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126年、孫程と虞詡が、朝廷を改革

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

126年春、閻太后が崩じ、三公を入換

孝安皇帝下永建元年(丙寅,公元一二六年)
春,正月,帝朝太后於東宮,太后意乃安。 甲寅,赦天下。 辛未,皇太后閻氏崩。 辛巳,太傅馮石、太尉劉熹以阿黨權貴免。司徒李郃罷。 二月,甲申,葬安思皇後。 丙戌,以太常桓焉為太傅;大鴻臚京兆硃寵為太尉,參錄尚書事;長樂少府硃倀為 司徒。 封尚書郭鎮為定穎侯。 隴西鐘羌反,校尉馬賢擊之,戰於臨洮,斬首千餘級,羌眾皆降;由是涼州復安。 六月,己亥,封濟南簡王錯子顯為濟南王。

126年春正月、順帝は閻太后を東宮におく。閻太后は安心した。正月甲寅、天下を赦した。 正月辛未、閻太后は崩じた。 正月辛巳、太傅の馮石太尉の劉熹は、權貴に阿黨じたから、免じた。司徒の李郃はやめた。
126年2月甲申、安思皇后(閻太后)を葬る。 2月丙戌、太常の桓焉を、太傅とした。大鴻臚する京兆の硃寵は太尉となり、錄尚書事を參じる。長樂少府の硃倀を、司徒とした。 尚書の郭鎮を、定穎(汝南)侯に封じた。 隴西の鐘羌が反した。校尉の馬賢が、臨洮で戦い、斬首1餘級。鐘羌はみな降る。ふたたび涼州は安じた。
126年6月己亥、濟南簡王・劉錯の子、劉顯を濟南王とした。

胡三省はいう。安帝の延光4年、済南王は絶えた。


126年秋、司隷校尉の虞詡、孫程と善導する

秋,七月,庚午,以衛尉來歷為車騎將軍。 八月,鮮卑寇代郡,太守李超戰歿。
司隸校尉虞詡到官數月,奏馮石、劉熹,免之,又劾奏中常侍程璜、陳秉、孟生、 李閏等,百官側目,號為苛刻。三公劾奏:「詡盛夏多拘系無辜,為吏民患。」詡上書 自訟曰:「法禁者,俗之堤防;刑罰者,民之銜轡。今州曰任郡,郡曰任縣,更相委遠, 百姓怨窮;以苟容為賢,盡節為愚。臣所發舉,臧罪非一。三府恐為臣所奏,遂加誣罪。 臣將從史魚死,即以屍諫耳!」帝省其章,乃不罪詡。

126年秋7月庚午、衛尉の來歷は、車騎將軍となる。 8月、鮮卑が代郡を寇した。代郡太守の李超は、戰歿した。 司隸校尉の虞詡は、官について数ヶ月で、馮石と劉熹を免じた。また中常侍の程璜、陳秉、孟生、 李閏らを劾奏した。百官は、「虞詡は苛刻だ」と言った。三公は、虞詡のやり過ぎを劾奏した。だが順帝は、虞詡を罪としない。

ぼくは思う。順帝が「名君」なのか。それとも虞詡は、安帝のときの人材を、一掃してくれるから、順帝に都合がいいのか。なんか後者な気がする。


中常侍張防賣弄權勢,請托受取; 詡案之,屢寢不報。詡不勝其憤,乃自系廷尉,奏言曰:「昔孝安皇帝任用樊豐,交亂 嫡統,幾亡社稷。今者張防復弄威柄,國家之禍將重至矣。臣不忍與防同朝,謹自系以 聞,無令臣襲楊震之跡!」書奏,防流涕訴帝,詡坐論輸左校;防必欲害之,二日之中, 傳考四獄。獄吏勸詡自引,詡曰:「寧伏歐刀以示遠近!喑嗚自殺,是非孰辨邪!」浮 陽侯孫程、祝阿侯張賢相率乞見,程曰:「陛下始與臥等造事之時,常疾奸臣,知其傾 國。今者即位而復自為,何以非先帝乎!司隸校尉虞詡為陛下盡忠,而更被拘系;常侍 張防臧罪明正,反構忠良。今客星守羽林,其占宮中有奸臣;宜急收防送獄,以塞天 變。」

中常侍の張防は、權勢を賣弄した。虞詡は、張防を劾めたが、張防は罰されず。虞詡は、みずからを廷尉につなぎ、上奏した。「むかし安帝が樊豐を用いた。張防は樊豐とおなじだ。私(虞詡)を、楊震とおなじ目にあわせるな」と。

ぼくは思う。虞詡が廷尉につながれたのは、楊震のパロディだ。皮肉屋!

