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党錮と黄巾の間(霊帝紀を口語訳) 1)罪人名簿のハコ
党錮ノ禁が168年で、黄巾ノ乱が184年です。15年以上も開いているのに、間に何が起きたか、あまり印象がありません。『後漢書』霊帝紀を口語訳して、その疑問を解明したいと思います。
孝霊皇帝、名は宏といい、章帝の玄孫である。
劉宏(霊帝)は、あざなを「大」という。『逸周書』諡法解によれば、「霊」とは、天下は乱れるが、損傷を受けないという意味である。
ゴーストのように透明で、物理攻撃がすり抜けるという意味ですね(笑)
そうではなく、天下は乱れるものの、王朝を滅ぼすにいは至らないという意味か。常識的に解釈すれば、こちらだ。


霊帝の曽祖父は、河間王・劉開である。祖父は劉淑で、父は劉萇である。代々、解トク亭侯に封じられ、霊帝も侯爵を継いだ。母は董夫人。
知らない漢字なので、父の名「萇」を調べてみました。
「萇楚」というのが木の名前。マタタビ科でツルを他の木に巻きつかせる大木。果実は食用となり、キウイフルーツのことである。へえ!


桓帝が崩じ、皇子がなかった。
竇太后は、父で城門校尉の竇武とともに、
「次の皇帝は誰だろうか」
と話し合った。守光禄大夫・劉シュクに節を持たせ、左右の羽林(近衛兵)を率いて、からからと車を引いて劉宏を迎えに行った。
「守」は、位階の低い人が、上の役職を兼ねること。その反対は「行」?
次の皇帝の相談は「策ヲ禁中ニ定メ」と書かれています。桓帝のときも同じ表現がありました。「策」の字には、紙発明以前に使った竹のフダという意味があり、そこから「文書」や「計画書」となり、「はかりごと」を指すようになりました。ちなみに「ムチ」「馬をムチで打つ」「刺激を与えて励ます」の意味もあります。孫策の名は、こっちのイメージか(笑)


168年
正月、城門校尉・竇武を、大将軍とした。
霊帝が夏門の亭に到ると、竇武に節を持たせ、王が用いる青蓋車で劉宏を迎えさせた。霊帝は竇武に導かれ、殿中に入った。皇帝の位についた。12歳だった。
建寧と改元した。
前ノ大尉・陳蕃を太傅(三公の上位)とした。陳蕃には、大将軍・竇武と、司徒・胡広とともに、尚書(文書を発布する役所)のことを管轄させた。護羌校尉・段熲に命じて、先零羌を討たせた。

2月、桓帝を宣陵に葬り、廟を「威宗」と名づけた。霊帝は、高廟(前漢歴代皇帝の墓)に謁した。世祖(光武帝)廟に謁した。天下に大赦し、民に爵位と布帛をバラまいた。段熲は、大いに先零羌を、逢義山で破った。
閏月、霊帝は祖父の劉淑を追尊して、「元皇帝」と呼び、夫人の夏氏を「元皇后」と呼んだ。父の劉萇を「仁皇帝」とし、夫人の董氏を「慎園貴人」とした。
4月、大尉・周景が死んだ。司空の宣鄷を免じて、長楽衛尉(長楽宮の門を守る)である王暢を司空とした。
「鄷」は、周ノ文王が都を置いた地で、固有名詞にしか使わない漢字。

5月初日、日蝕があった。公卿以下に、意見の封書を提出させた。太守と国相に、道徳を身に付けた人を1人ずつ挙げさせた。
刺史のOBで、清廉高潔で民にいつまでも好かれている人を、宮城の門前に配属した。天子への上書や、各地から召された人物の受付を担当させるためである。
太中大夫・劉矩を大尉にした。太中大夫は、光禄勲に属する。大夫には他に、光禄大夫、中散大夫、諌議大夫がある。

6月、洛陽で大水。
7月、破羌将軍・段熲は、復た先零羌をケイ陽で破った。
8月、司空・王暢を免じて、宗正(九卿のひとつ、宗室を司る)の劉寵(列伝66・循吏)を司空にした。

9月、中常侍の曹節(列伝68・宦者)は、詔と偽って政敵を誅殺し、その一族を皆殺しにした。
第二次・党錮ノ禁です! 太傅の陳蕃や、大将軍の竇武、尚書令の尹勲、侍中の劉瑜(列伝47)、屯騎校尉の馮述らが殺された。竇太后は、竇武とともに曹節を討とうとしたが、竇武はすでに殺された後だったから、南宮に遷された。
司徒・胡広を太傅として、尚書を管理させた。司空の劉寵を司徒にして、大鴻臚・許栩を司空にした。
「栩」とは、クヌギのこと。
10月、日蝕があった。天下の繋がれた囚人たち(党人?)の罪は立証できないものだとして、絹を支払って保釈できることにした。

