02) 儒教の教養が、地方を鎮める
『後漢書』を、抄訳します。原文は、省かずに載せます。『資治通鑑』で概観した、後漢の後半を知るために、列伝を読んでいます。
岩波版の『後漢書』を参考に、適宜、李賢の注釈もひろいます。
大将軍・梁商の、政治的な後継者
永和元年(136)年、災異がやまない。順帝は、公、卿、中二千石、尚書を顯親殿にあつめ、対応を聞いた。みな、北郷侯に「昭穆」と諡号せよと言った。
ぼくは補う。順帝は、この北郷侯のつぎに皇帝になったが、順序や祭祀が正しくないことを、懼れている。
【追記】T_S氏はいう。(引用はじめ)「みな、北郷侯に「昭穆」と諡号せよと言った。」これは違います。「宜加尊諡,列于昭穆」は、「皇帝の諡を加えると共に、皇帝廟に入れて祀るべきだ」という意味。天子七廟のうち太祖が中央、左側の三廟を「昭」、右側の三廟を「穆」。この皇帝廟に入れるということ。(引用おわり)
周挙だけが、北郷侯への諡号に反対した。『春秋』に基づく。ここにおいて、司徒の黃尚、太常の桓焉ら70人は、周挙に賛成した。順帝は、周挙に従う。黄尚は、あざなを伯河という。南郡の人だ。わかくて顯位を歴任した。政事を称えられた。
周挙は、蜀郡太守になったが、免じられた。大將軍の梁商は、周挙を從事中郎にして、敬重した。(141年)六年三月上已日、梁商は賓客を集めて、洛水で宴した。周挙は、病気としてゆかず。
梁商は楽しくなって、挽歌を歌った。みな掩涕した。太僕の張種は、梁商の宴の帰りに、周挙に話した。周挙は歎じた。「悲しいことがないのに、挽歌をうたう。これを、哀樂が時を失うという。きっと悪いことが起こる」と。はたして梁商は、この歳の秋に死んだ。梁商は、順帝に遺言した。「私の從事中郎・周舉は、清高で忠正だ。重任せよ」と。周挙は、諫議大夫となる。
ぼくは思う。梁商は前例を重んじたが、梁冀も前例を重んじたと思う。梁冀は、胡広を用いて、古典によるバックアップを頼んだ。梁冀の実際の政治方針は、『後漢書』が伝えるところと違い、保守的だったのかも。古典どおりだったかも。改革のネタがないから、これを貶して「アホな政治」と糾弾できない。だから、ゼイタクが強調された?
ときに災異がつづく。順帝は顯親殿で、周挙に質問した。周挙は答えた。「順帝が即位したときは、旧典を守った。だがいま朝廷に、寵倖がおおい。上(順帝)が弱く、下(豪族)が強いから、災異が起きるのだ。州郡を見回り、強宗・大奸を禽えて討て」と。
のちに江淮で、猾賊の周生、徐鳳らが、あちこち並び起つ。周挙の言ったとおりの状況となった。
長江や淮水の反乱は、「後漢の国内の問題」である。もともと後漢に納税していた豪族が、後漢に背くようになった。原因は、皇位継承が、おぼつかないからだろう。順帝その人だって、自分の即位の正統性を、まだ不安に思っている様子だ。外戚の閻氏に、後ろめたさを感じたり。北郷侯に諡号しようとしたり。
ときに順帝は、八使に風俗を巡行させた。八使に、威名ある人を選ぶ。周挙は侍中とした。侍中の杜喬、光祿大夫を守す周栩、さきの青州刺史の馮羨、尚書の欒巴、侍御史の張綱、兗州刺史の郭遵、太尉長史の劉班に、みな光祿大夫を守させ、天下を分行させた。
周挙は、順帝個人の感情に、いちいち逆らった。この基本姿勢は、後漢という王朝を守るためには、正しい。順帝は、個性が強烈でなく、武力に長けず、即位の経緯もゴタゴタした。順帝のキャラを前面に出しても、後漢の権力は強まらない。それより、故事と教義を、前面に押し出したほうがいい。
