表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』載記の劉聡伝を訳し、胡漢融合の可能性を探る

6)鎖を巻いた忠臣の諫言

ソフト(気持ち)面で、どうも正統性が成立しない漢。
おまけに関中には、司馬鄴がいる。ハード(軍事)面で、圧倒的に優位に立たないと、漢は崩壊しそうです。

晋陽の争奪戦

聰遣劉粲、劉曜等攻劉琨于晉陽,琨使張喬距之,戰于武灌,喬敗績,死之,晉陽危懼。太原太守高喬、琨別駕郝聿以晉陽降粲。琨與左右數十騎,攜其妻子奔于趙郡之亭頭,遂如常山。粲、曜入于晉陽。

劉聡は、劉粲と劉曜らに、晉陽で劉琨を攻めさせた。劉琨は、張喬に漢軍を防がせた。武灌で戦い、張喬は漢軍に敗れて死んだ。劉琨が守っている晉陽は、危懼した。
西晋の太原太守の高喬と、劉琨の別駕である郝聿は、晉陽を開城して、劉粲に降伏した。劉琨は、左右數十騎を率いて、妻子を連れて趙郡の亭頭に逃れた。劉琨は、常山郡に達した。
劉粲と劉曜は、晉陽に入城した。

先是,琨與代王猗盧結為兄弟,乃告敗于猗盧,且乞師。猗盧遣子日利孫、賓六須及將軍衛雄、姬澹等率眾數萬攻晉陽,琨收散卒千餘為之鄉導,猗盧率眾六萬至於狼猛。

これより先、劉琨と代王の猗盧は、兄弟の同盟を結んでいた。

この代王が、最後の勝者・北魏の祖先です。分からんもんだなあ。

猗盧のところに、劉琨の敗北が伝えられた。劉琨は、猗盧に援軍を求めた。猗盧は、子の日利孫と賓六須および将軍の衛雄や姬澹らを率いて、数万で晋陽を攻めた。劉琨は、逃げ散った1000余人を集めて、土地勘を使って先導した猗盧は、60000を率いて、狼猛に入った。

曜及賓六須戰於汾東,曜墜馬,中流矢,身被七創。討虜傅武以馬授曜,曜曰:「當今危亡之極,人各思免。吾創已重,自分死此矣。」武泣曰:「武小人,蒙大王識拔,以至於是,常思效命,今其時矣。且皇室始基,大難未弭,天下何可一日無大王也。」於是扶曜乘馬,驅令渡汾,回而戰死。曜入晉陽,夜與劉粲等掠百姓,逾蒙山遁歸。猗盧率騎追之,戰于藍穀,粲敗績,斬其征虜邢延,獲其鎮北劉豐。琨收合離散,保于陽曲,猗盧戍之而還。

劉曜と、猗盧の将軍である賓六須は、汾東で戦った。劉曜は落馬して、流矢がヒットし、身に7つの傷を負った。討虜将軍の傅武は、自分の馬を劉曜に差し出した。

曹操が徐栄に敗れたときの曹洪と同じだ。

劉曜は言った。
「いま私の軍は、危亡之極である。各自で逃げることを考えよ。私は重傷だから、ここで死ぬ
傅武は、泣いて言った。
「私はちっぽけな人物です。大王(劉曜)に認めてもらい、抜擢をして頂いて、今日に到りました。いつも大王に報いたいと思っていました。いまが恩返しのときです。皇室(劉氏の漢)は、建国したばかりです。大難は、まだ収まっていません。天下に、大王のいない日が1日もあってはならんのです」

曹洪は「天下に私がいなくても支障はない。でも曹操さまは違う」でした。傅武は故事を踏まえる文化人じゃなかろう。非常時の人間が口走ることに、バリエーションは少なくていい。
ただし、記録に残るとしたら、生き残った劉曜の発言がベースだ。もしムリヤリに馬を奪ったとしても、いくらでも脚色できる。これが、曹洪が生き残った曹操のケースとは違うところだ。

傅武は、劉曜を助けて馬に乗せ、汾水を渡らせた。傅武は、戦場に戻って死んだ。
劉曜は晉陽に入った。夜に劉曜は、劉粲らと百姓から掠奪をして、蒙山を越えて漢の本拠地に帰った。猗盧は、騎兵で劉曜らを追った。藍穀で戦った。劉粲は破れた。漢の征虜将軍である邢延は斬られ、漢の鎮北将軍の劉豐は捕えられた。劉琨は、散らばった軍を集めて、陽曲を保った。猗盧の守備兵は、帰還して劉琨を守った。

