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133年夏、李固が地割に対策し、宦官に悪まる

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

133年6月、李固が安帝と比べ、順帝を諭す

丁丑,洛陽宣德亭地坼,長八十五丈;帝引公卿所舉敦樸之士,使之對策,及特問 以當世之敝,為政所宜。李固對曰:

133年6月丁丑、洛陽の宣德亭で、土が裂けた。裂けた長さは、85丈だ。順帝は公卿があげた、敦樸之士に、當世之敝について、対策させた。李固は答えた。

ぼくは思う。李固伝は、ちょうど読む準備をしてた。後日、詳しく読みたいと思います。以下の李固の意見は、安帝を反面教師に、安帝と順帝を比較するという、話の組み立て方だ。


「前孝安皇帝變亂舊典,封爵阿母,因造妖孽,改 亂嫡嗣,至令聖躬狼狽,親遇其艱。既拔自困殆,龍興即位,天下喁喁,屬望風政。積 敝之後,易致中興,誠當沛然思惟善道,而論者猶雲『方今之事,復同於前』。臣伏在 草澤,痛心傷臆!實以漢興以來三百餘年,賢聖相繼十有八主,豈無阿乳之恩,豈忘貴 爵之寵?然上畏天威,俯案經典,知義不可,故不封也。今宋阿母雖有大功、勤謹之德, 但加賞賜,足以酬其勞苦;至於裂土開國,實乖舊典。聞阿母體性謙虛,必有遜讓,陛 下宜許其辭國之高,使成萬安之福。

李固は言う。「安帝は、舊典を變亂した。乳母に封爵して、嫡嗣を改亂した。順帝は、乳母の宋娥を、封爵するな。ただ乳母には、賞賜をあげろ」と。

夫妃、後之家所以少完全者,豈天性當然?但以爵 位尊顯,顓總權柄,天道惡盈,不知自損,故致顛仆。 先帝寵遇閻氏,位號太疾,故其 受禍曾不旋時,《老子》曰:『其進銳者其退速也。』 今梁氏戚為椒房,禮所不臣,尊 以高爵,尚可然也;而子弟群從,榮顯兼加,永平、建初故事,殆不如此。宜令步兵校 尉冀及諸侍中還居黃門之官,使權去外戚,政歸國家,豈不休乎!

李固は言う。「安帝は、閻氏を寵遇して、禍いを受けた。順帝も、梁氏を高位にした。歩兵校尉の梁冀と、従事たちの権限を減らせ」と。

又,詔書所以禁侍中、 尚書、中臣子弟不得為吏、察孝廉者,以其秉威權,容請托故也。而中常侍在日月之側, 聲勢振天下,子弟祿任,曾無限極,雖外托謙默,不干州郡,而諂偽之徒,望風進舉。 今可為設常禁,同之中臣。昔館陶公主為子求郎,明帝不許,賜錢千萬,所以輕厚賜, 重薄位者,為官人失才,害及百姓也。竊聞長水司馬武宣、開陽城門候羊迪等,無它功 德,初拜便真,此雖小失而漸壞舊章。先聖法度,所宜堅守,故政教一跌,百年不復。 《詩》雲:『上帝板板,下民卒癉』,刺周王變祖法度,故使下民將盡病也。今陛下之 有尚書,猶天之有北斗也。斗為天喉舌,尚書亦為陛下喉舌。斗斟酌元氣,運乎四時; 尚書出納王命,賦政四海,權尊勢重,責之所歸,若不平心,災眚必至,誠宜審擇其人, 以毘聖政。

李固は言う。「侍中、尚書、中臣の子弟は、吏になれない。しかし、中常侍の子弟は、吏になれる。宦官の子弟が、百姓を害す」と。

今與陛下共天下者,外則公、卿、尚書,內則常侍、黃門,譬猶一門之內, 一家之事,安則共其福慶,危則通其禍敗。刺史、二千石,外統職事,內受法則。夫表 曲者景必邪,源清者流必潔,猶叩樹本,百枝皆動也。由此言之,本朝號令,豈可蹉跌! 天下之紀綱,當今之急務也。夫人君之有政,猶水之有堤坊。堤坊完全,雖遭雨水霖潦, 不能為變。政教一立,暫遭兇年,不足為憂。誠令堤防穿漏,萬夫同力,不能復救;政 教一壞,賢智馳鶩,不能復還。今堤防雖堅,漸有孔穴。譬之一人之身,本朝者,心腹 也,州、郡者,四支也,心腹痛則四支不舉。故臣之所憂,在腹心之疾,非四支之患也。 苟堅堤防,務政教,先安心腹,整理本朝,雖有寇賊、水旱之變,不足介意也;誠令堤 防壞漏,心腹有疾,雖無水旱之災,天下固可以憂矣。又宜罷退宦官,去其權重,裁置 常侍二人方直有德者省事左右,小黃門五人才智閒雅者給事殿中。如此,則論者厭塞, 升平可致也!」

李固は言う。「順帝が天下を共にするのは、外は三公、九卿、尚書だ。内は、常侍、黃門だ。宦官の官位の定員を減らして、バランスをとれ」と。

133年6月、馬融と張衡も、裂けた土に対策する

扶風功曹馬融對曰:「今科條品制,四時禁令,所以承天順民者,備矣,悉矣,不 可加矣。然而天猶有不平之效,民猶有咨嗟之怨者,百姓屢聞恩澤之聲,而未見惠和之 實也。古之足民者,非能家贍而人足之,量其財用,為之制度。故嫁娶之禮儉,則婚者 以時矣;喪制之禮約,則終者掩藏矣;不奪其時,則農夫利矣。夫妻子以累其心,產業 以重其志,捨此而為非者,有必不多矣!」

