表紙 > ~後漢 > 『後漢書』周挙伝:順帝の希望より、前例と古典を優先させた尚書

02) 儒教の教養が、地方を鎮める

『後漢書』を、抄訳します。原文は、省かずに載せます。『資治通鑑』で概観した、後漢の後半を知るために、列伝を読んでいます。
岩波版の『後漢書』を参考に、適宜、李賢の注釈もひろいます。

大将軍・梁商の、政治的な後継者

  永和元年,災異數見,省內惡之。詔召公、卿、中二千石、尚書詣顯親殿,問曰:「言事者多雲,昔周公攝天子事,及薨,成王欲以公禮葬之,天為動變。及更葬以天子之禮,即有反風之應。北鄉侯親為天子而葬以王禮,故數有災異,宜加尊諡,列于昭穆。」群臣議者多謂宜如詔旨,舉獨對曰:「昔周公有請命之應,隆太平之功,故皇天動威,以章聖德。北鄉侯本非正統,奸臣所立,立不逾歲,年號未改,皇天不祐,大命夭昏。《春秋》王子猛不稱崩,魯子野不書葬。今北鄉侯無它功德,以王禮葬之,於事已崇,不宜稱諡。災眚之來,弗由此也。」於是司徒黃尚、太常桓焉等七十人同舉議,帝從之。尚字伯河,南郡人也,少曆顯位,亦以政事稱。

永和元年(136)年、災異がやまない。順帝は、公、卿、中二千石、尚書を顯親殿にあつめ、対応を聞いた。みな、北郷侯に「昭穆」と諡号せよと言った。

吉川はいう。北郷侯とは、章帝の孫。済北恵王・劉寿の子。安帝の死後、閻太后が天子に立てた人物。在位は、125年3月乙酉から、10月辛亥まで。
ぼくは補う。順帝は、この北郷侯のつぎに皇帝になったが、順序や祭祀が正しくないことを、懼れている。
【追記】T_S氏はいう。(引用はじめ)「みな、北郷侯に「昭穆」と諡号せよと言った。」これは違います。「宜加尊諡,列于昭穆」は、「皇帝の諡を加えると共に、皇帝廟に入れて祀るべきだ」という意味。天子七廟のうち太祖が中央、左側の三廟を「昭」、右側の三廟を「穆」。この皇帝廟に入れるということ。(引用おわり)

周挙だけが、北郷侯への諡号に反対した。『春秋』に基づく。ここにおいて、司徒の黃尚、太常の桓焉ら70人は、周挙に賛成した。順帝は、周挙に従う。黄尚は、あざなを伯河という。南郡の人だ。わかくて顯位を歴任した。政事を称えられた。

桓焉は、列伝27。黄尚は、列伝がなさそう。司徒の黄尚は、劉崎みたいに、辞めさせられたら、かなわん。周挙が故事に詳しいから、ひたすら同調したのだろう。尚書が三公を牽制した例かな。もしくは、尚書が三公を上回った例だ。


  舉出為蜀郡太守,坐事免。大將軍梁商表為從事中郎,甚敬重焉。六年三月上已日,商大會賓客,宴于洛水,舉時稱疾不往。商與親昵酣飲極歡,及酒闌倡罷,繼以《B321露》之歌,坐中聞者,皆為掩涕。太僕張種時亦在焉,會還,以事告舉。舉歎曰:「此所謂哀樂失時,非其所也,殃將及乎!」商至秋果薨。商疾篤,帝親臨幸,問以遺言。對曰:「人之將死,其言也善。臣從事中郎周舉,清高忠正,可重任也。」由是拜舉諫議大夫。

周挙は、蜀郡太守になったが、免じられた。大將軍の梁商は、周挙を從事中郎にして、敬重した。(141年)六年三月上已日、梁商は賓客を集めて、洛水で宴した。周挙は、病気としてゆかず。
梁商は楽しくなって、挽歌を歌った。みな掩涕した。太僕の張種は、梁商の宴の帰りに、周挙に話した。周挙は歎じた。「悲しいことがないのに、挽歌をうたう。これを、哀樂が時を失うという。きっと悪いことが起こる」と。はたして梁商は、この歳の秋に死んだ。梁商は、順帝に遺言した。「私の從事中郎・周舉は、清高で忠正だ。重任せよ」と。周挙は、諫議大夫となる。

梁商の政治方針は、周挙とおなじ。死に際の一言が、周挙の推薦だ。
ぼくは思う。梁商は前例を重んじたが、梁冀も前例を重んじたと思う。梁冀は、胡広を用いて、古典によるバックアップを頼んだ。梁冀の実際の政治方針は、『後漢書』が伝えるところと違い、保守的だったのかも。古典どおりだったかも。改革のネタがないから、これを貶して「アホな政治」と糾弾できない。だから、ゼイタクが強調された?


