後3年、王莽が、長子と叔父を殺す
『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
後3年春、王莽が皇后の父として、金を辞退する
春,太后遣長樂少府夏侯籓、宗正劉宏、尚書令平晏納采見女。還,奏言:「公女漸漬德化,有窈窕之容,宜承天序,奉祭祀。」大師光、大司徒宮、大司空豐、左將軍孫建、執金吾尹賞、行太常事、大中大夫劉秀及太卜、太史令服皮弁、素積,以禮雜卜筮,皆曰:「兆遇金水王相,卦遇父母得位,所謂康強之占,逢吉之符也。」
後3年春、王太后は、長樂少府の夏侯籓、宗正の劉宏、尚書令の平晏をやり、王莽の娘を平帝に娶らせた。
夏侯藩たち、もどって言う。「王莽の娘は、徳化にひたり、心も姿も美しい。皇后にふさわしい」と。三公と、執金吾や大中大夫らは、筮竹をたてた。結果がでた。「占ったら、金水王の相がでた。卦は、父母に遇すとでた。子孫が繁栄するでしょう。よい結果です」と。
ぼくの補足。下の3本がすべて陽で、上の3本がすべて陰でしたね。
洪範はいう。康強とは、子孫が吉に遭うこと。
大牢を宗廟にまつった。有司は上奏した。「故事では、皇后をだした家に、黄金2万斤を、銭2億を与えます」と。
王莽は深く辞退した。ただ6300万だけを受け、のこりの4300万は、ほかの11人の平帝の妻の実家と、九族の貧者に分けた。
胡三省はいう。九族とは、祖父の祖父から、孫の孫までの親族だ。『漢書』王莽伝では、王莽は4000だけ受け、3300を11家に与えた(1家あたり300)。郡臣は、ふたたび言う。「11家に与える金銭が足りません」と。また2300ずつ配り、11家は合計で3000をもらった。王莽は、もらった1000を、九族の貧者に分けた。と。
胡三省が杜佑『通典』を見ると。皇后をだした家に、黄金2万斤を与えるのは、前漢の呂后が、恵帝に魯元公主をめとった故事だ。
この計算について、【追記】T_S氏はいう。(引用はじめ)
王莽が受け取ったのは全部で6300万、そのうちの4300万を分与。王莽の手に残るのは2000万。(引用おわり)
【追記】トラ吉氏はいう。「論衡の九族」
九族多,同里而處,誅其九族,一里且盡,好增事者,則言町町也
九族の意味は同じ一族という意味だけじゃなくて、多いという意味もあり、九族も殺せば一つの里くらいの人数になるので、好事家が町一つ全滅だろうと好きに言っただけって雰囲気で王充が批判解説してます。
九族とは一説では、
①父親と同姓全て
②自分の姉妹
③自分の姉妹の子供
④自分の娘の子供
⑤母親の父母
⑥母親の兄弟姉妹にその配偶者
⑦母親の兄弟姉妹の子供にその配偶者
⑧妻の父の一族(両親兄弟姉妹とその子供や孫にその配偶者全て)
⑨妻の母の一族(両親兄弟姉妹とその子供や孫にその配偶者全て)
ここまで広い範囲らしいです。
これだけ殺せば、同じ一族だけじゃなくかなり関係の薄い人まで殺していそうですね。里全体が親族って事でもなさそうです。(引用おわり)
後3年夏、王莽の父子を、周公のように封ずか
後3年夏、安漢公は上奏した。「車服の制度を整え、吏民を養生させよ」と。王莽は、官稷をたてた。
官稷について。如淳は『郊祀志』をひく。すでに官社はあるが、官稷はない。官稷とは、官社のあとに立てる。臣瓚はいう。前漢のはじめ、秦の社稷をのぞき、漢の社稷をたてた。のちに、夏禹の社稷をたてた。だが官稷は立てない。顔師古はいう。如淳と臣瓚の議論は、完全でない。官稷は、官社の跡地にたてるものだ。だが、いま王莽は、はじめて別のところに官稷を立てた。跡地ではない。
王莽は、郡国と県邑に、学官をたてた。
大司徒司直の陳崇は、張敞の孫・張竦に、作文させた。王莽の功徳をたたえた。「王莽を、周公のように優遇せよ。王莽の子を、伯禽のように優遇せよ。つまり王莽の6人の子を、みな封ぜよ」