11月、大尉の劉矩を罷免し、太僕(天子の車駕)で沛国出身の聞人襲と大尉とした。聞人までが姓で、あざなは定卿である。魯の聞人(有名人)の子孫だから、この姓を名乗った。
『後漢書』の注に、わざわざ「聞・人襲」ではなく「聞人・襲」だよと書いてある。さらに『風俗通』を引き、姓の由来をご丁寧に解説してある。中国の知識人も、この変な姓には戸惑ったらしい(笑)
12月、鮮卑とワイハクが、幽州と并州を寇した。
169年
正月、天下に大赦した。
3月、慎園董貴人(霊帝の母)を尊び、仁皇后とした。
4月、大風があり、雹が降った。公卿以下に、意見の封書を提出させた。
5月、大尉・聞人襲と、司空の許栩を罷免した。
6月、司徒の劉暢を大尉とした。太常(九卿のひとつ、祭祀儀礼を司る)の許訓(あざなは季師で、平輿郡の人)を司徒とした。太僕の劉囂(あざなは重寧で、長沙郡の人)を司空とした。
「囂」はゴウと読み、かまびすしいと訓読する。

7月、破羌将軍・段熲は、大いに先零羌を、射虎塞の外谷で破った。東羌がことごとく平定された。
桓帝紀の167年に、「西羌がことごとく平定された」という表現がありました。あれと対をなすのでしょう。しかし桓帝のときは、全く収まってなかった。。

9月、江夏郡で蛮が叛いたので、州郡で平らげた。丹陽郡の山越の賊が、太守の陳インを包囲したが、反撃して破った。
『資治通鑑』の注にある。「山越とは、もとは越人。険しい山に入り込み、王に租税を納めない」と。春秋戦国に呉越が争います。孫呉と山越の長年の抗争を重ねあわすことが出来るかも。呉越の故事を、知りたくなってきました。

10月、中常侍・侯覧(列伝68・宦者)は、有司の耳元に「党鉤(徒党を組んでいる奴ら)を捕まえましょう」と、そっとささやいた。
前ノ司空である虞放、太僕の杜密(列伝57・党錮)、長楽少府(皇太后宮を司り、二千石)の李膺、司隷校尉の朱瑀、頴川太守の巴粛(列伝57・党錮)、沛国相の荀昱、河内太守の魏朗、山陽太守のテキ超らが獄に下された。
どうでもいいけど、沛国相の荀昱とは、、駆け出しの三国志ファンが、荀彧と程昱をゴチャゴチャにして、書き間違えたような人です。

死者は百余人。妻子は辺境に流された。被害者に同調した人は、五属まで任官権を剥奪された。五属とは、喪の規定にある、近しい親族の範囲である。
州郡に詔して、党鉤の仲間を検挙させた。ここにおいて、天下の豪傑や、儒学の教えを行う人は、一切をまとめて「党人」と見なされた。末日、日蝕があった。
『続漢書』にある。このとき洛陽の高官たちは、みな葦を編んだ方笥(四角いハコ)を持っていた。方笥というのは、郡国からの判決文の入れ物である。のちに党人は赦されるのだが、このとき疑いを持たれた人は、全員が方笥の中に名前が入るという不名誉を味わった。

11月、大尉・劉暢を免じて、太僕の郭キ(公房、扶溝郡の人)を大尉とした。鮮卑が、并州を寇した。
この年、長楽太僕の曹節を車騎将軍としたが、百余日で辞めた。
順当に出世して三公になった人も、数ヶ月で辞めている時代だ。曹節の在任が短かったのは、政策のミスを訂正したわけではあるまい。ただ肩書きが欲しかったのだね。
170年
正月、河内郡で、妻が夫の肉を食べた。河南郡では、夫が妻の肉を食べた。
ただ対句をやりたかっただけで、「洛陽東方の郡で、とにかく飢饉があった」と言いたいのでしょう。いちいち凝らなくても。。
3月、日蝕があった。
4月、大尉の郭キを辞め、太中大夫・聞人襲を大尉とした。
7月、司空の劉囂を辞めさせた。
8月、大鴻臚の橋玄(列伝41)を司空とした。
9月、執金吾(洛陽城内を警護する武官)の董寵が、獄死した。

冬、済南郡で賊がたち、東平陵県を攻めた。鬱林郡の烏滸の民が、連れ立って後漢王朝に帰服した。
『広州記』によれば、烏滸は南方の夷である。その習俗は、人肉を食らい、鼻で水を飲む。鼻から口に水を流し、そのまま飲み込む。
人肉を食べるのは、このときの後漢人も同じだろう。この年の正月に、人肉を相い食んだばかりじゃないか!
野蛮を強調したくて、鼻から水を飲むと書いたが、ちょっとした隠し芸の領域を出ていない。筆者の目論見ちがいだ。


170年は、さっそくスカスカでした。唯一のニュースと言えば、この年に郭嘉が生まれたとかかな。
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
党錮と黄巾の間(霊帝紀を口語訳)
1)罪人名簿のハコ
2)宦官が全官署を征圧
3)模擬店とイヌとロバ
4)黄巾が2王を捕う