表紙 > ~後漢 > 『後漢書』胡広伝:主義主張なく、人事に興味のない事務官の三公

02) 梁冀も党錮も生き抜ける

『後漢書』胡広伝を、抄訳します。原文は、省かずに載せます。『資治通鑑』で概観した、後漢の後半を知るために、列伝を読んでいます。
岩波版の『後漢書』を参考に、適宜、李賢の注釈もひろいます。

梁冀の頭脳として、保守政策をうつ

漢安元年,遷司徒。質帝崩,代李固為太尉,錄尚書事。以定策立桓帝,封育陽安樂鄉侯。以病遜位。又拜司空,告老致仕。尋以特進征拜太常,遷太尉,以日食免。複為太常,拜太尉。

漢安元年(142年)、司徒にうつる。質帝が崩じ、李固に代わって太尉となる。錄尚書事した。桓帝を策立したから、育陽の安樂郷侯に封じられた。

一言も書いてないが。梁冀の政策を、びったり支持したのだ。

病気で、太尉をゆずる。また司空となる。老を告げて、致仕した。特進にめされ、太常となる。太尉にうつり、日食で免ず。ふたたび太常となり、太尉となる。

ゼイタクすぎる職歴。梁冀を完全にバックアップしたのだ。だが、梁冀は、後漢のクロ歴史だ。梁冀が、それなりに理にかなう政治をしたと、書きたくない。だから、胡広の政策もまとめて、抹殺されたのだと思う。
これまでの胡広伝の記述から、胡広の政策を推測するのは、むずかしい。良家から皇后を立て、40歳ルールは、やめろといい。改革を拒む、保守派。という評価になるか。史敞からの評価に、「胡広は、舊章の憲式を、すべて覧じる」とあった。
前例をふむだけなら、際立って記事のネタがない。胡広の政策を、くわしく列伝に書いていない原因は、こちらでもあるのか。


政治的な主義・主張のない事務官

延熹二年,大將軍梁冀誅,廣與司徒韓縯、司空孫朗坐不衛宮,皆減死一等,奪爵土,免為庶人。後拜太中大夫、太常。九年,複拜司徒。
  靈帝立,與太傅陳蕃參錄尚書事,複封故國。以病自乞。會蕃被誅,代為太傅,總錄如故。

延熹二年(159年)大將軍の梁冀が誅された。太尉の胡広と、司徒の韓縯、司空の孫朗は、宮殿を衛らず。死一等を減じ、爵土を奪われた。庶人となる。

口実は、何でもいい。梁冀のおいた三公を、排除したのだ。

のちに太中大夫、太常となる。延熹九年(166年)ふたたび司徒となる。

どうして胡広は、復活できたか。桓帝は、梁冀の一派を排除したせいで、前例が分からなくなったからか。 桓帝の朝廷は、業務の引継に失敗して迷走した。胡広は、尚書を長年やっており、業務に精通する。
胡広のあつかいいは、韓縯と孫朗のあつかいと、比べるべきだ。韓縯は165年、左悺の兄を、弾劾した。周瑜伝の注釈にも、登場する。梁冀の三公は、いちどは庶人に落ちたが、政治生命は続いたみたい。


靈帝立,與太傅陳蕃參錄尚書事,複封故國。以病自乞。會蕃被誅,代為太傅,總錄如故。
時年已八十,而心力克壯,繼母在堂,朝夕瞻省,傍無幾杖,言不稱老。及母卒,居喪盡哀,率禮無愆。性溫柔謹素,常遜言恭色。達練事體,明解朝章。雖無謇直之風,屢有補闕之益。故京師諺曰:「萬事不理問伯始,天下中庸有胡公。」及共李固定策,大議不全,又與中常侍丁肅婚姻,以此譏毀于時。

靈帝が立つ。胡広は、太傅の陳蕃と、錄尚書事を参じた。もとの封國をもどす。病で辞職したいが、陳蕃が誅されたので、太傅に代わる。もとのまま總錄する。

胡広の政治生命が、長いのは。主義主張を、表明しないからか。

ときに胡広は80歳だが、心力は克壯だ。継母が堂にいたら、朝夕に見まった。脇息も杖もない。老と称さず。母が死ぬと、礼のルールをこなした。性質は溫柔で謹素、つねに遜言して恭色だ。事體に達練し、朝章に明解だ。

