表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』載記の劉聡伝を訳し、胡漢融合の可能性を探る

1)兄を殺し弟を退けて、即位

漢帝初代の劉淵が死んだ。2代の劉和は、諸王の兵力を削ごうとして、返り討ちに遭いました。今回は、その返り討ちを食らわした張本人、劉聡です。

父に並ぶ神童ぶり

劉聰,字玄明,一名載,元海第四子也。母曰張夫人。初,聰之在孕也,張氏夢日入懷,寤而以告,元海曰:「此吉征也,慎勿言。」十五月而生聰焉,夜有白光之異。形體非常,左耳有一白毫,長二尺余,甚光澤。

劉聰は、あざなを玄明という。別名は、劉載という。

なぜ「載」から「聡」になったんだろう。気になるが・・・

劉淵の第4子である。母は、張夫人という。はじめ劉聡を孕んだとき、母の張氏は、太陽が懐に入る夢を見た。ベッドで劉淵に、太陽の夢を話した。劉淵は言った。
「これは吉夢である。慎んで、口外するなよ」

このとき、劉淵にはすでに男子が生まれている。この吉夢を支持したのなら、後継争いが起きることを予感したってことになりますが。兄の劉和のときは、母は何も体験しなかったのに。
まあ、神がかった出生譚は、後から付けられるもの。責めるとしたら、劉淵ではなく、この不出来な出征譚を作り、劉淵の先見の明を薄めて見せてしまった、文人だろうが。

15ヶ月して、劉聡が生まれた。夜に白く光るという、怪異現象が起きた。劉聡の姿形は、普通ではなかった。左耳には1本の白い毛があり、身長は2尺余あり、とても光沢があった。

父の劉淵は、母が魚人に「日精」を受け取ってから、13ヶ月で生まれた。劉聡は、母の懐に「日」が飛び込んで、15ヶ月で生まれた。
胎内に長くいたんだなあ・・・じゃないよ!母が夢を見たとき、まだ妊娠していなかっただけだろ。すぐにはお腹は大きくならないしね。母は、吉夢の後に生理が来ても、黙っていたに違いない。だって、帝王の母になった予感を、ベッドの中で囁いた手前、引っ込みが付かない。


幼而聰悟好學,博士硃紀大奇之。年十四,究通經史,兼綜百家之言,《孫吳兵法》靡不誦之。工草隸,善屬文,著述懷詩百餘篇、賦頌五十餘篇。十五習擊刺,猿臂善射,彎弓三百斤,膂力驍捷,冠絕一時。太原王渾見而悅之,謂元海曰:「此兒吾所不能測也。」

劉聡は、幼くして聰悟で好學であった。博士の硃紀は、大いに劉聡の才能を奇抜だと認めた。

硃紀は、父の劉淵と同門の学生でした。
「隨何と陸賈は、武力がなかった。周勃と灌嬰は、知性がなかった。文武両道であるべきだよな」
と劉淵に話し、文に一辺倒だった劉淵を発奮させた人だ。

劉聡が14歳のとき、經史に究通し、あわせて百家之言をマスターした。『孫呉兵法』は靡いて誦さなかった。

文脈からすると、とくに『孫呉兵法』に精通したことにしたいのだが、、暗誦しなかったのか?よく分からん・・・

草書と隸書が書けて、作文が上手かった。著述や懷詩を100余つくり、賦頌を50余つくった。

この作品数は、死後の総括ではない。14歳のときの仕事だ。すごいなあ。

15歳のとき、劉聡は擊刺を習った。
猿臂(長い腕)だから射撃が上手く、彎弓は三百斤のものを使った。膂力は驍捷で、当時のトップであった。太原郡の王渾は、劉聡の腕前を見て悦び、父の劉淵に言った。
「この子のすごさは、私には測りしれんよ」

出ました、王渾です。劉淵だけを評価したのではなく、家族ぐるみで味方になってくれる。この匈奴の家は、名士のような付き合いに組み込まれている。

名士との親交

弱冠游于京師,名士莫不交結,樂廣、張華尤異之也。新興太守郭頤辟為主簿,舉良將,入為驍騎別部司馬,累遷右部都尉,善於撫接,五部豪右無不歸之。河間王顒表為赤沙中郎將。聰以元海在鄴,懼為成都王穎所害,乃亡奔成都王,拜右積弩將軍,參前鋒戰事。元海為北單于,立為右賢王,隨還右部。及即大單于位,更拜鹿蠡王。既殺其兄和,群臣勸即尊位。

