132年、左雄の40歳ルールに、胡広が反対
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
132年春、揚州の妖賊が49県を寇す
春,正月,乙巳,立貴人梁氏為皇後。 京師旱。 三月,揚州六郡妖賊章河等寇四十九縣,殺傷長吏。 庚寅,赦天下,改元。 夏,四月,梁商加位特進;頃之,拜執金吾。 冬,耿曄遣烏桓戎末魔等鈔擊鮮卑,大獲而還。鮮卑復寇遼東屬國,耿曄移屯遼東 無慮城以拒之。
132年春正月乙巳、梁貴人を皇后に立てた。
京師で日照。
3月、揚州6郡で、妖賊の章河らが49県を寇し、長吏を殺傷した。
3月庚寅、天下を赦し、陽嘉と改元した。
132年夏4月、梁商に特進を加え、このころ執金吾とした。
132年冬、耿曄は烏桓をつかい、鮮卑を大獲した。ふたたび鮮卑は遼東屬國を寇した。耿曄は、遼東の無慮城で防ぐ。
132年、左雄が孝廉を40歳以上とする
尚書令の左雄は、上疏した。「前漢の文帝と宣帝のように、地方を治めよ」と。宦官が、地方からの権益を確保したいので、左雄の上疏を実行させず。
『後漢書』左雄伝:孝廉を40歳以上に限定し、豪族の抗争を抑止 (1)
左雄は上言し、孝廉を40歳以上とした。順帝は従う。
ぼくは思う。40歳ルールは、安帝のとき、官位が乱れまくったから、それを沈静する目的であろう。順帝は、ともかく安帝の朝廷を是正することが、第一目標だったと思う。皇帝に集権する以前に、鄧太后の時代まで、もどさないと!
胡廣、郭虔、史敞は、40歳ルールに反対した。順帝は従わず。
『後漢書』胡広伝:主義主張なく、人事に興味のない事務官の三公 (1)
辛卯、順帝は、「孝廉を40歳以上に限る。顔回ほどの人材なら、40歳未満でよい」と命じた。広陵の徐淑は、40歳未満なのに、推挙された。徐淑は、左雄に顔回と比べられ、恥をかいた。広陵太守を免じた。
司馬光は、袁宏をひく。古典では、厳密に40歳で仕官するわけじゃない。ただ左雄は、強盛な勢力を牽制し、民衷のために、年齢を区切った。
左雄は、公直・精明だ。人材の真偽を、くわしく判定した。左雄は、40歳ルールを、きちんと実行した。
このころ胡廣は、京師を出て、濟陰太守となった。太守10余人が、40歳ルールを破り、免黜された。
ただ、汝南の陳蕃、穎川の李膺、下邳の陳球ら30余人は、郎中となった。これより、地方官は、軽く人材を挙げなくなった。永嘉(145年)にいたるまで、清平な人を、おおく察選した。
132年閏月庚子、恭陵の百丈廡が燃えた。順帝は、北海の郎顗が、陰陽之學に精通していると聞いた。101230