省內所服,欲引為主,因舉刃脅閏曰:「今當立濟陰王,無得搖動!」閏曰:「諾。」 於是扶閏起,俱於西鐘下迎濟陰王即皇帝位,時年十一。召尚書令、僕射以下從輦幸南 宮,程等留守省門,遮扞內外。帝登雲台,召公卿、百僚,使虎賁、羽林士屯南、北宮 諸門。

この日の夜、孫程らは、江京、劉安、陳達を斬る。李閏を味方につけ、劉保を皇帝にした。劉保は11歳だ。

ぼくは思う。のちに桓帝が、宦官をつかって梁冀を倒すが。だいぶ状況がちがう。
順帝は即位するために閻氏を斬るが、桓帝はすでに皇帝だった。また閻氏は、明らかに皇太子として妥当な劉保を廃した。梁冀は、劉志(桓帝)と劉蒜を比較したが、血筋の正当性は、どっちもどっちだ。
順帝は少年で、責任能力がなく、孫程に決起を依頼をしていない。閻氏は、大多数の目から見て、誅されても仕方ないほど、横車を押したのだ。証拠に順帝は、孫程にあまり恩を感じてない。あとで記述があるが、孫程をジャマがる。対して桓帝は成年で、宦官に決起を依頼した。桓帝は梁冀と私闘をやり、朝廷をムダに混乱させた気がする。梁冀は、閻顯とちがい、それなりに政策の方針をもち、朝廷を主宰した。
梁冀が質帝を殺したとされるが、史家がつくったウワサっぽい。百歩ゆずり、梁冀が質帝を殺したとして。桓帝が宦官をつかい、梁冀を斬った動機は、質帝と関係がない。

尚書令と尚書僕射より以下をあつめ、劉保を雲台に登らせた。公卿、百僚を召し、虎賁と羽林士を南北宮の諸門におく。

閻顯時在禁中,憂迫不知所為,小黃門樊登勸顯以太后詔召越騎校尉馮詩、虎賁 中郎將閻崇將兵屯平朔門以御程等。顯誘詩入省,謂曰:「濟陰王立,非皇太后意,璽 綬在此。苟盡力效功,封侯可得。」太后使授之印曰:「能得濟陰王者,封萬戶侯;得 李閏者,五千戶侯。」詩等皆許諾,辭以「卒被召,所將眾少。」顯使與登迎吏士於左 掖門外,詩因格殺登,歸營屯守。
顯弟衛尉景遽從省中還外府,收兵至盛德門。孫程傳 召諸尚書使收景。尚書郭鎮時臥病,聞之,即率直宿羽林出南止車門,逢景從吏士拔白 刃呼曰:「無干兵!」鎮即下車持節詔之,景曰:「何等詔!」因斫鎮,不中。鎮引劍 擊景墮車,左右以戟叉其胸,遂禽之,送廷尉獄,即夜死。

閻顯は禁中にいるが、なすすべなし。閻顯は、越騎校尉の馮詩に言った。「劉保が立つのは、閻太后の意思とちがう。天子の璽綬はここにある」と。閻太后は、璽をおして命じた。「劉保を捕えたら、1万戸の侯にする。李閏を捕えたら、5千戸の侯にする」と。馮詩は許諾し、兵を増やして營屯に帰る。
孫程は、閻顯の弟・衛尉の閻景を捕えて、その夜のうちに殺す。

戊午,遣使者入省,奪得璽綬,帝乃幸嘉德殿,遣侍御史持節收閻顯及其弟城門校 尉耀、執金吾晏,並下獄,誅;家屬皆徙比景。遷太后於離宮。己未,開門,罷屯兵。

11月戊午、孫程は天子の璽綬を奪う。劉保は、嘉德殿にゆく。閻顯とその弟を下獄し、誅殺した。家屬は、比景にうつす。閻太后は、離宮におく。

125年11月、順帝を即位させた、論功行賞

壬戌,詔司隸校尉:「惟閻顯、江京近親,當伏辜誅,其餘務崇寬貸。」封孫程等皆為 列侯:程食邑萬戶,王康、王國食九千戶,黃龍食五千戶,彭愷、孟叔、李建食四千二 百戶,王成、張賢、史泛、馬國、王道、李元、楊佗、陳予、趙封、李剛食四千戶,魏 猛食二千戶,苗光食千戶:是為十九侯,加賜車馬、金銀、錢帛各有差;李閏以先不豫 謀,故不封。擢孫程為騎都尉。

11月壬戌、孫程らを侯に封じた。

司馬光は、名と戸数をあげる。胡三省は、封地をあげる。はぶく。

李閏は、はじめから謀議に参加しないから、封じず。孫程を騎都尉とした。

初,程等入章台門,苗光獨不入。詔書錄功臣,令王康 疏名,康詐疏光入章台門。光未受符策,心不自安,詣黃門令自告。有司奏康、光欺詐 主上;詔書勿問。以將作大匠來歷為衛尉。示殳諷、劉瑋、閭丘弘等先卒,皆拜其子為 郎。硃倀、施延、陳光、趙代皆見拔用,後至公卿。征王男、邴吉家屬還京師,厚加賞 賜。
帝之見廢也,監太子家小黃門籍建、傅高梵、長秋長趙熹、丞良賀、藥長夏珍皆坐 徙朔方;帝即位,並擢為中常侍。

