表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』載記の劉聡伝を訳し、胡漢融合の可能性を探る

2)洛陽陥落と家庭トラブル

3代漢帝になった劉聡です。「次の皇帝は弟」という約束なのだが、絶対にケンカになると思う(笑)
劉聡は詔で、「弟の劉乂が若すぎるから、私が中つなぎになる」と言っているが、ウソだと思う。
兄の劉和を殺しての即位だから、あんまり出しゃばると、人望が去るリスクがある。だから、劉乂を皇太弟にして、劉聡の色を薄めた。見方を変えれば、劉和殺害の罪を、劉乂にもなすりつけた。関羽の首を曹操に送ったときの、孫権の気持ちである。

最愛の女は、弟のママ

遣粲及其征東王彌、龍驤劉曜等率眾四萬,長驅入洛川,遂出轘轅,周旋梁、陳、汝、潁之間,陷壘壁百餘。以其司空劉景為大司馬,左光祿劉殷為大司徒,右光祿王育為大司空。

劉聡は、劉粲と、征東将軍の王彌、龍驤将軍の劉曜らに、4万を率いさせた。劉粲らは、長躯して洛川に入った。
轘轅(洛陽八関の1つ)に出て、梁郡、陳郡、汝南、頴川の間を周旋し、塁壁100余を陥落させた。漢の司空・劉景を大司馬として、左光祿・劉殷を大司徒として、右光祿・王育を大司空とした。


偽太后單氏姿色絕麗,聰蒸焉。單即乂之母也,乂屢以為言,單氏慚恚而死,聰悲悼無已。後知其故,乂之寵因此漸衰,然猶追念單氏,未便黜廢。又尊母為皇太后。

太后の單氏は、姿色が絶麗だった。劉聡は太后の單氏を、自分の後宮に入れた。

匈奴の風習ですね。父が死ねば、実母以外を引き継ぐという。。

單氏は、劉乂の母である。劉乂は、しばしばこのことを言った。

原文は「言を為す」だけなのです。何を言ったかと言えば、「兄よ、母と交わるのは辞めてくれないか」ってことだ。
いや、違うな。劉乂は実母に、「兄と交わるのを辞めてくれ」と言ったんだ。主語と目的語が省略されまくって分かりにくいが・・・
どちらにしても、修羅場ですよ。
父の女を相続する。漢族には理解しかねる(っていうか野蛮すぎる)行為として、認識されている。しかし匈奴の本人にとっても、状況によっては耐えがたかったようで。まして、漢帝の劉氏たちは、漢の文化に染まった知識人である。

太后の單氏は、慚恚して死んだ。劉聡は、單氏の死を悲悼すること、この上なかった。のちに劉聡は、劉乂が、母・單氏を責めていたことを知った。
これが原因で、劉聡から劉乂への恩寵は、衰えていった。だが劉聡は、單氏への思いが断ち切れないので、劉乂を皇太弟から黜廢しなかった。

憎らしい弟であるが、愛した單氏の実子だから、面影があったのでしょう。ああ、ぐちゃぐちゃ!劉聡についていけない。
ぼくの倫理観も、漢族寄りなんだなあ、と思います。

劉乂の母を尊び、單氏を皇太后とした。

洛陽の陥落

署其衛尉呼延晏為使持節、前鋒大都督、前軍大將軍。配禁兵二萬七千,自宜陽入洛川,命王彌、劉曜及鎮軍石勒進師會之。晏比及河南,王師前後十二敗,死者三萬余人。彌等未至,晏留輜重于張方故壘,遂寇洛陽,攻陷平昌門,焚東陽、宣陽諸門及諸府寺。

劉聡は、衛尉の呼延晏を、使持節、前鋒大都督、前軍大將軍とした。呼延晏は、禁兵27000を配して宜陽から洛川に入った。劉聡は、王彌と劉曜および、鎮軍の石勒を進軍させて、呼延晏に合流させた。

劉氏の載記で、石勒の初登場です。

呼延晏が河南郡に及ぶと、西晋は前後で12敗した。西晋の使者は30000余人。王弥が合流する前に、呼延晏は輜重を張方の故壘に留めて、洛陽を寇した。
平昌門を攻め落とし、東陽門や宣陽門および諸府の役所を焼いた。

懷帝遣河南尹劉默距之,王師敗於社門。晏以外繼不至,出自東陽門,掠王公已下子女二百餘人而去。時帝將濟河東遁,具船于洛水,晏盡焚之,還于張方故壘。王彌、劉曜至,複與晏會圍洛陽。時城內饑甚,人皆相食,百官分散,莫有固志。

西晋の懷帝は、河南尹の劉默に、呼延晏を防がせた。しかし西晋軍は、社門で呼延晏に敗れた。呼延晏は、後続が到着しないので、東陽門から出た。王公以下、子女200余人が、呼延晏に連れ去られた。
西晋の懐帝は、黄河を渡って東に逃げようとした。呼延晏は、洛水で船を全て焼き払った。

