155年、劉陶が桓帝を責め、張奐が活躍
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
155年と156年は、2年弱前に、訳したことがある。基本的には、それを引用します。適宜、いまの知識で補いつつ。自己カンニング。
155年春夏、太学の劉陶が、桓帝を批判
二月,司隸、冀州饑,人相食。
155年春正月戊申、天下を赦した。永寿と改元した。
2月、司隷と冀州で飢饉があり、人民は相い食んだ。
太学生の劉陶が上疏した。「そもそも、天が皇帝をあやつり、皇帝が人民をあやつるのは、まるで頭が足をあやつるようなもので、そういう関係性であるべきだ。陛下(桓帝)の目は、鳴條の事をご覧にならず、耳は檀車の声をお聞きになりません。
胡三省は考える。劉陶が、この檀車という言葉を使った目的は、夏の桀王や殷の紂王を、桓帝に例えるためだ。桀王や紂王は、血筋の貴さから天子となった。だが天に対して罪を犯し、民に害毒を流した。だから、湯王や武王に討たれた。亡国の事態は、皇帝の耳目には届かない。皇帝が自らの戒めとするチャンスがない。
ぼくは思う。まどろっこしいが、劉陶は桓帝を脅したのだ。「桓帝さんが政治を見ないと、夏や殷みたいに滅びますよ」と。胡注はもう少し続くんだが、「檀」の木の説明なので省略。
劉陶の上疏の続き。
「天災が起きても陛下の肌膚は痛まず、震食が起きても、すぐに陛下の聖体を損ないません。
ゆえに陛下は、三公の判断ミスを気にせず、上天の怒りを軽く思うのです。
高祖(劉邦)が決起したとき、布衣(をまとう平民)からスタートした。高祖は、離合集散をくり返し、扶けられたり傷つけられたりして、勝ち抜いて帝業を達成した。高祖の恩福は、血統として陛下に流れ込んでいる。
しかし陛下は、すでに為政者のレールを逸脱し、高祖のように勤めず、政治を丸投げしています。群臣には醜い刑を課し、人民から搾取する。まるで虎豹が小鹿の中に解き放たれた状況。豺狼が金儲けをして、人民は飢えて寒がっています。
愚臣(わたし)が嘆息しているのは、このことなのです。 秦が滅びそうなとき、正しく諌めた人は誅されて、へつらった人は賞された。忠言はシャットアウトされた。閻楽は咸陽令になり、首都を好き勝手に扱った。趙高は中車府令になって、軍の指揮権を手に入れた。秦の権威は捨て去られ、顧みられず。今も昔も、成功と失敗のルールは同じです。どうか陛下には、遠くは秦が滅びたことを参考にして、近くは前漢の哀帝や平帝の変事を参考にして下さい。得失と禍福が見えてくるでしょう。
司馬光は、想定する読者(皇帝)に、これを読ませたいのだ。このホームページで、何度も言いいますが。ぼくらは皇帝ではないので、骨身を浸し、これを読む必要はない。司馬光は、それでよいと言うだろう。
劉陶の上疏の続き。
「私は聞いた。危機は仁者でなければ扶けられず、乱は智者でないと救えないと。もと冀州刺史した南陽の朱穆と、さきの烏桓校尉で、私と同郡の李膺は、どちらも清平な人物だ。貞節は高くて世俗を超絶しており、中興の良佐、国家の柱臣となる。朝廷に復帰させ、王室を輔佐させよ。
私がタイミング悪くも、バカなことを言った。氷や霜は、日が当たれば必ず消滅する。私は、天下について悲しむべきことを悲しむ。いま天下も、私の愚かな惑いと同じことを悲しむ」と。
劉陶は上奏したが、桓帝は省みず。
155年夏秋、張奐が、南匈奴と東羌を撃つ
巴郡、益州郡山崩。
夏、南陽は大水した。司空の房植を免じ、太常の韓縯を司空とした。巴郡と益州郡で、山が崩れた。
秋、南匈奴の左薁鞬台耆と且渠伯徳らが造反した。
南匈奴は美稷を寇し、東羌がまた種族をあげて呼応した。
安定属国都尉する敦煌の張奐が、はじめて着任した。
張奐はたった200人で、すぐに攻め出た。兵力不足だ。軍吏は、叩頭して出撃の中止を願った。しかし張奐は許さず、長城の外に進んで駐屯した。
兵士を招集し、王衛という将を遣わした。東羌を味方に付けるためだ。王衛は亀茲県に行った。
王衛は東羌を使って、南匈奴の交通を分断した。東羌の諸部族は、張奐とともに薁鞬らを撃ち破った。伯徳は恐惶して、一族とともに降伏したから、郡の境界は平寧となった。
羌族は張奐に、馬20匹と金製の食器8枚を送った。張奐は諸羌の前で、酒を地面にぶちまけて言った。「馬を羊のように扱って馬屋に入れず、金を粟のように扱って懐に入れない」と。
贈り物をことごとく羌族に返した。
前任のこの地区の八都尉は財貨を好み、羌族はそれをウザいと思った。張奐は身を正して己を潔くしたから、悦んで羌族は服属した。張奐の威化は、大いに行き渡った。101202
2年弱前に書いたものを、ほぼ流用。以下、2年前の訳注。
曹操が生まれた年だから、翻訳した。トピックは2つでした。劉陶が「国が滅びるよ」と桓帝を咎めたことと、張奐が少数で南匈奴を討って羌族の心をつかんだこと。