表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』載記の劉聡伝を訳し、洛陽を陥落させる

7)愍帝即位と隕石

陳元達の諫言に、根負けした劉聡です。
劉聡の君主像が固まっていません。まだ、漢は草創期です。
劉聡のキャラが固まらないとは、漢のナショナリズムの拠りどころがないということになります。

西晋の愍帝の即位

時湣帝即位于長安,聰遣劉曜及司隸喬智明、武牙李景年等寇長安,命趙染率眾赴之。時大都督麹允據黃白城,累為曜、染所敗。染謂曜曰:「麹允率大眾在外,長安可襲而取之。得長安,黃白城自服。願大王以重眾守此,染請輕騎襲之。」

ときに西晋の湣帝が、長安で即位した。
劉聡は、劉曜および司隸校尉の喬智明と、武牙将軍の李景年らに、長安を攻めさせた。劉聡は、趙染に兵を率いて、長安に向わせた。
西晋の大都督である麹允は、黄白城に拠った。麹允は、劉曜と趙染に、かさねて敗れた。趙染は、劉曜に言った。
「西晋の麹允は、長安の外の(黄白城で)大軍を連れています。この隙に、長安を襲って奪いましょう。長安を得れば、黄白城は自ずと降伏するでしょう。大王・劉曜さまは、重兵でここを守って下さい。この趙染に輕騎をお与え下さい。私が長安を襲います」

曜乃承制加染前鋒大都督、安南大將軍,以精騎五千配之而進。王師敗于渭陽,將軍王廣死之。染夜入長安外城,帝奔射雁樓,染焚燒龍尾及諸軍營,殺掠千餘人,旦退屯逍遙園。麹允率眾襲曜,連戰敗之。曜入粟邑,遂歸平陽。

劉曜は、戦場の任免権を劉聡から与えられていた。
劉曜は趙染を、前鋒大都督、安南大將軍に任命した。趙染に精騎5000を与えて、長安へ進ませた。西晋軍は、渭陽で敗れた。西晋の將軍・王廣が死んだ。
趙染は夜に長安外城に入った。愍帝は、射雁樓に逃げた。
趙染は、龍尾および諸軍營を焼き払った。西晋は、1000余人が殺掠された。明け方、愍帝は逍遙園に退いて、屯した。
一方で晋の麹允は、軍を率いて劉曜を襲った。連戦して、劉曜は麹允に連敗した。劉曜は粟邑に入り、ついに平陽に撤退した。

漢が晋の本拠(長安)を突くと、晋も漢の本隊(劉曜)を突いた。
劉曜:趙染=愍帝:麹允という関係だ。

隕石と、蛇と獣

時流星起於牽牛,入紫微,龍形委蛇,其光照地,落於平陽北十裏。視之,則有肉長三十步,廣二十七步,臭聞於平陽,肉旁常有哭聲,晝夜不止。聰甚惡之,延公卿已下問曰:「朕之不德,致有斯異,其各極言,勿有所諱。」陳元達及博士張師等進對曰:「星變之異,其禍行及,臣恐後庭有三後之事,亡國喪家,靡不由此,願陛下慎之。」聰曰:「此陰陽之理,何關人事!」

ときに、流星が牽牛の領域で発生し、紫微の領域に入った。龍形(流星の尾)は蛇のようで、その光は地を照らした。流星は、漢都である平陽から北へ10里のところに落ちた。流星を見ると、肉の長さは30歩、幅は27歩で、臭いが平陽まで聞こえた。

「肉」って、たんぱく質じゃあるまい。破片だ、きっと。宇宙人の死体とか、そういう思想は聞いたことがないからね。中国史では。

肉のそばから、哭き声がして、夜じゅう止まなかった。
劉聡は、ひどく流星の臭いと声を悪んだ。公卿以下を集めて、下問した。
「私が不德だから、このような怪異が起きてしまった。思ったことを言ってくれ。遠慮はいらん」

天譴を気にしているのは、後漢の皇帝と同じ。

陳元達および博士の張師らは、答えた。
「流星の怪異は、後宮に3人の皇后がいるせいだと思います。どうか皇后の数を減らして下さい」
劉聡は答えた。
「この陰陽之理は、人の行いに関係ないことだぞ」

陰陽之理というのは、流星?後宮?
流星ならば、劉聡を含めたヒトが関われない。後宮ならば、陳元達ら人臣に口出しされる筋合いはない、ということに。こっちが劉聡の意図でしょう。
劉聡は、天人相関説を信じている、漢族風の皇帝を装った。だが、後宮はプライベート空間として保つ。後漢の教えでは、皇后も含めて、国家の一部だったと思うんだが、、だから外戚が権力を持てたのだが、、
女好きの劉聡は、女性問題は絶対に思い通りにする(笑)貫徹しないことよ。


既而劉氏產一蛇一猛獸,各害人而走,尋之不得,頃之,見在隕肉之旁。俄而劉氏死,乃失此肉,哭聲亦止。自是後宮亂寵,進禦無序矣。

かつて後宮にいる劉氏は、1匹の蛇と、1匹の獣を生んだ。蛇と獣は、人を殺害して逃げ出した。蛇と獣は、発見されなかった。

匈奴の野性を象徴化したのかな。漢皇帝を名乗っているけど、流れている血は、蛇や獣と同類だという。
後漢の桓帝や霊帝がどれだけ呆けても、動物は生まなかったもんなあ。

流星が落ちたころ、肉のそばに蛇と獣がいた。にわかに後宮で劉氏が死に、亡骸から肉がなくなった。流星の哭き声が止んだ。
これより劉聡は、後宮で乱寵するようになった。進禦して、政治に参加することがなくなった。

ちょっと休憩

わりに長く読んできましたが、まだ「劉聡伝」は半分を少し越えたところ。
いま313年で、劉聡が死ぬのが318年だから、年数だけ見たら残り短いのだけど、まだ分量は割りにある。
以降は、長安の愍帝を滅ぼす仕事をします。あと、後継問題の火種となる確率が120%だと思われた、皇太弟・劉乂が、やはり燃え出します。

ここまで見た劉聡は、国是の確立に苦しんで、本人すらアイデンティティを見失っている「匈奴の漢帝」でした。
父の劉淵は、4つの意味で、この苦しみが必要なかった。
1つ、自制が利いて、人格に優れていた。
2つ、皇帝を称してからすぐに死んだ。
3つ、口煩くビジョンを掲げなくても、臣下と心が同じ。
4つ、西晋の失政が酷く、西晋のアンチテーゼだけで、求心力が保てた。

3つ目と4つ目が壊れたことが、劉聡の不幸なのです。もし劉淵が皇帝を続けていても、同じ問題と必ず直面した。しかし劉淵は、そそくさと死んでしまったから、対策を打ってくれていない。
西晋は、あれだけひどい政治をやったのに、なかなか残党が、劉氏の漢に従いません。喉元を過ぎたらしく、懐帝即位までの混乱(八王の乱)も、懐帝に正統性があるのかも、もう誰も言い出さない。
もしかして、司馬氏以外の漢族が、自立勢力を築いていたら、さっさと新王朝はその下に成立したかも知れない。天下が司馬氏にキレるさまは、限界を振り切っていたと思うから。しかし、
「司馬氏は腹が立つけど、匈奴の皇帝を頂くなんてありえなーい
というのが世論の大多数だったから、劉聡の仕事は難航した。もっとも、そんな先天的な条件を責めても、どうにもならんのだが。

ふつう「2世」というと、親の七光りに安住した平凡な人物をイメージするのだが。劉聡が担当しているのは、創業者が軌道に乗せるための苦労です。