  時,連有災異,帝思商言,召舉於顯親殿,問以變眚。舉對曰:「陛下初立,遵修舊典,興化致政,遠近肅然。頃年以來,稍違於前,朝多寵倖,祿不序德。觀天察人,准今方古,誠可危懼。《書》曰:'僭恒暘若。'夫僭差無度,則言不從而下不正;陽無以制,則上擾下竭。宜密嚴敕州郡,察強宗大奸,以時禽討。」其後江淮猾賊周生、徐鳳等處處並起,如舉所陳。

ときに災異がつづく。順帝は顯親殿で、周挙に質問した。周挙は答えた。「順帝が即位したときは、旧典を守った。だがいま朝廷に、寵倖がおおい。上(順帝)が弱く、下(豪族)が強いから、災異が起きるのだ。州郡を見回り、強宗・大奸を禽えて討て」と。
のちに江淮で、猾賊の周生、徐鳳らが、あちこち並び起つ。周挙の言ったとおりの状況となった。

ぼくは思う。周挙は、中央の権力を高めろという。順帝のとき、中央と地方のバランスが悪い。左雄伝でも、おなじ問題意識が語られた。
長江や淮水の反乱は、「後漢の国内の問題」である。もともと後漢に納税していた豪族が、後漢に背くようになった。原因は、皇位継承が、おぼつかないからだろう。順帝その人だって、自分の即位の正統性を、まだ不安に思っている様子だ。外戚の閻氏に、後ろめたさを感じたり。北郷侯に諡号しようとしたり。


  時,詔遣八使巡行風俗,皆選素有威名者,乃拜舉為侍中,與侍中杜喬、守光祿大夫周栩、前青州刺史馮羨、尚書欒巴、侍御史張綱、兗州刺史郭遵、太尉長史劉班,並守光祿大夫,分行天下。其刺史、二千石有臧罪顯明者,驛馬上之;墨綬以下,便輒收舉。其有清忠惠利,為百姓所安,宜表異者,皆以狀上。於是八使同時俱拜,天下號曰:「八俊」。舉於是劾奏貪猾,表薦公清,朝廷稱之。遷河內太守,征為大鴻臚。

ときに順帝は、八使に風俗を巡行させた。八使に、威名ある人を選ぶ。周挙は侍中とした。侍中の杜喬、光祿大夫を守す周栩、さきの青州刺史の馮羨、尚書の欒巴、侍御史の張綱、兗州刺史の郭遵、太尉長史の劉班に、みな光祿大夫を守させ、天下を分行させた。

地方が中央に従わない。求心力を取り戻すため、8人を巡らせた。順帝が集権する武器は、漢室の故事と、儒教の教義だ。故事と教義に通じた人に、地方を回らせて、後漢の支配を強化する目的だろう。
周挙は、順帝個人の感情に、いちいち逆らった。この基本姿勢は、後漢という王朝を守るためには、正しい。順帝は、個性が強烈でなく、武力に長けず、即位の経緯もゴタゴタした。順帝のキャラを前面に出しても、後漢の権力は強まらない。それより、故事と教義を、前面に押し出したほうがいい。

八使は、刺史や太守のうち、ワイロが明らかな人を、驛馬で報告した。墨綬より以下は、その場で捕えた。清忠・惠利で、百姓を安んじている人を、朝廷に報告にしてほめた。八使は、同時に任命されたから、天下は「八俊」と号した。周挙は、貪猾な人を劾奏した。公清な人を表薦した。

宮城谷さんの小説では。地方に儒教が行き渡らないから、地方の野蛮な風俗を正すため、使者が巡ったと描かれる。完全に、後漢のイデオロギーにだまされている。笑
このとき、地方を巡るのを拒んだ人がいた。侍中の杜喬だ。「中央に梁冀という俗物がいる。地方を巡る前に、中央を正さねば」と。杜喬は、純粋な経典としての儒教と、後漢の支配を、正当化する手段としての儒教を、混同した。杜喬は、後者の目的で選ばれ、期待されてる。個人の主義主張を、前者と混同して、抗議している場合じゃない。いま地方を平定しておかないと、後漢が滅びちゃう。杜喬は、ご飯を食べられなくなる。

朝廷は、周挙の巡行をほめた。河內太守となり、つぎに大鴻臚となる。

梁太后の願望より、『左伝』を優先

及梁太后臨朝,詔以殤帝幼崩,廟次宜在順帝下。太常馬訪奏宜如詔書,諫議大夫呂勃以為應依昭穆之序,先殤帝,後順帝。詔下公卿。舉議曰:「《春秋》魯閔公無子,庶兄僖公代立,其子文公遂躋僖于閔上。孔子譏之,書曰:'有事於太廟,躋僖公。'《傳》曰:'逆祀也。'及定公正其序,經曰'從祀先公',為萬世法也。今殤帝在先,于秩為父,順帝在後,於親為子,先後之義不可改,昭穆之序不可亂。呂勃議是也。」太后下詔從之。遷光祿勳,會遭母憂去職,後拜光祿大夫。