八使は、刺史や太守のうち、ワイロが明らかな人を、驛馬で報告した。墨綬より以下は、その場で捕えた。清忠・惠利で、百姓を安んじている人を、朝廷に報告にしてほめた。八使は、同時に任命されたから、天下は「八俊」と号した。周挙は、貪猾な人を劾奏した。公清な人を表薦した。
このとき、地方を巡るのを拒んだ人がいた。侍中の杜喬だ。「中央に梁冀という俗物がいる。地方を巡る前に、中央を正さねば」と。杜喬は、純粋な経典としての儒教と、後漢の支配を、正当化する手段としての儒教を、混同した。杜喬は、後者の目的で選ばれ、期待されてる。個人の主義主張を、前者と混同して、抗議している場合じゃない。いま地方を平定しておかないと、後漢が滅びちゃう。杜喬は、ご飯を食べられなくなる。
朝廷は、周挙の巡行をほめた。河內太守となり、つぎに大鴻臚となる。
梁太后の願望より、『左伝』を優先
梁太后が臨朝した。
となれば。梁冀が、名声ある士人を、あえて統治が難しい泰山太守などにするのは、「政敵に、ミスをさせるために嫌がらせ」ではない。後漢の継続にとって、普通に必要な職務を、有能な人に任せたのだ。
梁冀は、ちょっと独我なところはあったが、旧典を墨守し、桓帝がオトナになるまで、後漢の命脈をつないだのだ。人格は平均レベルだから、手に入れた権限や財産の大きさに、目がくらんだかも知れないが。
梁太后は詔した。「殤帝は幼くて崩じた。殤帝の廟は、順帝の下におけ」と。太常の馬訪は、梁太后に賛成した。諫議大夫の呂勃は反対し、殤帝を先に、順帝を後にせよと言う。梁太后は、公卿に聞いた。周挙が答えた。「『春秋左氏伝』によれば、殤帝が先だ」と。梁太后は、周挙に従う。
梁太后は、順帝の皇后である。だから順帝を、すこしでも、たかい地位の廟に祭りたい。周挙は、これを止めた。「梁太后の個人的な感情よりも、古典が優先するのです」と。梁太后に、おもねらなかった。順帝を止めたときと、同じパタンだ。
周挙は、光祿勳にうつる。母が死んだので退職し、のちに光祿大夫となる。
建和三年(149年)、周挙は死んだ。朝廷は、周挙が清公亮直だから、宰相にしたかった。周挙の死を、深く痛惜した。朝廷は、光祿勳と汝南太守に告げた。「周挙の性は、伯夷と史魚とおなじ。周挙の忠は、随会と管仲とおなじ。周勰は、慎みぶかく仕事をして、もの静かな趣きがあった。銭10万を加賜せよ」と。
周挙の子は、周勰である。
子の周勰、老子を信じて、梁冀政権を回避
周勰は、あざなを巨勝という。わかくして玄虛(道家の虚無)をとうとぶ。父の官位のおかげで郎となるが、みずから退職。父の故吏・河南の召夔の郡將となる。周勰は、召夔との交わりを恥じ、閉門した。
のちに太守が孝廉にあげたが、病だと断る。ときに梁冀が貴盛だ。梁冀に命じられたら、みな応じた、だが周勰は、梁冀に前後3回、辟されても屈さず。
のちに賢良方正に挙げられるが、応じず。公車で召されても、孤児。老子の清靜をしたい、交際せずに10余年。
延熹二年(159年)、賓客をまねき、游談・宴樂した。この歳の秋に梁冀が注されたが、周勰も死んだ。50歳だった。蔡邕は、周勰が50歳だから、「知命だ」と言った。周勰の曾祖父・周揚から、周勰の孫・周恂まで、6世代にわたり、男子は1人だけ。みな名を知られた。101222