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128-131年、太学の復興、梁皇后が立つ

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

128年、孫程を京師に呼びもどす

孝安皇帝下永建三年(戊辰,公元一二八年)
春,正月,丙子,京師地震。 夏,六月,旱。
秋,七月,丁酉,茂陵園寢災。 九月,鮮卑寇漁陽。 冬,十二月,己亥,太傅桓焉免。車騎將軍來歷罷。 南單于拔死,弟休利立,為去特若屍逐就單于。 帝悉召孫程等還京師。

128年春正月丙子、京師に地震あり。 夏6月、日照。
秋7月丁酉、茂陵園で寢災あり。 9月、鮮卑が漁陽を寇す。
冬12己亥、太傅の桓焉を免ず。車騎將軍の來歷をやむ。 南單于が死に、弟が立つ。順帝は、孫程らを全員、京師にもどす。

129年、虞詡が、河西3郡の復興をさせる

   孝安皇帝下永建四年(己巳,公元一二九年)
春,正月,丙寅,赦天下。 丙子,帝加元服。 夏,五月,壬辰,詔曰:「海內頗有災異,朝廷修政,太官減膳,珍玩不御。而桂 陽太守文礱,不惟竭忠宣暢本朝,而遠獻大珠以求幸媚,今封以還之!」 五州雨水。

129年春正月丙寅、天下を赦した。 正月丙子、順帝は元服した。
129年夏5月壬辰、詔した。「海內に災異がある。節約せよ。辺境から珍宝を送るな。桂陽太守の文礱は、節約しない。文礱は、遠くから大珠を献じて、幸媚を求める。文礱を罰さないが、大珠は返却せよ」と。5州で雨水あり。

秋,八月,丁巳,太尉劉光、司空張皓免。 尚書偵射虞詡上言:「安定、北地、上郡,山川險厄,沃野千里,土宜畜牧,水可 溉漕。頃遭元元之災,眾羌內潰,郡縣兵荒,二十餘年。夫棄沃壤之饒,捐自然之財, 不可謂利;離河山之阻,守無險之處,難以為固。今三郡未復,園陵單外,而公卿選懦, 容頭過身,張解設難,但計所費,不圖其安。宜開聖聽,考行所長。」九月,詔復安定、 北地、上郡歸舊土。 癸酉,以大鴻臚龐參為太尉、錄尚書事。太常王龔為司空。
冬,十一月,庚辰,司徒許敬免。 鮮卑寇朔方。 十二月,巳卯,以宗正弘農劉崎為司徒。 是歲,於窴王放前殺拘彌王興,自立其子為拘彌王,而遣使者貢獻,敦煌太守徐由 上求討之。帝赦於窴罪,令歸拘彌國;放前不肯。

129年秋8月丁巳、太尉の劉光と、司空の張皓を免じた。 尚書僕射の虞詡が上言した。「安定、北地、上郡は、天災と兵乱で荒れて、20余年たつ。前漢の陵墓も、晒されたままだ。本腰をいれて、復興せよ」と。9月、安定、北地、上郡の郡治を、もとに戻した。

胡三省は、碑文をたっぷり引用する。この土地の経緯が、いろいろ書いてある。中華書局で1ページもつづく。はぶく。
胡三省はいう。安帝の永初五(111年)年、3郡の郡治を内側にうつした。

9月癸酉、大鴻臚の龐參を太尉とし、尚書事を錄させる。太常の王龔を、司空とした。 129年冬11月庚辰、司徒の許敬を免じた。 鮮卑が朔方を寇した。 12月巳卯、宗正する弘農の劉崎を、司徒とした。この129年、於窴王が、拘彌王を殺した。敦煌太守の徐由は、これを討ちたい。

130年、班固の孫が、劉慶の娘を殺す

   孝安皇帝下永建五年(庚午,公元一三零年)
夏,四月,京師旱。 京師及郡國十二蝗。 定遠侯班超之孫始尚帝姑陰城公主。主驕淫無道;始積忿怒,伏刃殺主。冬,十月, 乙亥,始坐腰斬,同產皆棄市。

130年夏4月、京師で日照。 京師および郡國12でイナゴ。 定遠侯・班超の孫は、班始だ。班始は、順帝の姑・陰城公主をめとる。

胡三省はいう。公主は、清河孝王・劉慶の娘だ。陰県は、南陽郡に属す。

公主が、驕淫・無道なので、班始は忿怒を積らす。班始は、公主を刀で殺した。冬10月乙亥、班始は腰斬され、同母の兄弟はみな棄市された。

131年春、河間王を懲らしめ、太学を復興する

   孝安皇帝下永建六年(辛未,公元一三一年)
春,二月,庚午,河間孝王開薨;子政嗣。政傲很不奉法,帝以侍御史吳郡沈景有 強能,擢為河間相。景到國,謁王,王不正服,箕踞殿上;侍郎贊拜,景峙不為禮,問 王所在。虎賁曰:「是非王邪!」景曰:「王不正服,常人何別!今相謁王,豈謁無禮 者邪!」王慚而更服,景然後拜;出,住宮門外,請王傅責之曰:「前發京師,陛見受 詔,以王不恭,使相檢督。諸君空受爵祿,曾無訓導之義!」因奏治其罪,詔書讓政而 詰責傅。景因捕諸奸人,奏案其罪,殺戮尤惡者數十人,出冤獄百餘人。政遂為改節, 悔過自修。