懐帝は、水路で逃げられなくなった。捕虜フラグが立った。

呼延晏は、張方の故壘に帰還した。
王弥や劉曜らが、到着した。呼延晏とともに、洛陽を包囲した。ときに洛陽場内は、食糧不足がひどかった。人はお互いに食らい、百官は分散した。西晋を守ろうという志は、もとよりない。

宣陽門陷,彌、晏入於南宮,升太極前殿,縱兵大掠,悉收宮人、珍寶。曜於是害諸王公及百官已下三萬余人,于洛水北築為京觀。遷帝及惠帝羊後、傳國六璽於平陽。聰大赦,改年嘉平,以帝為特進、左光祿大夫、平阿公。

宣陽門が陥落し、王弥と呼延晏は南宮に入った。太極前殿に入り、兵はほしいままに大掠した。宮人や珍宝をことごとく手に入れた。劉曜は、諸王公および百官以下300余人を殺した。

呼延晏はテンションが上がっているだけに見える。
だが劉曜のやり方には、西晋への憎しみを感じる。いずれ載記で劉曜伝を読むと思うので、そのときに検討しましょう。
このとき、劉淵が「兄」と仰いだ劉禅の子孫が、殺されたはず。正統の理念はいずこ?と疑ってしまうなあ・・・
劉淵・劉聡は「漢」の皇帝だが、のちに劉曜は「趙」の皇帝となる。このことが実は関係あるかも?何にせよ、後日ですね。

劉曜は、洛水の北に京觀を築いた。

敗軍の死体を積み上げて作るモニュメントです。
そんなわけないのに、旅番組なんかから「ここから見える景観は」とか聞こえると、ゾクッとします。同音なだけなのに(笑)

西晋の懐帝と、皇后の羊氏を平陽に移した。傳國六璽も、平陽に移した。
劉聡は大赦して、「嘉平」とした。
西晋の懐帝を、特進、左光祿大夫、平阿公に任命した。

劉禅の安楽公、孫皓の帰命侯に並び、司馬熾は平阿公になりました。
いま気づいたが、劉禅は「公」で、孫皓は「侯」ですね。違ったんだ・・・

息子・劉粲の失敗

遣其平西趙染、安西劉雅率騎二萬攻南陽王模于長安,粲、曜率大眾繼之。染敗王師于潼關,將軍呂毅死之。軍至於下邽,模乃降染。染送模於粲,粲害模及其子范陽王黎,送衛將軍梁芬、模長史魯繇、兼散騎常侍杜驁、辛謐及北宮純等於平陽。聰以粲之害模也,大怒。粲曰:「臣殺模本不以其晚識天命之故,但以其晉氏肺腑,洛陽之難不能死節,天下之惡一也,故誅之。」聰曰:「雖然,吾恐汝不免誅降之殃也。夫天道至神,理無不報。」

劉聡は、平西将軍の趙染、安西将軍の劉雅に、騎兵20000を率いさせて、南陽王の司馬模を長安に攻めた。劉粲と劉曜は、大軍を率いて、趙染に後続した。
趙染は、潼關で西晋軍を破った。西晋の將軍・呂毅は、潼関で死んだ。漢軍は下邽に到った。司馬模は、趙染に投降した。趙染は、司馬模を劉粲のところに送った。

わざわざ注にしなくてもいいですが、劉粲は劉聡の子ですね。

劉粲は、司馬模を殺し、司馬模の子・范陽王の司馬黎を殺した。劉粲は、衛將軍の梁芬、司馬模の長史の魯繇、散騎常侍の杜驁、辛謐および、北宮純らを平陽に送った。
劉聡は、劉粲が司馬模を殺したことに、大怒した。劉粲は、司馬模を殺した理由を説明した。
「ぼくが司馬模を殺したのは、司馬模の天命が尽きていると察知したからです。司馬模は、西晋の心臓部である洛陽が陥落したのに、司馬模は死力を尽くして救いませんでした。これは、天下がもっとも悪むことです。だから司馬模の天命を見切り、殺しました」

「天命を知ることが遅れないようにした」つまり、いち早く天命を先取りして、司馬模を殺したんですよ、と。この読み方、あっているんだろうか。。

劉聡は言った。
「そうは言っても、お前が投降した人を殺したデメリットを、私は恐れているのだ。そもそも天道は、神に通じるものだ。人である私たちが、司馬模の天命が尽きていたかなんて、知ることはできない」

投降した人を殺せば、もう誰も投降しなくなる。つまり、残った諸侯は、全員が死力を尽くして、漢の劉氏に抵抗する。天下統一のためには、計り知れないロスである。それを劉聡は、天道という言葉で説明した。