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127年、順帝が、樊英や黄瓊をまねく

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

127年春、順帝が母の李氏を改葬する

孝安皇帝下永建二年(丁卯,公元一二七年)
春,正月,中郎將張國以南單于兵擊鮮卑其至鞬,破之。二月,遼東鮮卑寇遼東玄 菟;烏桓校尉耿曄發緣邊諸郡兵及烏桓出塞擊之,斬獲甚眾;鮮卑三萬人詣遼東降。 三月,旱。 初,帝母李氏瘞在洛陽北,帝初不知;至是,左右白之,帝乃發哀,親到瘞所,更 以禮殯。六月,乙酉,追謚為恭愍皇後,葬於恭陵之北。

127年春正月、中郎將の張國は、南単于をひきい、鮮卑を破った。2月、遼東の鮮卑が、遼東と玄 菟を寇した。烏桓校尉の耿曄は、鮮卑を斬獲した。3万人が遼東に降る。3月、日照。
はじめ順帝の母・李氏は、洛陽に葬られる。順帝はこれを知り、發哀して、みずから訪れた。6月乙酉、恭愍皇后と送り、恭陵の北に改葬した。

胡三省はいう。李氏が死んだのは、安帝の元初3年。


西域城郭諸國皆服於漢,唯焉耆王元孟未降,班勇奏請攻之。於是遣敦煌太守張朗 將河西四郡兵三千人配勇,因發諸國兵四萬餘人分為兩道擊之。勇從南道,朗從北道, 約期俱至焉耆。而朗先有罪,欲徼功自贖,遂先期至爵離關,遣司馬將兵前戰,獲首虜 二千餘人,元孟懼誅,逆遣使乞降。張朗徑入焉耆,受降而還。朗得免誅,勇以後期征, 下獄,免。

西域の城郭・諸國は、みな後漢に服した。だが焉耆王だけ、後漢に降らず。班勇は、敦煌太守の張朗に攻めさせた。焉耆王を降した。

127年秋、順帝が、南陽の樊英を熱烈に登用

秋,七月,甲戌朔,日有食之。 壬午,太尉硃寵、司徒硃倀免。庚子,以太常劉光為太尉、錄尚書事,光祿勳汝南 許敬為司徒。光,矩之弟也。敬仕於和、安之間,當竇、鄧、閻氏之盛,無所屈撓;三 家既敗,士大夫多染污者,獨無謗言及於敬,當世以此貴之。

127年秋7月甲戌ついたち、日食あり。7月壬午、太尉の硃寵、司徒の硃倀を免じた。7月庚子、太常の劉光を司徒とし、尚書事を錄させる。光祿勳する汝南の許敬を、司徒とする。
劉光は、劉矩の弟だ。許敬は、和帝と安帝のとき、竇氏・鄧氏・閻氏が盛んだが、屈撓せず。外戚3家が破れ、士大夫は多く汚れに染まる。許敬だけは、謗言を受けない。當世はこれを貴とした。

ぼくは思う。楊氏も袁氏も、外戚からダメージを受けた。


初,南陽樊英,少有學行,名著海內,陷於壺山之陽,州郡前後禮請,不應;公卿 舉賢良、方正、有道,皆不行;安帝賜策書征之,不赴。是歲,帝復以策書、玄纁,備 禮征英,英固辭疾篤。詔切責郡縣,駕載上道。英不得已,到京,稱疾不肯起;強輿入 殿,猶不能屈。帝使出就太醫養疾,月致羊酒。其後帝乃為英設壇,令公車令導,尚書 奉引,賜幾、杖,待以師傅之禮,延問得失,拜五官中郎將。英辭位不受,有詔譬旨,勿聽。
數月,英稱疾篤;詔以為 光祿大夫,賜告歸,令在所送谷,以歲時致牛酒。

はじめ南陽の樊英は、海內に名声があるが、壺山の南にこもる。州郡が礼請しても、応じない。安帝が招いても、応じない。京師に来ても、病気だという。羊酒をもらった。いま順帝は樊英を、師傅之禮で迎えた。五官中郎将となる。
数ヶ月で、樊英は病気になる。光禄大夫となる。順帝は毎年、牛酒を樊英に贈った。樊英は受けず。

ぼくは思う。順帝は、まだ少年である。さっき孫程を煙たがった。太后がいない順帝には、執政者が必要である。孫程がジャマなら、樊英を頼ろう。そんなノリか。
どうでもいいが。後漢の安帝と順帝が、まざる。似ていないが、似たような感じなので。しかも、劉懿を挟んで、治世が連続する。