へんに語彙を置換するより、原文のほうが、意味が分かるかなと。

謇直の風(剛直の風格)はないが、しばしば文書の欠損をおぎなう。ゆえに京師は諺した。「萬事で不理なら、伯始に問え。天下の中庸は、胡公にある」と。

主義主張しない、というキャラが証明されました。胡広は、へつらって生き延びたのではない。明確なポリシーがない、粛々とした事務官なんだ。梁冀にせよ、桓帝にせよ、宦官にせよ。こういう、高機能なパソコンみたいな男に、尚書や三公を任せれば、安心である。政務を滞らせず、安心して、権力闘争ができるのだ。笑

胡広は、李固とともに、劉蒜を立てたが、大議を全うせず。

李賢はいう。質帝が崩じた。李固は太尉、胡広と、司空の趙戒は、清河王の劉蒜を立てたい。呂気は、蠡吾侯の劉志(桓帝)を立てたい。胡広と趙戒は、梁冀と争わず。李固は、杜喬とむすび、本義を全うした。つまり、年長で有徳の劉蒜を、推しつづけた。

また胡広は、中常侍の丁肅と婚姻した。譏毀(批難)された。

ぼくは思う。べつに胡広は、中常侍に、肩入れしたのでない。ただ、要請されるがままに、受諾したのだ。胡広には、主義主張がないから。ときの権力者の遊びに、流される。
もともと胡広は、家柄の裏づけがなかった。党派を形成することに、無頓着なのだろう。ただ胡広は、作文の一芸で抜擢され、ずっと作文をつづけた。一貫性のある人生だなあ!得意なことを、淡々と続けるのは、よほど自分への抑えが利かないと、できることでない。権限を持てば、使いたくなるのが、人の常だから。どれだけ三公になっても、権限を行使しない胡広は、ある意味で偉大だ。
権限の源泉は、人事権である。胡広は、済陰太守で、ろくに吏を挙げず。人事への関心のうすさが、胡広の謙虚さの原因だろうか。結果として、後漢を安全に生き抜く手段だ。


故吏の陳蕃に、敬遠される

自在公台三十餘年,曆事六帝,禮任甚優,每遜位辭病,及免退田裏,未嘗滿歲,輒複升時。凡一履司空,再作司徒,三登太尉,又為太傅。其所辟命,皆天下名士。與故吏陳蕃、李鹹並為三司。蕃等每朝會,輒稱疾避廣,時人榮之。年八十二,熹平元年薨。使五官中朗將持節奉策贈太傅、安樂鄉侯印綬,給東園梓器,謁者護喪事,賜塚塋于原陵,諡文恭侯,拜家一人為郎中。故吏自公、卿、大夫、博士、議郎以下數百人,皆縗絰殯位,自終及葬。漢興以來,人臣之盛,未嘗有也。

胡広は、公台(三公府)に30余年いた。六帝に仕えた。禮任された。病で辞職するごとに、1年もあけず、復職した。

ノウハウがあるから、重宝されたのだ。職場で、こういうポジションを、狙うべきである。ただ現代日本の会社で、あまりに長く1つの仕事すると、見解が凝り固まって、ジャマがられるが。前例をとうとぶ古代の王朝だから、胡広は役に立ったか。

胡広は、司空、司徒となり、太尉を3回して、太傅となる。胡広が辟命した人は、みな天下の名士だった。故吏の陳蕃と李咸は、どちらも三司(三公)になる。

李賢は謝承『後漢書』をひく。李咸は、あざなを元卓。汝南の西平の人。孤特(1人ぼっち)で、自立する。貧しくて母が老いた。みずから耕作した。『魯詩』『春秋公羊伝』『三礼』を学ぶ。司徒の胡広は、李咸を茂才に挙げた。高密令となる。李咸の政治が奇異だから、青州はそれを表した。170年、大鴻臚より太尉となる。粗食して、州郡と交通せず。刺史や太守からの書状は、公事でなければ読まず。賜わったものを返還し、貧しく引退した。
ぼくは思う。
胡広が汝南太守のとき、ちゃんと人材を集めた。陳蕃も李咸も、汝南の人だ。胡広は済陰太守のとき、吏をあげずにクビになった。反省して、しぶしぶ人材を挙げたか。人材の探索なんて、胡広は興味がないのに。笑
李咸が太尉になったのは、宦官・曹節が、権力をのばす時期。陳蕃は、曹節に当たって砕けたが、李咸は保身した。胡広に近いのは、李咸のような人材だ。

