01) 司徒を補佐し、順帝を制止
『後漢書』を、抄訳します。原文は、省かずに載せます。『資治通鑑』で概観した、後漢の後半を知るために、列伝を読んでいます。
岩波版の『後漢書』を参考に、適宜、李賢の注釈もひろいます。
司徒の吏で、李郃と朱倀を故事で補佐
周舉は、あざなを宣光という。汝南の汝陽の人だ。陳留太守の周防の子だ。周防は、「儒林傳」に列伝がある。周挙は、姿貌は短陋だが、博學で洽聞だ。儒者のリーダーとなる。ゆえに京師は言った。「『五經』に從横たり、周宣光」と。
ぼくは思う。見栄えが冴えなくても、儒教だけで出世する。こういうルートが、後漢にある。
延光四年(125年)、司徒・李郃の府に召された。ときに宦者の孫程らは、順帝を立てた。安帝の外戚・閻氏を滅した。議郎の陳禪は、閻太后と順帝は母子でないから、館を分けて、閻太后への朝見をなくしたい。郡臣は賛成した。
だが周挙は、李郃に言う。「陳禪の誤った議論は、後世は、あなた(李郃)の誤りだと認識する。閻太后の館を分けるなと、順帝に言え」と。李郃は上疏した。
翌年(126年)正月、順帝は東宮(皇太后の御殿)に朝した。太后は、安んじた。
のちに、長樂少府の朱倀が、李郃に代わって司徒に。だが周挙は、司徒の吏をつづける。ときに宦官の孫程が、上表文をフトコロにねじこみ、上殿して功績を競った。順帝は孫程に怒り、遠縣に徙したい。洛陽令に、孫程を捕えよと命じた。周挙は、司徒の朱倀に言った。
「順帝を即位させたのは、孫程だ。前漢の韓信と彭越、後漢の吳漢と賈復よりも、功績が大きい。孫程を徙すな」と。朱倀は、順帝の機嫌を損ねたくない。「2人の尚書が、すでに順帝を諌めて、罪をうけた」と。周挙は言った。「明公(朱倀)は、80歳を過ぎて、三公だ。なぜ、わが身を惜しむか。順帝を諌めて、忠貞の名を手に入れろ」と。朱倀は、上表した。順帝は朱倀に従い、孫程を徙さず。
太原郡の旧俗をやめて、民を寒さから救う
のちに周挙は、茂才に挙がり、平丘令(陳留郡)となる。周挙が当世を論じた上書は、キツくて正しい。尚書の郭虔、應賀らは、周挙の上書に嘆息した。
郭虔は上疏して、周挙の忠直を称えた。順帝は、周挙の上書を、座席のそばに置き、規誡とした。
ようやく周挙は、並州刺史にうつる。太原郡(郡治は晋陽)で、介子推の亡月に、火をたかない旧俗がある。火をたかないから、老小は凍え死んだ。周挙は、この愚かな旧俗をやめた。民は、温かい食事ができた。
転じて、周挙は冀州刺史となる。
左雄に推されて尚書となり、司徒を個人攻撃
陽嘉三年(134年)、司隸校尉の左雄が、周挙を尚書とした。
周挙は、僕射の黃瓊と同心・輔政した。朝廷で名が重い。左右は、周挙と黄瓊をはばかる。
この歳、河南と三輔で、日照。五穀が災傷した。順帝は、德陽殿の東廂に座り、雨乞した。司隸校尉と河南太守は、神を祭る。順帝は、日照への対策を聞いた。「儒教の教え・五品は、行き渡らず。役人は、ふさわしくない地位にいて、俸禄ドロボウである。どの役人を辞めさせれば、誤りが正されるか」と。周挙が答えた。
周挙が言う。「順帝は、文帝や光武帝の方法をやめ、亡秦の奢侈をする。後宮に女性をおおく抱えて、金をかけすぎだ。後宮を減らせ。無実の罪を、修正しろ。いま儒教の五品が行き渡らないのは、司徒の責任だ」と。
順帝は、周挙と、尚書令の成翊世、僕射の黃瓊を召し、得失を問うた。周挙らは答えた。「貪汚な人をのぞき、文帝の倹約をマネて、明帝の教訓を尊べば、雨は降る。日照はおさまる」と。これを踏まえ、順帝は聞いた。「百官のうち、貪汚・佞邪な人は誰か」と。
周挙だけが答えた。「私は地方官から、尚書になりました。郡臣をくわしく知りません。だが公卿・大臣のうち、しばしば直言する人は、忠貞だ。阿諛・苟容する人は、佞邪だ。いまの司徒は、6年も司徒を務めるが、いちども忠言・異謀がない。私は、司徒が佞邪だと思う」と。
のちに、司徒の劉崎を免じた。周挙は、司隸校尉にうつる。
周挙にとっての「忠貞」とは。皇帝の感情に流されず、故事にしたがった政治へと、皇帝を導く人。大陸の人は、歴史書を手本に生きる。その生き方は、歴史書の文体をまねて記される。結果、おなじことの繰り返しが、歴史として、再生産され続けるように見える。こういう価値観。変化=いいこと、ではない。
次回、順帝の八使として、地方を回ります。