01) 左雄の40歳ルールに反対
『後漢書』胡広伝を、抄訳します。原文は、省かずに載せます。『資治通鑑』で概観した、後漢の後半を知るために、列伝を読んでいます。
岩波版の『後漢書』を参考に、適宜、李賢の注釈もひろいます。
交趾都尉の家柄から、教養で尚書僕射へ
胡廣は、あざなを伯始という。南郡の華容の人だ。
6世の祖父・胡剛は、清高で志節がある。前漢の平帝のとき、大司徒の馬宮に辟された。王莽が摂政した。胡剛は、衣冠を府門にかけて去った。交阯に亡命し、屠肆(肉屋)のあいだに隠れた。王莽が敗れると、胡剛は、郷里に帰った。
一族として輝かしいはずの、「光武帝に仕えて、これをやりました」という記録がない。さして、後漢のはじめに、高い位には登らなかったのだろう。その証拠に、列伝が4世代、とぶ。
胡広の父・胡貢は、交阯都尉だ。
ぼくは思う。『襄陽耆旧伝』は、『後漢書』本文と、胡広の父の名前がちがう。また、胡広の母は姓が分からず、弟の母は、姓が分かる。胡広の母のほうが、身分が低いか。弟・胡康のほうが、出世したらおもしろいが。血筋の賎しい兄と、血筋の貴い弟というペアなら、いろいろ考察の材料になる。
また父は、交趾都尉である。六世の祖父が、交趾の肉屋にまぎれた。つくづく、交趾に縁がある家である。やはり華容は、荊州でもフロンティアに属し、南方に出て行きやすかったか。
胡広は、おさなくして孤貧だ。みずから家の苦しみを執る。胡広は長大となり、仲間にしたがい、南郡に就職して、散吏となった。
ぼくは思う。日銭を稼ぎに行ったのか。「孤」とあるから、交阯都尉の父・胡貢は、早くに死んだのだろう。後漢で、辺境の職務は、「仕事がツライだけの、損な職場」だったか。交趾の軍務で苦労して、胡寵は死んだのかも。胡広の少年時代、交趾でどんな反乱があったのか、調べる必要がある。『資治通鑑』でも見てみるか。
南郡太守・法雄の子は、法真である。胡広の家で、法真は、胡広の父・胡貢を見まった。法真は、よく人を知る。
さっき胡広を「孤」と言った。母が死んだだけで、この表現を使わないはずだが。とすると、法真が家にきたのは、ちょっと前か。漢文は、時制がよわい。ともあれ、胡広にとって法真は、足を向けて寝られない人。政治の現場でも、支持を続けただろう。
歳の終わりに、人材を推挙・選抜する。法雄は、子の法真に、人材を探させた。法真は、諸吏を集めた。法真は、牖(まど)のあいだから、ひそかに胡広を指さす。法雄は、胡広を孝廉に挙げた。
李賢は『続漢書』をひく。故事はいう。孝廉の高第は、三公および尚書が、孝廉をえらんだ太守をねぎらう。だから三公府は、詔書を出して、法雄をねぎらった。胡広は郎になり、きちんと職務をやり遂げた。?
胡広は、京師にきた。上奏の作文を試験された。安帝は、胡広の作文を、天下第一とした。旬月のうちに、尚書郎となる。五たび遷りて、尚書僕射となる。
ぼくは補う。胡広が評価されたのは、ふたつめの【奏】だ。胡広は、家柄に頼れず、教養で出世した。もし家柄どおりなら、荊州の南方か、交趾で、軍務しただろう。胡広の、学問の師匠は、見えない。独学したか。
梁皇后を立て、左雄の40歳ルールに反対
順帝が、皇后を立てる。順帝は、4人を寵する。決まらないから、籌(くじ)で決める。尚書僕射の胡広と、尚書の郭虔、史敞は、上疏して諌めた。「幼いときから、すぐれた才知と容貌は、自然と現れる。良家から、有徳の人をえらべ。もし徳が同じなら年、年がおなじなら貌でえらべ」と。
順帝は、梁貴人が良家だから、皇后とした。
ときに、尚書令の左雄は、察舉の制を改めた。40歳以上にかぎり、儒者は經學を試され、文吏は章奏を試された。ふたたび胡広は、尚書の郭虔、史敞とともに、駁を書いた。
胡広は言う。「若くても、すぐれた人材はいる。40歳という下限を、再検討せよ」と。順帝は、胡広に従わず。
胡広の秘書みたいに、ぺったり添った、郭虔、史敞。その後、出世するのだろうか。ぼくが知らないだけかも。しかし、列伝は立ってなさそうだが。
ときに陳留で、太守が空席だ。尚書の史敞は、胡広を陳留太守に勧めた。
史敞は言う。「尚書僕射の胡広は、六経と前例にくわしい。胡広は尚書を、10余年した。日夜、激務だ。胡広の母は、老いた。すでに胡広は、中央で評価を得たから、つぎは地方を任せよ。陳留は、近郡だ。胡広なら、陳留の風俗を引きしめる」と。
尚書の権限が、いつから、どのくらい強化されるか。研究者たちの、関心事のようだ。 もし、順帝のとき、すでに尚書が強ければ。順帝の前半を仕切ったのは、胡広である。 ぼくは、制度史を、くわしく知らない。ただ、個別の人間関係を推察することは、できる。いま、大将軍は梁商だ。梁皇后が立てたのは、胡広のおかげだ。胡広が強くて、アタリマエである。
胡広は、機事(枢密の政務)を10年つかさどる。濟陰太守(郡治は定陶)となるが、吏の推挙に実績がなく、済陰太守はクビとなる。汝南太守となる。京師に入り、大司農となった。
左雄伝によると、胡広は済陰で、40歳ルールに反した人材を挙げたようだ。
ぼくは思う。胡広のあと、胡広の意見をつなぐ派閥が、形成されないとしたら。胡広が、後進を育てそこねたからだ。胡広は、梁冀にくっつき、梁冀の死後も、ひとりで三公を続ける。引退したくないのは、後進がいないから。気持ちは、わかる。笑
あとで出てくるが。汝南太守のとき胡広は、陳蕃と李咸をあげた。陳蕃は、宦官に真っ向から対立する。陳蕃は、胡広の生き方とちがう。陳蕃は、胡広の継承者でない。陳蕃のほうが、さきに死ぬしね。人事と、縁がないなあ。
次回、梁冀に寄りそいつつ、あらゆる派閥と折り合います。