鮮卑の拓跋部が活躍したおかげで、西晋の劉琨の勝ちである。
ぼくは、劉聡の求心力を心配してしまう。

西晋の懐帝を毒殺

正旦,聰宴於光極前殿,逼帝行酒,光祿大夫庾瑉、王俊等起而大哭,聰惡之。會有告瑉等謀以平陽應劉琨者,聰遂鴆帝而誅瑉、俊,複以賜帝劉夫人為貴人,大赦境內殊死已下。立左貴嬪劉氏為皇后。聰將為劉氏起皇儀殿於後庭,廷尉陳元達諫曰:

正月の初め、劉聡は光極前殿で宴をした。西晋の懐帝は、酒の給仕係をした。西晋の光祿大夫である庾瑉や王俊らは、立ち上がって大哭きした。劉聡は、これを惡んだ。たまたま密告があり、庾瑉らが平陽にいる劉琨と、呼応していると知った。
劉聡は、鴆毒で西晋の懐帝を殺した。劉聡は、庾瑉と王俊を誅殺した。

劉聡は、なぜ懐帝を殺したか。昔話をして親しげなふりをしてた。友達だったんじゃないのか?あの茶番を、なぜムダにしてしまうの?もし懐帝が憎けりゃ、捕虜にした311年に殺せば良かった。捕えてから、2年も経ってるよ。
答えは簡単。劉聡の漢の現実的な脅威となったから。
311年時点では漢は余裕をかませた。晋の権威を併呑しそうだった。だが313年時点では、漢は晋に負けそう。
いま関中には司馬鄴がいる。建業には司馬睿がいる。晋陽には、猗盧と劉琨がいる。幽州には王浚もいる。西晋は、粘り強いのだ。
漢は君臣の間で齟齬がありまくりで、命令が徹底しない。そのために苛立ち、劉聡は暴君の振る舞いすら現れている。
こうなると懐帝は、劉聡の権威を高める道具というよりは、漢を滅ぼして晋を再興する旗印となる。洛陽こそ滅ぼしたが、西晋は滅んでいないという認識だ。この認識は、悔しいけど劉聡も同じ。すぐ前の恵帝の例があるように、皇帝が一時的に拘束されることは、王朝の滅亡を意味しない。
劉聡は懐帝に、なりふり構わず恥をかかせた。鴆毒を飲ませた。徳望を集めても、軍事的に負けたらエンドだもの。

劉聡は、懐帝に与えていた劉夫人を回収して、劉聡の貴人に戻した。死刑以下の罪人を、大赦した。
左貴嬪の劉氏を、劉聡の皇后に立てた。劉聡は、皇后の劉氏のゴージャスな御殿を、後宮に建てようとした。

権力を誇示するのは、ただ虚栄心を満たすためじゃない。現実的なニーズが必ずあると思う。君主の胸中には潜在して、意識されていないかも知れないが。
すなわち、国力を示して、敵(仮想敵を含む)を圧倒するためだ。 劉聡の場合は、西晋という明確な敵がいる。分かりやすい。

廷尉の陳元達が、劉聡を諌めた。

「臣聞古之聖王愛國如家,故皇天亦祐之如子。夫天生蒸民而樹之君者,使為之父母以刑賞之,不欲使殿屎黎元而蕩逸一人。晉氏暗虐,視百姓如草芥,故上天剿絕其祚。乃眷皇漢,蒼生引領息肩,懷更蘇之望有日矣。我高祖光文皇帝靖言惟茲,痛心疾首,故身衣大布,居不重茵;先皇后嬪服無綺彩。重逆群臣之請,故建南北宮焉。今光極之前足以朝群後饗萬國矣,昭德、溫明已後足可以容六宮,列十二等矣。陛下龍興已來,外殄二京不世之寇,內興殿觀四十餘所,重之以饑饉疾疫,死亡相屬,兵疲於外,人怨於內,為之父母固若是乎!伏聞詔旨,將營皇儀,中宮新立,誠臣等樂為子來者也。竊以大難未夷,宮宇粗給,今之所營,尤實非宜。臣聞太宗承高祖之業,惠呂息役之後,以四海之富,天下之殷,尚以百金之費而輟露臺,歷代垂美,為不朽之跡。故能斷獄四百,擬于成康。陛下之所有,不過太宗二郡地耳,戰守之備者,豈僅匈奴、南越而已哉!孝文之廣,思費如彼;陛下之狹,欲損如此。愚臣所以敢昧死犯顏色,冒不測之禍者也。」

(訳は省略しますが)国力以上の華美は控えなさいよ!と。
面白いところだけ指摘すると、「陛下之所有,不過太宗二郡地耳,戰守之備者,豈僅匈奴、南越而已哉!」ですね。
陳元達が言うには、
「劉聡さまが領有しているのは、前漢の区画で2郡だけである。前漢は、文帝と景帝のとき、浪費を抑えて国力を蓄えた。それよりずっと領土の狭い劉聡さまが、どうして浪費できるのか」と。さらに、「前漢が守備する相手は、匈奴と南越だけだった。だが劉聡さまは、もっと多方面に多量に敵を抱えている。どうして浪費できるのか」と。
・・・まるで劉聡ら皇族が匈奴であることを忘れたような物言いです(笑)