梁太后が臨朝した。

順帝のあと、幼帝が続くが、梁冀が後漢を切り盛りした。これを「梁冀の専横」と言うのは自由だが、正確でない。オトナの順帝ですら、求心力のなさに苦しんだ。八使という対策をうった。もし梁冀が仕切らねば、後漢は分裂しただろう。「徐州や揚州で、連年反乱あり」に留まったのは、梁冀の成果だ。
となれば。梁冀が、名声ある士人を、あえて統治が難しい泰山太守などにするのは、「政敵に、ミスをさせるために嫌がらせ」ではない。後漢の継続にとって、普通に必要な職務を、有能な人に任せたのだ。
梁冀は、ちょっと独我なところはあったが、旧典を墨守し、桓帝がオトナになるまで、後漢の命脈をつないだのだ。人格は平均レベルだから、手に入れた権限や財産の大きさに、目がくらんだかも知れないが。

梁太后は詔した。「殤帝は幼くて崩じた。殤帝の廟は、順帝の下におけ」と。太常の馬訪は、梁太后に賛成した。諫議大夫の呂勃は反対し、殤帝を先に、順帝を後にせよと言う。梁太后は、公卿に聞いた。周挙が答えた。「『春秋左氏伝』によれば、殤帝が先だ」と。梁太后は、周挙に従う。

周挙が、決定打になった。『左伝』が、後漢の規範。
梁太后は、順帝の皇后である。だから順帝を、すこしでも、たかい地位の廟に祭りたい。周挙は、これを止めた。「梁太后の個人的な感情よりも、古典が優先するのです」と。梁太后に、おもねらなかった。順帝を止めたときと、同じパタンだ。

周挙は、光祿勳にうつる。母が死んだので退職し、のちに光祿大夫となる。

建和三年卒。朝廷以舉清公亮直,方欲以為宰相,深痛惜之。乃詔先光祿勳、汝南太守曰:「昔在前世,求賢如渴,封墓軾閭,以光賢哲。故公叔見誄,翁歸蒙述,所以昭忠厲俗,作範後昆。故光祿大夫周舉,性侔夷、魚,忠逾隨、管,前授牧守,及還納言,出入京輦,有欽哉之績,在禁闈有密靜之風。予錄乃勳,用登九列。方欲式序百官,亮協三事,不永夙終,用乖遠圖。朝廷湣悼,良為愴然。《詩》不雲乎:'肇敏戎功,用錫爾祉。'其令將大夫以下到喪發日復會吊。加賜錢十萬,以旌委蛇素絲之節焉。」子勰。

建和三年(149年)、周挙は死んだ。朝廷は、周挙が清公亮直だから、宰相にしたかった。周挙の死を、深く痛惜した。朝廷は、光祿勳と汝南太守に告げた。「周挙の性は、伯夷と史魚とおなじ。周挙の忠は、随会と管仲とおなじ。周勰は、慎みぶかく仕事をして、もの静かな趣きがあった。銭10万を加賜せよ」と。
周挙の子は、周勰である。

子の周勰、老子を信じて、梁冀政権を回避

  勰字巨勝,少尚玄虛,以父任為郎,自免歸家。父故吏河南召夔為郡將,卑身降禮,致敬於勰。勰恥交報之,因杜門自絕。後太太守舉孝廉,複以疾去。時梁冀貴盛,被其征命者,莫敢不應,唯勰前後三辟,竟不能屈。

周勰は、あざなを巨勝という。わかくして玄虛(道家の虚無)をとうとぶ。父の官位のおかげで郎となるが、みずから退職。父の故吏・河南の召夔の郡將となる。周勰は、召夔との交わりを恥じ、閉門した。

【追記】T_S氏はいう。(引用はじめ)これも違うのでは。父の故吏・河南の召夔「が」郡将になったのです。そこで郷里に戻っていた周勰に対して自分を下にした礼を執ったことが、周勰は気にくわなかったのでしょう。(引用おわり)

のちに太守が孝廉にあげたが、病だと断る。ときに梁冀が貴盛だ。梁冀に命じられたら、みな応じた、だが周勰は、梁冀に前後3回、辟されても屈さず。

ひたすら、閉じこもる。父と正反対。


後舉賢良方正,不應。又公車征,玄纁備禮,固辭廢疾。常隱處竄身,慕老聃清靜,杜絕人事,巷生荊棘,十有餘歲。至延熹二年,乃開門延賓,游談宴樂,及秋而梁冀誅,年終而勰卒,時年五十。蔡邕以為知命。自勰曾祖父揚至勰孫恂,六世一身,皆知名雲。

のちに賢良方正に挙げられるが、応じず。公車で召されても、孤児。老子の清靜をしたい、交際せずに10余年。
延熹二年(159年)、賓客をまねき、游談・宴樂した。この歳の秋に梁冀が注されたが、周勰も死んだ。50歳だった。蔡邕は、周勰が50歳だから、「知命だ」と言った。周勰の曾祖父・周揚から、周勰の孫・周恂まで、6世代にわたり、男子は1人だけ。みな名を知られた。101222

そのわりには、6世代の、あいだの代の人名が、『後漢書』にない!