陳蕃らは、朝會のたび、病を稱して、胡広を避けた。時の人は、これを榮とした。

陳蕃らの心境は、どんなか。ぼくは陳蕃は、胡広を嫌ったと思う。顔も合わせたくないから、病を称したのだ。
もし陳蕃が、ほんとうに胡広を尊敬するなら。いっしょに宦官と対決しようと、誘っただろう。胡広は、尚書をはじめ、朝廷に精通する。宮廷闘争するとき、心強い味方だ。だが陳蕃は、胡広を仲間に抱き込まない。胡広が、闘争しないと知っていた。陳蕃は、宮廷に精通した宦官に、競り負けた。胡広が陳蕃に味方すれば、結果は違ったかも知れない。
時の人は。胡広を栄誉としたのでない。胡広を遠ざけた、陳蕃を栄誉としたのではないか。高機能なパソコンは、重宝されるけれど、尊敬されない。


漢室ではじめての、盛大な葬儀

年八十二,熹平元年薨。使五官中朗將持節奉策贈太傅、安樂鄉侯印綬,給東園梓器,謁者護喪事,賜塚塋于原陵,諡文恭侯,拜家一人為郎中。故吏自公、卿、大夫、博士、議郎以下數百人,皆縗絰殯位,自終及葬。漢興以來,人臣之盛,未嘗有也。

胡広は82歳のとき、熹平元年(172年)に薨じた。五官中郎将は、持節して、太傅と安樂郷侯の印綬をとどけた。東園の梓器をたまい、謁者が喪事を護る。塚塋を原陵(光武帝陵)に賜う。文恭侯とおくり名される。家の1人を郎中とする。故吏の公より、卿、大夫、博士、議郎まで数百人が、喪服をつけた。漢室で、ここまで葬儀が盛んな人臣は、かつていない。

その割には、胡広のポリシーをついだ後輩は、いない。長年、高位にあったから、縁のある人が増えただけなんだ。


  初,楊雄依《虞箴》作《十二州二十五官箴》,其九箴亡闕,後涿郡崔駰及子瑗又臨邑侯劉EA25駼增補十六篇,廣複繼作四篇,文甚典美。乃悉撰次首目,為之解釋,名曰《百官箴》,凡四十八篇。其餘所著詩、賦、銘、頌、箴、吊及諸解詁,凡二十篇。

はじめ楊雄は、『虞箴』に依って、『十二州二十五官箴』をつくる。

岩波版はいう。『虞箴』は、狩猟をつかさどる虞人についての、戒めの言葉。『漢書』87・揚雄伝の賛にある。箴のなかで、虞箴がベストだ。州箴をつくると。

『十二州二十五官箴』の9箴が、亡欠した。のちに涿郡の崔駰と、子の崔瑗、また臨邑侯劉トウ駼は、16篇を足した。胡広は、4篇を継ぎ足した。文は典美だ。胡広は、目次と解釈をつくり、『百官箴』と名づけた。全部で48篇だ。胡広は他に、詩、賦、銘、頌、箴、吊および解詁など、22篇を書いた。

岩波版で、22篇とするから、そっちに訳文を揃えた。ぼくは思う。学校の文学史と同じで、内容を見ず、タイトルだけ示されても、仕方がない。まあ、この場合は散逸してるが。


  熹平六年,靈帝思感舊德,乃圖畫廣及太尉黃瓊于省內,詔議郎蔡邕為其頌雲。

熹平六年(177年)靈帝は、胡広の舊德を思感した。胡広と、太尉の黃瓊を、省內に描いた。議郎の蔡邕に詔し、胡広のために頌を書かせた。101221

李賢はいう。謝承『後漢書』に、頌がある。ぼくは引用しませんが。胡広の功績は、黄瓊の功績と、セットだと認識されていた。黄瓊伝を、読まねばならん。
西川利文「胡広伝覚書」では、胡広は『漢官解詰』を残し、弟子の蔡邕が『独断』『十意』に受け継いだとする。蔡邕は、後漢でちらかった諸説を、整理した人だ。学術成果の継承と、政治的な人脈を、どこまで同一視できるか。ぼくの課題かな。ぼくが読む範囲で、胡広は、ろくに人脈を残せなかった。