聰大怒曰:「吾為萬機主,將營一殿,豈問汝鼠子乎!不殺此奴,沮亂朕心,朕殿何當得成邪!將出斬之,並其妻子同梟東市,使群鼠共穴。」時在逍遙園李中堂,元達抱堂下樹叫曰:「臣所言者,社稷之計也,而陛下殺臣。若死者有知,臣要當上訴陛下于天,下訴陛下于先帝。硃雲有雲:'臣得與龍逢、比干游於地下足矣。'未審陛下何如主耳!」元達先鎖腰而入,及至,即以鎖繞樹,左右曳之不能動。聰怒甚。劉氏時在後堂,聞之,密遣中常侍私敕左右停刑,於是手疏切諫,聰乃解,引元達而謝之,易逍遙園為納賢園,李中堂為愧賢堂。

劉聡は、大怒して言った。

また「大怒」しました。

「私は、萬機の主である。たかだか建物1つ作るのに、どうして陳元達のような鼠子に、お伺いを立てねばならんか。陳元達を殺さないと、心が乱れて、工事がままならん。陳元達を斬り、妻子も東市に晒せ。同類のネズミどもも、殺して埋めてしまえ」
この会話は、逍遙園の李中堂で行なわれていた。陳元達は、堂下に生えている樹木にしがみ付いて、叫んだ。
「私が申し上げたのは、社稷之計です。しかし劉聡さまは、私を殺すと仰る。もし死者に知覚があるならば、私は天と先帝(劉淵)に、劉聡さまを訴えます

死に物狂いで言ってます。『蒼天航路』で曹操が。軍師に対して、
「自分の提案を採用しなければ、君主であるあなたを殺します、というくらいの気迫で進言せよ。もし提案が間違っていれば、死ぬ覚悟でいろ」
みたいなことを言っていた。きっと陳元達には、それが出来ている。

硃雲が言った。
「陳元達は、夏の龍逢殷の比干と、死後の世界で交流することができる。いまだに劉聡さまが、どのような君主なのか詳しく分からないだけだ」

硃雲が言ったことが、ツマビラカじゃない(笑)
まず、夏の龍逢も殷の比干も、切実な諫言をした忠臣です。陳元達は、彼らと「地下」で「游」できるんだから、同類の人物と認定されたのだね。
では劉聡は、
「未審陛下何如主耳」
なんて、なぜ言われたんだ。
陳元達をどう処置するかで、君主としての器量・評価は大きく変わる。そういう意味で良いのか?
漢の正統性が揺らぐ。劉聡も、名君キャラと暴君キャラを、行ったり来たり。戦さに勝てば、漢族の心を得るために、寛大になる。しかし戦さに負けると、力を見せ付けるために暴走する。前者と後者が、クルクルと入れ替わる。どちらの劉聡のキャラも、
「漢族の上にも君臨したい」
という1つの目的から発している行動なのに、見た目は正反対になる。だから、陳元達の諫言をどう裁くか、ハラハラして観察されたんだと思う。

陳元達は、腰に鎖を巻いて、この席に来ていた。
劉聡に死刑だといわれると、陳元達は鎖で自分を樹木に固定した。左右の人が引き剥がそうとしたが、陳元達を動かせなかった。劉聡は、ひどく怒った。
皇后の劉氏が、後堂にいて、陳元達の騒動を聞いた。劉氏は手ずから諌め文を書き、中常侍にこっそり届けさせた。

劉聡は、皇后の劉氏に宮殿をプレゼントしたかった。陳元達は、辞めろと言った。社稷の計で諌められても、女に力を見せたいのは、男のサガである。
いま、プレゼントの貰い手である、劉皇后が「要らないわ」と言った。一件は落着するが、劉聡の立場はどうなるんだ。

劉聡は、建築をキャンセルした。劉聡は、陳元達の鎖をほどき、謝った。
劉聡は、この騒動の舞台となった逍遙園を「納賢園」と改称して、李中堂を「愧賢堂」と改称した。

劉聡が、「賢者の発言を受け納れ」、「賢者に対して己を愧じた」場所だ。自戒を込めた、なら美談である。だが、ぼくが劉聡だったら、超恥ずかしい。
名君と暴君を行き来している劉聡は、きっと自分でも自分が分からない。陳元達が述べたのは、民力を休養するから、社稷の計には違いないが、君主のメンタルにはキツいな。