英初 被詔命,眾皆以為必不降志。南郡王逸素與英善,因與其書,多引古譬諭,勸使就聘。 英順逸議而至;及後應對無奇謀深策,談者以為失望。
河南張楷與英俱征,謂英曰: 「天下有二道,出與處也。吾前以子之出,能輔是君也,濟斯民也。而子始以不訾之身, 怒萬乘之主,及其享受爵祿,又不聞匡救之術,進退無所據矣。」

樊英が出仕する前。南郡の王逸は、樊英と仲がよい。樊英が出てこないので、王逸は故事をひいいて、樊英を口説いた。樊英は王逸に、政策を答えたが、あたり障りなく、みな失望した。
河南の張楷は、樊英と同道した。張楷は樊英に言う。「天下には、2つの道がある。出と處だ。前にきみ(樊英)は、出仕して、順帝をたすけた。だがきみは、自分の貴重さを理解せず、順帝を怒らせた。いま順帝から爵祿をもらったのに、順帝に匡救之術を提出しない。進退が正しくない」と。

司馬光が、いろいろ言ってるが、はぶく。


127年、李固が黄瓊を歓迎する

時又征廣漢楊厚、江夏黃瓊。瓊,香之子也。厚既至,豫陳漢有三百五十年之厄以 為戒,拜議郎。瓊將至,李固以書逆遺之曰:「君子謂伯夷隘,柳下惠不恭。不夷不惠, 可否之間,聖賢居身之所珍也。誠遂欲枕山棲谷,擬跡巢、由,斯則可矣;若當輔政濟 民,今其時也。自生民以來,善政少而亂俗多,必待堯、舜之君,此為士行其志終無時 矣。常聞語曰:『嶢嶢者易缺,皦皦者易污。』盛名之下,其實難副。近魯陽樊君被征, 初至,朝廷設壇席,猶待神明,雖無大異,而言行所守,亦無所缺;而譭謗布流,應時 折減者,豈非觀聽望深,聲名太盛乎!是故俗論皆言『處士純盜虛聲』。願先生弘此遠 謨,令眾人歎服,一雪此言耳!」

時にまた順帝は、廣漢の楊厚と、江夏の黃瓊をまねく。黄瓊は、黄香の子だ。楊厚は、漢室の寿命が350年だと言って、順帝を諌めた。楊厚は、議郎となる。

『春秋命歴序』はいう。400年たつと、漢室は滅びる。五七で、漢室は弱る。宋キンの注釈はいう。五七とは、350年である。まさに順帝のとき、漢室は衰え、四方は逆賊がおおい。

黄瓊はいたると、李固は黄瓊を仰ぎ、歓迎した。「近ごろ順帝は、魯陽の樊英を招いた。樊英は、特別に優れていないが、まあ行動に欠点はない。そんな樊英より、遠くから黄瓊先生が来てくれて嬉しい」

瓊至,拜議郎,稍遷尚書僕射。瓊昔隨父在台閣,習 見故事;及後居職,達練官曹,爭議朝堂,莫能抗奪。數上疏言事,上頗采用之。 李固,郃之子,少好學,常改易姓名,杖策驅驢,負笈從師,不遠千里,遂究覽墳 籍,為世大儒。每到太學,密入公府,定省父母,不令同業諸生知其為郃子也。

黄瓊は議郎となり、尚書僕射にうつる。むかい黄瓊は、父・黄香(和帝の尚書令)にしたがい、台閣(尚書)で故事を習見した。黄瓊は、尚書に詳しく、誰も逆らえない。しばしば黄瓊は上言し、よく順帝は採用した。

ぼくは思う。安帝と順帝のあいだで、人材がすべて入れ替わっている。梁冀の台頭を見たいなら、順帝の時代からでよい。かつて鄧太后は、章帝の人材を除かなかった。人材を除くのは、閻皇后が始めたらしい。いま閻皇后の人材を除いたから、鄧太后以前にもどったことになる。後漢の妥当な官僚たちだ。あーややこしい。

李固は、李郃の子だ。つねに李固は姓名を変え、驢馬をムチ打ち、書箱をひかせ、あちこちで学んだ。李固は、大儒となる。いつも太学にくると、ひそかに三公府に入り、父母を見まった。諸生たちは、李郃の子・李固が来たと気づかなかった。101230

ぼくは思う。面白いが、なぜ李固は、姓名を変えてるの?忍んで各地を旅行し、洛陽で隠密しているのだろうか。学派がうるさかった?