孫程が章台門に入ったとき、苗光だけ入らず。だが王康は偽り、苗光も章台門に入ったと記した。苗光は、事実を自白した。順帝は、苗光をとがめず。
將作大匠の來歷を、衛尉とした。[示殳]諷、劉瑋、閭丘弘らは、すでに死んだので、子を 郎とした。硃倀、施延、陳光、趙代は、のちに公卿となる。王男、邴吉の家屬を、京師にもどして、賞賜を加えた。劉保が太子を廃されたとき、籍建、高梵、良賀、夏珍は、朔方にうつされた。籍建らを中常侍とした。

初,閻顯辟崔□因之子瑗為吏,瑗以北鄉侯立不以正,知顯將敗,欲說令廢立,而 顯日沉醉,不能得見,乃謂長史陳禪曰:「中常侍江京等惑蠱先帝,廢黜正統,扶立疏 孽。少帝即位,發病廟中,周勃之征,於斯復見。今欲與君共求見說將軍,白太后,收 京等,廢少帝,引立濟陰王,必上當天心,下合人望,伊、霍之功不下席而立,則將軍 兄弟傳祚於無窮;若拒違天意,久曠神器,則將以無罪並辜元惡。此所謂禍福之會,分 功之時也。」禪猶豫未敢從。
會顯敗,瑗坐被斥;門生蘇祗欲上書言狀,瑗遽止之。時 陳禪為司隸校尉,召瑗謂曰:「弟聽祗上書,禪請為之證。」瑗曰:「此譬猶兒妾屏語 耳,願使君勿復出口。」遂辭歸,不復應州郡命。

はじめ閻顯は、崔インの子・崔瑗を吏とした。崔瑗は、劉懿の即位が正しくないから、すぐ閻顯が敗れると知る。崔瑗は閻顯に、劉保を立てよと説きたい。だが閻顯は沉醉して、崔瑗と面会しない。崔瑗は、長史の陳禪に言った。「中常侍の江京を捕え、劉懿を廃し、劉保を立てよ」と。陳禪は、握りつぶした。
閻顯が敗れると、崔瑗も連座した。だが門生の蘇祗が、上書した。「崔瑗は、劉懿でなく劉保を支持していた。閻顯の一味ではない」と。崔瑗は連座せず。
ときに陳禪は、司隸校尉となる。陳禪は、崔瑗に言った。「蘇祗の言い分の、証拠を見せろ」と。崔瑗は言った。「兒妾の雑談です。陳禪は、ふたたび口に出すな」と。崔瑗は帰り、州郡の命に応じず。

ぼくは思う。陳禅は、崔瑗から「劉保を立てよ」と聞いていた。陳禪は握りつぶした。そのくせ劉保が立つと、陳禪は司隷校尉となり、「崔瑗が劉保を立てたと言ったなんて、知らん」と言った。言った、言わない、の議論は不毛だ。陳禪は、一緒に仕事をしたくない人だ。崔瑗が、朝廷に愛想をつかしてしまった気持ちが、よく分かります。


125年12月、楊震の名誉を回復する

己卯,以諸王禮葬北鄉侯。 司空劉授以阿附惡逆,辟召非其人,策免。
十二月,甲申,以少府河南陶敦為司空。 楊震門生虞放、陳翼詣闕追訟震事;詔除震二子為郎,贈錢百萬,以禮改葬於華陰 潼亭,遠近畢至。有大鳥高丈餘集震喪前,郡以狀上。帝感震忠直,詔復以中牢具祠之。

125年11月己卯、諸王の禮で、劉懿を葬った。司空の劉授は、阿附・惡逆し、ろくでもない人を辟召した。司空を免じた。

ぼくは補う。楊震が却下した2人を、劉授は辟召した。

125年12月甲申、少府する河南の陶敦は、司空となる。 楊震の門生、虞放と陳翼は、楊震の名誉回復をもとめた。楊震の2子を郎とした。楊震を華陰潼亭に改葬した。順帝は、楊震の忠直に感じ、中牢をそなえた。

ぼくは思う。袁安は、竇憲にたちむかい、四世三公の基礎を築いた。楊震は、閻顯にたちむかい、四世三公の基礎を築いた。どちらも外戚と対立して、名をあげた。ただ袁氏のほうが、歴史がながい。ところで袁氏は、閻顯がのさばるとき、何をしていたんだろう?


議郎陳禪以為:「閻太后與帝無母子恩,宜徙別館,絕朝見,」群臣議者鹹以為宜。司 徒掾汝南周舉謂李郃曰:「昔瞽瞍常欲殺舜,舜事之逾謹;鄭武姜謀殺莊公,莊公誓之 黃泉,秦始皇怨母失行,久而隔絕,後感穎考叔、茅焦之言,復修子道;書傳美之。今 諸閻新誅,太后幽在離宮,若悲愁生疾,一旦不虞,主上將何以令於天下!如從禪議, 後世歸咎明公。宜密表朝廷,令奉太后,率群臣朝覲如舊,以厭天心,以答人望!」郃 即上疏陳之。

議郎の陳禪は、言った。「閻太后は、順帝の母でない。別館にうつせ。朝見させるな」と。司徒掾する汝南の周舉は、李郃に言った。「鄧太后と順帝は、会えたほうがよい」と。李郃は上疏し、閻太后をうつすことに反対した。101230