01) 冀州や揚州の豪族を分断
『後漢書』を、抄訳します。原文は、省かずに載せます。『資治通鑑』で概観した、後漢の後半を知るために、列伝を読んでいます。
岩波版の『後漢書』を参考に、適宜、李賢の注釈もひろいます。
冀州の豪族を拒み、虞詡が尚書に推す
左雄は、あざなを伯豪という。南陽の涅陽の人だ。安帝のとき、孝廉に挙がる。ようやく冀州刺史にうつる。
冀州の管轄には、豪族が多い。豪族は、請托を好む。つねに左雄は閉門し、豪族と交通せず。貪猾な太守を奏案した。すべての太守を、取り締まった。
中央から派遣される「官」と、現地で採用される「吏」の二重構造がある。「後漢は、豪族に掣肘された、合議政権」という話は、すでに廃れた。でも、この二重構造は、ホントウである。太守も同じく、豪族と交通したはずだ。
永建(126-132)初、公車に徴され、左雄は議郎となる。ときに順帝が新立した。大臣はだらけ、朝廷には欠政がおおい。左雄は、しばしば深切に諌めた。尚書僕射の虞詡(列伝48)は、左雄に忠公の節があるから、左雄を薦めた。
虞詡は言う。「いま公卿は、手をくんで黙る。ときの権力者に、気に入られたがる。だが左雄は、順帝が皇太子を外されたとき、きつく戒めた。左雄を、喉舌の官にせよ。朝廷にメリットがある」と。
これにより、左雄は尚書となる。ふたたび遷り、尚書令となる。左雄は上疏した。
左雄の上疏:地方政治を、文帝・宣帝にもどせ
賢人を用いて、人民を安んじるには考黜(勤務評定)が大切である。秦は郡県をおき、人民を餌食にした。前漢に入り、文帝の恵帝のとき、地方の政治はマシになった。前漢の宣帝は、言った。「私とともに、民を安らかにするのは、ただ良二千石だけだ」と。宣帝は、循吏を採用して、前漢を中興した。
漢室は300年たち、地方の政治が衰えた。県の長官は、コロコロ転任する。裁判も課税も、デタラメだ。あなた(後漢の順帝)は、前漢の文帝と宣帝のように、漢室を中興をしてください。
ぼくは思う。もし李賢の注釈を真に受けるなら。地方の政治をもどすのは、宣帝が手本。外戚の難から脱するのは、文帝が手本。このように、左雄が言ったことになる。「中興」という言葉に惑わされ、論点がブレている。外戚は、べつのテーマだ。
ふつうに、文帝もまた、地方の政治を手本とされたと読みたい。「至於文、景,天下康乂。誠由玄靖寬柔,克慎官人故也。」と、左雄が言っているのだ。
順帝は、左雄の言葉に感じいる。かさねて有司に、左雄の真偽を、確かめた。
有司は、地方の実態を、確かめた。左雄の言葉は、政治のあるべき姿に明達する。だが、宦官が権限をほしいままにし、左雄の提案をブロックした。
左雄を却下したので、地方の長官の人事は、コロコロ代わった。県令や県長は、月ごとに変わる。新任を迎え、前任を送るのが、とても面倒だ。官庁によっては、空っぽで担当者がいない。激務に任命されると、長官が逃亡する。
後漢は、豪族を支配するというより、豪族がとりあうオモチャを、提供するだけ? のちに宦官の子弟が、地方官になる。中央の抗争が、地方に波及した結果だ。構造は、おなじ。根本には、狭い土地のなかで、せめぎあう豪族たちがいる。これが「世論」だから、始末が悪い。
周辺地域の反乱は、豪族を分断して対処
永建三年(128年)、京師と漢陽で、地面が震裂した。水泉が湧き出た。永建四年(129年)、司州と冀州で、大水。左雄は、下が上に代わるサインだとして、警戒を呼びかけた。
青州、冀州、楊州で、盜賊が連發した。数年のあいだ、海内が擾亂した。大赦しても、数ヶ月でまた起兵する。左雄と、尚書僕射の郭虔は、ともに上疏した。
左雄は言う。「寇賊は、連年おきる。大半が死んでも、1人が法を犯せば、一族をあげて寇賊となる。勢力が弱いうちに、改悔させよ。もし党与が法を犯しても、一族のうちで誅斬すれば、これを賞を加えよ」と。順帝は、かえりみず。
おそらく、洛陽から遠いこれらの地域には、つよい豪族がいる。豪族同士があらそい、暴発すると、特定の豪族がごっそり後漢の敵になる。豪族同士のあらそいは、つねにある。後漢の官位を取り合うのも、丸ごと後漢に背くのも、おなじ構造の上で起きる現象だ。
左雄は、この現象に、一貫して問題関心をいだく。豪族を分断することで、対処しょうとした。行き着く先は、個別人身支配かも。左雄は、これを実現するため、特定の豪族と癒着しなかった。冀州刺史のときにね。
一族や与党が、降伏し損ねて、なだれを打って中央に反する。この成り行きは、のちの孫呉政権と同じだろう。一部の周瑜や魯粛が、曹操に背いたせいで、最後には皇帝を名のるハメになった。連座が恐く、引っこみが付かない。
また、左雄は上言した。「經術を、たっとべ。太學を繕修せよ」と。順帝は、従う。陽嘉元年(132年)太學を新成した。明經な人を試し、弟子(学生)とした。甲乙の科を増員し、それぞれ10人とした。
京師および郡國から、耆儒で60歳以上の人を、郎、舍人とした。諸王國の郎は、138人になる。
次回、左雄のもっとも有名は話。「40歳未満は、、推挙しない」です。