張防は虞詡を怨み、2日で4回、取り調べた。獄吏は虞詡に、自殺を勧めた。浮陽侯の孫程と、祝阿侯の張賢は、順帝に言った。「司隷校尉の虞詡は、順帝に対して盡忠する。張防の臧罪は明正だ。虞詡を助け、張防を下獄しろ」と。

時防立在帝后,程叱防曰:「奸臣張防,何不下殿!」防不得已,趨就東箱。程 曰:「陛下急收防,無令從阿母求請!」帝問諸尚書,尚書賈朗素與防善,證詡之罪; 帝疑焉,謂程曰:「且出,吾方思之!」於是詡子顗與門生百餘人,舉幡候中常侍高梵 車,叩頭流血,訴言枉狀。梵入言之,防坐徙邊,賈朗等六人或死或黜;即日赦出詡。

ときに張防は、順帝の後ろに立つ。孫程は、張防を叱った。「奸臣の張防、殿を下りないか」と。張防は、下りた。
順帝は、尚書に問うた。尚書の賈朗は、張防と仲がよい。賈朗は、虞詡の罪を証明した。順帝は、虞詡の罪を信じ、孫程に言った。「やはり虞詡の罪だ」と。ここにおいて、虞詡の子・虞顗と、門生1百餘人は、叩頭・流血して、虞詡の無罪を言った。中常侍の高梵は、聞き入れた。張防は辺境にうつされ、賈朗ら6人は、死んだり黜されたり。その日のうちに、虞詡は許された。

程復上書陳詡有大功,語甚切激。帝感悟,復征拜議郎;數日,遷尚書僕射。詡上疏薦 議郎南陽左雄曰:「臣見方今公卿以下,類多拱默,以樹恩為賢,盡節為愚,至相戒曰: 『白璧不可為,容容多後福。』伏見議郎左雄,有王臣蹇蹇之節,宜擢在喉舌之官,必 有國弼之益。」由是拜雄尚書。

孫程は、虞詡の大功を、しきりに順帝にアピった。順帝は感悟し、順帝を議郎とした。数日で虞詡は、尚書僕射にうつる。
虞詡は上疏し、議郎する南陽の左雄を薦めた。「左雄だけが、周囲に同調せず、言うべきことを言う。喉舌之官(尚書)にせよ」と。左雄は、尚書となる。

126年秋、孫程が順帝にうとまれる

浮陽侯孫程等懷表上殿爭功,帝怒。有司劾奏「程等於亂悖逆,王國等皆與程黨, 久留京都,益其驕恣。」帝乃免程等官,悉徙封遠縣。因遺十九侯就國,敕洛陽令促期 發遺。

浮陽侯の孫程らは、順帝の前で、爭功する。順帝は怒り、孫程らを洛陽から追い出した。孫程らを免官し、遠縣に封じた。宦官らを、19の侯國にうつす。洛陽から出ろと、催促した。

ぼくは思う。「爭功」の中身を、史書は記さないが。孫程らは、独自の正義感で、順帝を立てた。いま司隷校尉の虞詡に見たように、孫程なりの理想がある。順帝に憚らず、改革をしただろう。だから、順帝にウザがられた。孫程が、手柄を宣伝しまくったのではない。


司徒掾周舉說硃倀曰:「朝廷在西鐘下時,非孫程等豈立!今忘其大德,錄其小 過。如道路夭折,帝有殺功臣之譏。及今未去,宜急表之!倀曰:「今詔指方怒,吾獨 表此,必致罪譴。」舉曰:「明公年過八十,位為台輔,不於今時竭忠報國,惜身安, 欲以何求!祿位雖全,必陷佞邪之機;諫而獲罪,猶有忠貞之名。若舉言不足采,請從 此辭!」倀乃表諫,帝果從之。程徙封宜城侯,到國,怨恨恚懟,封還印綬、符策,亡 歸京師,往來山中。詔書追求,復故爵土,賜車馬、衣物,遣還國。

司徒掾の周挙は、硃倀に言った。「孫程がいなければ、順帝は立てなかった」と。硃倀は、順帝に逆らいたくない。周挙は、硃倀に言った。「あなた(硃倀)は80歳で、三公だ。身を惜しむより、国家に尽くせ」と。

『後漢書』周挙伝は、先週に読みました。いまのセリフもあった。
『後漢書』周挙伝:順帝の希望より、前例と古典を優先させた尚書

孫程は、宜城(南郡)侯となり、順帝を怨恨・恚懟した。印綬を返還し、山中にゆく。ふたたび封爵されたので、国にゆく。

126年冬、南単于が、長城の修復をねがう

冬,十月,丁亥,司空陶敦免。 朔方以西,障塞多壞,鮮卑因此數侵南匈奴;單于憂恐,上書乞修復障塞。庚寅, 詔:「黎陽營兵出屯中山北界;令緣邊郡增置步兵,列屯塞下,教習戰射。」 以廷尉張皓為司空。

126年冬10月丁亥、司空の陶敦を免じた。 朔方より西は、障塞が壊れ、鮮卑が南匈奴を侵す。南単于は、障塞を修復せよと上書した。10月庚寅、詔した。「修復しないが、黎陽の営兵を、中山の北境におく」と。 廷尉の張皓を、司空とした。

班勇更立車師後部故王子加特奴為王。勇又使別校誅斬東且彌王,亦更立其種人為 王;於是車師六國悉平。勇遂發諸國兵擊匈奴,呼銜王亡走,其眾二萬餘人皆降。生得 單于人兄,勇使加特奴手斬之,以結車師、匈奴之隙。北單于自將萬餘騎入後部,至金 且谷;勇使假司馬曹俊救之,單于引去,俊追斬其貴人骨都侯。於是呼衍王遂徙居枯梧 河上,是後車師無復虜跡。

班勇は、車師後部の王を立てた。(以下略) 101230