扶風の功曹・馬融が、李固につづき、地割れに対策した。「嫁娶之禮と、喪制之禮を、カンタンにしてあげれば、百姓は生活がラクになる」と。

太史令南陽張衡對曰:「自初舉孝廉,迄今二百歲矣,皆先孝行;行有餘力,始學 文法。辛卯詔書,以能章句、奏案為限;雖有至孝,猶不應科,此棄本而取末。曾子長 於孝,然實魯鈍,文學不若游、夏,政事不若冉、季。今欲使一人兼之,苟外有可觀, 內必有闕,則違選舉孝廉之志矣。且郡國守相,剖符寧境,為國大臣,一旦免黜十有餘 人,吏民罷於送迎之役,新故交際,公私放濫,或臨政為百姓所便而以小過免之,是為 奪民父母使嗟號也。《易》不遠復,《論》不憚改,朋友交接且不宿過,況於帝王,承 天理物,以天下為公者乎!中間以來,妖星見於上,震裂著於下,天誡詳矣,可為寒心。 明者消禍於未萌。今既見矣,修政恐懼,則禍轉為福矣。」

太史令する南陽の張衡も、対策した。「武帝が孝廉を始めて、2百年がたった。いまの40歳ルールは、もともとの孝廉の目的とちがう。胡広が、40歳未満の人を孝廉にあげて、済陰太守に出されたのは、おかしい」と。

上覽眾對,以李固為第一,即時出阿母還捨,諸常侍悉叩頭謝罪,朝廷肅然。以固 為議郎;而阿母、宦者皆疾之,詐為飛章以陷其罪。事從中下,大司農南郡黃尚等請之 於梁商,僕射黃瓊復救明其事。久乃得釋,出為洛令,固棄官歸漢中。

順帝は、李固の対策を、ベストだと判定した。乳母を家に返した。李固に責められた宦官は、叩頭・謝罪した。朝廷は肅然とした。
李固を議郎にした。李固は、乳母と宦官に怨まれた。李固は飛章により、罪をかぶった。大司農する南郡の黃尚は、外戚の梁商と、尚書僕射の黃瓊に頼んだ。李固を救ってもらう。李固は京師を出て、洛県(広漢)令となる。李固は、官位を棄てて、漢中に帰る。

ぼくは思う。宦官は、順帝の手足ではない。孫程のように、独自の正義で、順帝を立てた。いま李固に、ケチを付けられたのだから、面白くない。
以下、対策がボツになった、馬融と張衡について、『資治通鑑』がフォロー。


融博通經籍,美 文辭;對奏,亦拜議郎。衡善屬文,通貫《六藝》,雖才高於世,而無驕尚之情;善機 巧,尤致思於天文、陰陽、歷算,作渾天儀,著《靈憲》。性恬憺,不慕當世;所居之 官輒積年不徙。

馬融は、ひろく經籍に通じる。文辭がうまい。今回、対策したから、議郎となった。
張衡は、屬文がうまく、《六藝》に通貫する。世に才能は名高いが、驕尚の情なし。機 巧がうまく、天文、陰陽、歷算,作渾天儀をやる。張衡は、《靈憲》を著した。性質は恬憺で、當世に慕われず。おなじ官位(太史令)に、長年いた。

胡三省は《靈憲》に、中華書局で1ページ半の注釈をつける。


133年秋、太尉の龐参を免じる

太尉寵參,在三公中最名忠直,數為左右所毀。會所舉用忤帝旨,司隸承風案之。 時當會茂才、孝廉,參以被奏,稱疾不會。廣漢上計掾段恭因會上疏曰:「伏見道路行 人、農夫、織婦皆曰:『太尉參竭忠盡節,徒以直道不能曲心,孤立群邪之間,自處中 傷之地。』夫以讒佞傷毀忠正,此天地之大禁,人主之至誡也!昔白起賜死,諸侯酌酒 相賀;季子來歸,魯人喜其紓難。夫國以賢治,君以忠安。今天下鹹欣陛下有此忠賢, 願卒寵任以安社稷。」書奏,詔即遣小黃門視參疾,太醫致羊酒。後參夫人疾前妻子, 投於井而殺之;雒陽令祝良奏參罪。秋,七月,己未,參竟以災異免。

太尉の龐参は、三公のなかで、もっとも忠直だ。しばしば左右(宦官)に、毀損された。たまたま龐参は、順帝の意思とちがう。司隸校尉は、龐参を取り調べる。ときに龐参は、茂才や孝廉に挙げられたが、面会しない。廣漢の上計掾する段恭は、上疏した。「道ゆく人は、みな龐参の竭忠・盡節をほめる。順帝は、龐参を任用せよ」と。
小黃門は、順帝の文書を龐参に届け、龐参が病気だと知った。太醫は、龐参に羊酒をあげた。 のちに龐参の夫人は、前妻の子をにくみ、子を井戸に投げて殺した雒陽令の祝良は、龐参の罪を上奏した。133年秋7月己未、龐参は災異により、太尉を免じられた。

八月,己巳,以大鴻臚施延為太尉。 鮮卑寇馬城,代郡太守擊之,不克。頃之,其至鞬死。鮮卑由是抄盜差稀。

133年8月己巳、大鴻臚の施延は、太尉となる。 鮮卑が馬城を寇した。代郡太守は、勝てず。このころ至鞬が死に、鮮卑の抄盜は減った。101230

つぎの134年からは、1ヶ月前(101125)に翻訳を作成してます。訳文の言葉づかいが、あんまり統一されてませんが。ページを作りながら、調節しているので、ご容赦ください。
134年の記事は、タイトルを見ると、やたら面白そう。いま、李固に遅れをとり、対策が採用されなかった人が、順帝に攻勢をかけてる。134年、周挙と張衡が、順帝を批判