131年春2月庚午、河間孝王の劉開が薨じた。子の劉政が嗣ぐ。劉政は傲很で、奉法しない。順帝は、侍御史する吳郡の沈景が強能だから、河間相とした。
沈景は、劉政に会っても、立ったまま礼をせず、「王はどこか」と問う。虎賁が沈景に「まず礼をしろ」と言うと、沈景は言った。「王の劉政は、服を正さない。なぜ臣下にだけ、礼が必要か」と。劉政は、奸人を捕え、數十人を殺戮した。冤罪の百餘人を解いた。劉政は、節を改め、悔過した。

帝以伊吾膏腴之地,傍近西域,匈奴資之以為鈔暴;三月,辛亥,復令開設屯田, 如永元時事,置伊吾司馬一人。
初,安帝薄於藝文,博士不復講習,朋徒相視怠散,學捨頹敝,鞠為園蔬,或牧兒、 蕘豎薪刈其下。將作大匠翟酺上疏請更修繕,誘進後學,帝從之。秋,九月,繕起太學, 凡所造構二百四十房,千八百五十室。

順帝は、131年3月辛亥、ふたたび伊吾に屯田を開設した。永元(089-105年)の前例のように。 伊吾は膏腴之地で、西域にちかく、匈奴がねらう土地だ。伊吾司馬を1人おいた。
はじめ安帝は、藝文に関心がない。博士は講習せず、朋徒は怠散した。太学の建物は、頹敝した。草刈の場になった。將作大匠の翟酺は上疏して、太学を修繕した。131年秋9月、太學を再開した。240房、1850室の建物だ。

ぼくは思う。大切な出来事だ。のちの党錮事件に、つらなる。


護烏桓校尉耿曄遣兵擊鮮卑,破之。 護羌校尉韓皓轉湟中屯田置兩河間,以逼群羌。皓坐事征,以張掖太守馬續代為校 尉。兩河間羌以屯田近之,恐必見圖,乃解仇詛盟,各自儆備;續上移屯田還湟中,羌 意乃安。

護烏桓校尉の耿曄が、鮮卑を破った。護羌校尉の韓皓は、湟中に屯田した。韓皓は罪をうけ、張掖太守の馬續が代わる。屯田が羌族にちかく、羌族を刺激するので、馬續は屯田を交替させた。羌族は、安らいだ。

131年、胡広が梁皇后を立てる

帝欲立皇後,而貴人有寵者四人,莫知所建,議欲探籌,以神定選。尚書僕射南郡 胡廣與尚書馮翊郭虔、史敞上疏諫曰:「竊見詔書,以立後事大,謙大自專,欲假之籌 策,決疑靈神;篇籍所記,祖宗典故,未嘗有也。恃神任筮,既不必當賢;就值其人, 猶非德選。夫歧嶷形於自然,俔天必有異表,宜參良家,簡求有德,德同以年,年鈞以 貌;稽之典經,斷之聖慮。」帝從之。
恭懷皇後弟子乘氏侯商之女,選入掖庭為貴人, 常特被引御,從容辭曰:「夫陽以博施為德,陰以不專為義。《螽斯》則百福所由興也。 願陛下思雲雨之均澤,小妾得免於罪。」帝由是賢之。

順帝は、皇后を立てる。貴人4人を寵愛し、決まらず。クジにする。尚書僕射する南郡の胡廣と、尚書する馮翊の郭虔、史敞は、上疏して諌めた。「良家から、皇后を立てよ」と。

胡広は、『資治通鑑』に初登場しました。閻氏を反面教師とする提案だろう。閻氏が、身内で朝廷を固めてしまったことは、ブラックな歴史として、くり返し、ひきあいに出される。以前、胡広の列伝を読みました。
『後漢書』胡広伝:主義主張なく、人事に興味のない事務官の三公

恭懷皇後(和帝の母・梁貴人)の弟の子は、乘氏侯の梁商だ。梁商の娘は、梁貴人である。順帝は、梁貴人を賢いと思う。101230

ぼくは思う。章帝や和帝の時代の、安定した政治に、戻したかったのだろう。そのために、良家の梁皇后が選ばれた。和帝の母の、孫の代にあたる。意外に世代がちかい。この梁皇后の兄弟が、梁冀である。
いま順帝は若い。おそらく、後漢の全盛期・和帝が目標なのだ。創業した、光武帝を目指す必要はない。明帝や章帝では、目標がやや高い。