弱冠(20歳)のとき、洛陽に留学した。名士のうち、劉聡と親交を結ばない人はいなかった。樂廣と張華は、とくに劉聡を評価した。

2人とも西晋の大物です。とくに張華は、290年代の平穏を作り出した人だ。匈奴を逆賊扱いする『晋書』すら、名士との親交が厚いと書いてくれた。
父の劉淵は司馬昭に認められ、劉聡は張華に認められた。西晋で順当に出世できそうだがなあ。

新興太守の郭頤は、劉聡を辟召して、主簿とした。郭頤は、良將のジャンルで劉聡を推挙してくれた。

郭頤は『晋書』では、ここ以外に、斉王・司馬攸の帰藩を諌めただけだ。諫言に名前を連ねている。どこの人?并州の人だと、文脈に合致するのだが。

劉聡は、驍騎別部司馬となり、かさねて右部都尉に遷った。人と接する姿勢が善かったので、匈奴五部の豪遊な人のうち、劉聡に心服しない人はいなかった。
河間王の司馬顒が上表して、劉聡を赤沙中郎將とした。

司馬顒は三王起義にて、司馬冏と司馬頴とともに、司馬倫を倒すために立ち上がった人。・・・八王の乱を知らない人がこの註釈を読んでも、余計に混乱するだけだが、書きようがない(開き直り)
つまり劉淵の父子は、同盟した皇族たちの間で、別れ別れに仕えている。父の劉淵は、これより前に、部曲の叛乱の疑惑で、罷免された。そこを司馬頴に拾われた。劉聡は、父の罷免に連座していない。

劉聡は、鄴にいる父の劉淵が、成都王の司馬穎に殺害されるのを懼れた。

司馬頴の拠点は、成都王のくせに鄴なのです。また司馬顒(ギョウ)は、鄴(ギョウ)じゃなくて長安を拠点にしている。もし世界史で出題されたら、受験生が泣く。しかし範囲外だから、心配は要らないんだ(笑)

劉聡は司馬顒の下を抜け出し、司馬頴の下で、父の劉淵に合流した。劉聡は、右積弩將軍となり、前鋒の戰事に加わった。
劉淵が北單于となり、右賢王に立てられた。劉淵は、右部の匈奴を従えて帰郷した。劉淵が大單于の位に就くと、劉聡は鹿蠡王となった。
劉聡は、兄の劉和を殺した。群臣は、劉聡に皇帝への即位を勧めた。

漢帝への即位

聰初讓其弟北海王乂,乂與公卿泣涕固請,聰久而許之,曰:「乂及群公正以四海未定,禍難尚殷,貪孤年長故耳。此國家之事,孤敢不祗從。今便欲遠遵魯隱,待乂年長,複子明辟。」

劉聡ははじめ、弟で北海王の劉乂に、皇帝を譲ろうとした。劉乂と公卿たちは、泣きまくって、劉聡に即位を要請した。長らくしぶってから、劉聡は即位を受け入れた。
「劉乂および群公よ。まだ四海は、平定されていない。禍難は、依然として多い。私は年齢が上だから、劉乂を押しのけて、皇帝になった。国家のために、私は即位を受諾したんだ。魯の隠公のように、劉乂が成人するのを待ってから、皇帝位を返そう」

魯の隠公は、前721年-前712年に在位。太子允(桓公)が幼少だから、代わりに即位した。だが成長した弟・桓公に殺された。劉聡みずから、こんな不吉な故事を引いて、大丈夫なのか?殺されたい願望?
ちなみに『春秋』の冒頭を飾る君主のようです。


於是以永嘉四年僭即皇帝位,大赦境內,改元光興。尊元海妻單氏曰皇太后,其母張氏為帝太后,乂為皇太弟,領大單于、大司徒,立其妻呼延氏為皇后,封其子粲為河內王,署使持節、撫軍大將軍、都督中外諸軍事,易河間王,翼彭城王,悝高平王。

ここにおいて永嘉四(310)年、劉聡は漢帝に即位した。大赦して、「光興」と改めた。

諡法で「光」には、「つぐ」という意味がある。後漢の光武帝しかり、劉淵の「光文帝」しかり。劉聡が生まれたときに、白く光ったというのは、兄を押しのけて、皇位を継承する伏線?
・・・考えすぎか。ただの舞台効果だよなあ。

劉淵の妻の單氏を尊んで、皇太后とした。劉聡の母の張氏を、帝太后とした。劉乂を皇太弟として、大單于・大司徒を領ねさせた。

次の皇帝を、匈奴の最高位である「大単于」にする。胡漢が融合した、国家の体制を表しているそうです。

劉聡の妻の呼延氏を皇后にした。
劉聡の子の劉粲を、河内王として、使持節、撫軍大將軍、都督中外諸軍事を任せた。劉粲は、河間王に変更になった。
劉翼を彭城王として、劉悝を高平王とした。