02) 孝廉は40歳以上とし、豪族を冷却
『後漢書』を、抄訳します。原文は、省かずに載せます。『資治通鑑』で概観した、後漢の後半を知るために、列伝を読んでいます。
岩波版の『後漢書』を参考に、適宜、李賢の注釈もひろいます。
40歳まで孝廉に挙げず、陳蕃・李膺・陳球が及第
左雄は上言した。「郡国の孝廉は、宣協風教する役割がある。孝廉は、40歳以上だけを察舉せよ。もし才能と品行があれば、40歳に満たなくてもよい」と。順帝は左雄に従い、郡国に下命した。
ぼくが見るに。冀州、青州、揚州は、豪族が多いのではない。豪族がつよいので、政争が絶えないわけでもない。
じつは、荊州や関中にも豪族がいるが、いま後漢で政権を持っている。だから、荊州や関中の豪族の抗争は、地方の反乱でなく、中央の政争として現れる。見え方がちがうが、根底はおなじだ。荊州も関中も、冀州、青州、揚州ばりに、抗争がはげしい。
いま左雄は、豪族による人材推挙をしばった。冀州、青州、揚州など、「後漢の野党」がいる地域を、安定させた。余談だが、青州、徐州、揚州など、関中や洛陽から遠い地域がもつ自立性が、のちに孫呉を独立させる。さっき書いたが。
明年、廣陵郡は、徐淑を孝廉にあげた。40歳に満たない。
ぼくは思う。順帝の時代、徐州や青州で、反乱が頻発した。これを平定できそうな、すぐれた人材なのだろう。「英雄」だもんね。採用すればいいじゃん。
台郎(尚書郎)は、疑って徐淑をなじる。徐淑は言った。「私は、顔回や子奇とおなじ。年齢は足りないが、広陵が私を選んだ」と。台郎は、徐淑に言い負けた。左雄は、徐淑をなじる。「顔回は、1を聞いて10を知った。孝廉の徐淑は、1を聞いて、いつを知るか」と。徐淑は答えられず。広陵太守をせめた。
濟陰太守の胡廣ら10余人は、要件にあわない人材をあげたから、免じた。ただ汝南の陳蕃、穎川の李膺、下邳の陳球ら、30余人は、郎中になった。牧守は畏れふるえ、かるく人材をあげず。永憙(145年)まで、清平な人材をおおく得た。
左雄は、海內の名儒を博士とした。公卿の子弟を、諸生とした。志操があれば、俸祿を加えた。汝南の謝廉、河南の趙建は、12歳だが通經する。左雄は、謝廉と趙建を、童子郎とした。
書物をせおい、学びにくる人が、京師にむらがる。
順帝の乳母・宋娥を、山陽侯に封じるな
はじめ順帝は、皇太子を廃され、濟陰王となった。乳母の宋娥と、黃門の孫程らが、順帝を即位させた。順帝は、宋娥を山陽君とした。邑は5千戸。また大將軍・梁商の子・梁冀を襄邑侯とした。左雄は、封事した。
「地を割いて、侯を封じるのは、王制の重んじるところだ。劉邦は、劉氏だけ侯とすると約した。安帝が、江京と王聖らを封じたら、地震した。127年、日食があった。いま青州が飢えた。盗賊が起きた。いくら恩人でも、ルールを破るな。宋娥を山陽公に、梁冀を襄邑侯にするな」と。順帝はきかず。左雄は、ふたたび順帝を諌めた。
乳母の宋娥を封じるから、災厄が起きるのだ。安帝の王聖の前例を、くり返してはいけない。梁冀を封じる可否は、宋娥をやめてから、話し合おう。
たまたま地震で、緱氏の山が崩れた。ふたたび左雄は、上疏した。「安帝が王聖を封じたら、漢陽で地震があった。いま順帝が宋娥を山陽君に封じたら、京城で地震があった。宋娥をやめろ」
左雄が何度もキツく言うから、宋娥は辞退した。だが安帝は、宋娥に恋恋として、宋娥を封じたい。のちに宋娥は、密通して爵位を失った。
九卿をムチ打たず、故吏に攻められて悦ぶ
このとき大司農の劉據は、職務でミスをして、尚書に召された。劉拠は、捶撲(ムチ打ち)された。左雄は上言した。「九卿は、三公につぐ。九卿をムチ打つのは、孝明皇帝がやっただけ。古典にない。やめよ」と。順帝は、左雄に従う。これ以後、九卿はムチに打たれず。
みずから左雄は納言(尚書)をつかさどる。おおくを修正し、章表を奏議した。台閣(尚書)は、左雄の文書を故事とした。左雄は、司隸校尉に遷る。
はじめ左雄は、周舉を尚書に薦めた。周挙は、適任と称えられた。左雄は司隸高位になり、もと冀州刺史の馮直を、將帥(将軍)にした。馮直は、収賄の罪をおかす。周挙は、左雄を劾めた。左雄は、悦んだ。「私はかつて、馮直の父につかえた。馮直とも、仲がよい。いま周挙は、私を劾めた。周挙がやったのは、韓厥の舉だ」と。天下は、左雄に服した。
翌年、法を犯し、左雄を免じた。のちに尚書にもどる。永和三年(138年)、左雄は死んだ。101221