郡臣が、王莽を封じる議論をしているとき、呂寛の事件がおきた。
後3年夏、王莽の子と呂寛が、衛氏を弁護
王莽の長子は、王宇である。王宇は、王莽が平帝の母・衛氏を、中山に押し込めることに反対だ。平帝の母は、平帝に会いたいと、日夜、泣いてる。王宇は王莽に意見した。「衛氏を長安に招こう」と。王莽は許さない。
王宇は、妻の兄・呂寛と、王莽にイタズラした。王莽は、鬼神をこのむ。だから王莽は、奇怪なことを恐れる。衛氏の件で抗議するため、王莽の宮殿の門に、血をまいた。発覚した。王宇は、毒薬で死んだ。王宇の妻は、呂焉という。王宇の子を身ごもった。子が生まれるのを待ち、殺された。
初,章為當世名儒,教授尤盛,弟子千餘人。莽以為惡人黨,皆當禁錮不得仕宦,門人盡更名他師。平陵雲敞時為大司徒掾,自劾吳章弟子,收抱章屍歸,棺斂葬之,京師稱焉。
甄邯らは、太后に詔をださせた。「王莽は周公のように、君主を助けている。君主のために、わが子すら殺した。なんと素晴らしい裁きだろう」と。
王莽は、衛氏につらなる人を、すべて殺した。平帝の母・衛皇后ひとり、残した。
王宇と呂寛に同調した、呉章を、腰斬して、東市に磔した。
はじめ呉章は、『尚書』に詳しいから、弟子が1千余人いた。王莽は、呉章の弟子を、管理から追放した。だが、平陵の雲敞は、このとき大司徒掾だ。雲敞は、呉章の死体を棺におさめた。長安の人たちは、雲敞をほめた。
後3年夏、王莽が同族の反対派を殺す
王莽は、呂寛の事件にこりた。元帝の女弟・敬武長公主は、丁氏や傅氏ら、王莽と敵対する外戚とむすんだ。敬武長公主は、王莽の専政を非難した。紅陽侯の王立は、王莽のおじだ。平阿侯の王仁は、王譚(王莽のおじ)の子だ。王仁は、王莽になびかず。
王莽は、これら同族を自殺させた。王莽は、王太后に言った。「敬武長公主らは、病死しました」と。太后は死体に会いたいが、王莽が止めた。
甄邯は、衛氏の党与や、郡国の豪傑や、漢室の忠臣で王莽につかない人を、みな殺した。死者は数百人。海内はふるえた。
北海の逄萌は、友人に言った。「三綱は絕えた。長安から去らないと、禍いが及ぶぞ」と。逄萌は、長安の東都城門に、冠をかけた。家属をひきい、海から、遼東に逃げた。
後3年、金日磾の子孫について
王莽は、少府の宗伯鳳を召した。宗伯鳳に、「人後之誼」を検討させた。だれも反対しなかった。
これより先、金日磾の子孫の国で、継嗣が絶えた。金日磾の国を、どう嗣いで祭るかで、モメた。京兆尹の金欽は王莽に反対した。「傍流の子孫が祭るのは、おかしい。大夫が祭ればよい」と。王莽は甄邯をつかい、金欽を殺した。「人後之誼」をどうするか、金氏の事件で明らかになった。
【追記】T_S氏はいう。(引用はじめ)
金日磾の子孫の金氏と王莽は母方で縁続き。(引用おわり)
後3年、正反対の潁川太守
この年、尚書令をする穎川の鐘元は、大理となった。
潁川太守をする陵陽の嚴詡は、孝行だから就職した。部下である、掾や史を、師友とした。ミスがあったから、嚴詡は引きこもり、太守の仕事をしない。潁川の郡中が、乱れた。
王莽は嚴詡に「仕事しろ」と使者した。嚴詡は地にふして泣いた。部下は、嚴詡に言う。「仕事しないと、まずいよ」と。嚴詡は言った。「私は潁川の人士のために、泣いている。わが身など、どうでもいい。私は柔弱に政治をした。私の後任は、剛猛な太守がくる。うまくいかないだろう」と。
嚴詡は、潁川太守から、隴西太守に移った。
後任の潁川太守は、何並である。尚書令・鍾元の弟をふくめ、潁川の人士をみな殺した。潁川の郡中は、震慄した。101124
さて、この後3年。政治的な大事件はない。王莽が、長子と叔父を殺したことばかり、印象に残る。司馬光が、手心を加えた結果か。もちろん、王莽による粛清は、平帝の外戚・衛氏の弱めるためだろうが。