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党錮と黄巾の間(霊帝紀) 2)宦官が全官署を征圧
171年
霊帝は元服をして、天下に大赦した。公卿以下にそれぞれ賜物があったが、党人は赦されなかった。
2月、地震があり、海水が溢れて、黄河の水が清んだ。
3月、日蝕があった。大尉・聞人襲を免じ、太僕・李咸(あざなは元卓、汝南郡の人)を大尉とした。公卿から六百石に到るまでに、意見の封書を出させた。伝染病が大流行した。宦官の中謁者に命じて、各地で医薬を配らせた。司徒の許訓を免じて、司空・橋玄を司徒とした。
薬の配達まで、宦官がやることになりました。。

4月、太常の来艶(あざなは季徳、南陽郡の人)を司空とした。
5月、河東郡で地が裂け、雹が降って、山津波が暴出した。
7月、司空の来艶を免じた。貴人の宋氏を皇后にした。宋氏は、執金吾・宋鄷の娘で、前年に掖庭(後宮)に入った人である。
前に出てきた三公は、宣鄷です。同名ですね。
司徒の橋玄を免じた。太常・宗倶(伯レイ、南陽郡の人)を司空とした。前の司空・許栩を司徒にした。
冬、鮮卑が并州を寇した。
もう、三公は誰がやってもいいようだ。実権は宦官か。

172年
3月、太傅・胡広が死んだ。
5月、天下に大赦して、熹平と改元した。長楽太僕・侯覧は、罪があって自殺した。
宦官でも罪を受けるのか。。
6月、洛陽で大雨が降った。竇皇太后が死んだ。 7月、竇皇太后を葬った。宦官は、司隷校尉・段熲をだまして、太学の学生1000余人を捕縛した。「天下は大乱なのに、公卿は俸禄を盗んでいる」と、朱雀門に書かれた。
異民族討伐の英雄がだまされたとは、無惨なことです。張奐しかり。

10月、渤海王・劉悝が、謀反だと誣告された。劉理と妻子は、みな自殺した。
11月、会稽郡の許生は「越王」を名乗り、郡県を寇した。楊州刺史の臧旻と、丹陽太守の陳夤は、これを破った。
以前に包囲を破ったこともある陳夤。彼の名の漢字はインと読み、「つつしむ」「居住まいを正す」という意味があります。

12月、司徒の許栩を辞めさせ、大鴻臚の袁隗を司徒にした。鮮卑が并州を寇した。
袁隗は袁紹と袁術のおじです。
この年、甘陵王・劉恢(劉理ともされる)が死んだ。
173年
正月、疫病が大流行した。使者に医薬を配らせた。司空の宗倶が死んだ。
伝染病で死んだか。
2月、天下に大赦した。光禄勲(宮殿の門の宿営を司る)の楊賜を司空とした。
3月、大尉・李咸を免じた。

5月、司隷校尉・段熲を大尉とした。沛国相・師遷は、国王(劉寵)のありもしない罪を言いふらしたために、獄死した。このときの沛国相は魏インのはずで、師遷の官位が間違っていると、注は指摘する。
6月、北海郡で地震があった。東莱郡と北海郡で、海水が溢れた。
津波だ!
7月、司空の楊賜を罷免し、太常で頴川出身の唐珍を司空とした。
12月、日南郡(ベトナム)の塞外の国から、何度も通訳を重ねて朝貢があった。大尉の段熲を免じた。鮮卑が、幽州と并州を寇した。末日、日蝕があった。

174年
正月、夫余国が朝貢した。
2月、天下に大赦した。太常の陳耽(あざなは漢公、東海郡の人)を大尉とした。
えらく不遜なあざなだ!
3月、中山王・劉暢(光武帝の玄孫)が死んだ。王位に34年ついており、子の劉稚が継いだが、しばらくして国を除かれた。
6月、河間王の劉利(劉開の曾孫)の子で、劉康を封じて「済南王」とした。彼に霊帝の父(仁皇)を祭らせた。
秋、洛水が溢れた。
桓帝が、近親を王にして親を祭らせたときは、直後に吉兆がありました。霊帝のときは、そうではなかった。
10月、天下の牢人のうち、まだ有罪の決裁が降りていない人は、絹を払って保釈された。
11月、楊州刺史の臧旻は、丹陽太守の陳夤を率いて、大いに許生を会稽郡で破って、斬った。任城王・劉博(劉開の子)が死んだ。
12月、鮮卑は北地郡を寇した。北地太守・夏育は追撃して、鮮卑を破った。鮮卑はまた并州を寇した。司空の唐珍が罷め、永楽少府・許訓を司空とした。

175年
3月、儒者たちに命じて、五経の文字を検討させ、石にに刻んで太学の門外に立てた。熹平石経である。『詩経』『書経』『易経』『儀礼』『春秋』『公羊伝』『論語』の7種である。
数が、五経じゃないじゃん!
河間王・劉建(桓帝の弟)の子、劉佗を封じて、任城王とした。
4月、7つの郡国で大水があった。
5月、天下に大赦した。延陵(前漢の成帝の墓)の園で災いがあった。使者に節を持たせて、報告のための祭祀を行った。鮮卑が、幽州に侵入した。
いま気づいたけど、桓帝のときに頻発した出火騒ぎは、鎮まったね。政治への不満を訴える手段として、放火は必ずしも一般的じゃなく、特定の人たちが連続してやったという仮説が立ちます。彼らが死んだか解散したかしたから、出火は収まったのか。
もしくは桓帝のときは乾燥して日照が多く、霊帝のときには湿潤で大水が多いこととリンクするか。


6月、弘農郡と三輔(長安周辺の行政区)で、ズイムシが発生した。稲の茎の芯を食べる害虫である。守宮令(桓帝が設置、宦官、天子の文房具を司る)を、塩池監(地名)に遣わし、用水路を開鑿して、民を利してやった。郡国で災いを受けた人は、田租を50%減とした。田の被害が40%以上ならば、徴税はしなかった。

10月、罪が未確定のまま拘置されている人は、絹を支払って保釈された。沖帝の母の虞氏(順帝の美人)を格上げして、憲園貴人とした。憲園とは洛陽の東北で、陵墓の位置である。質帝の母の陳氏(渤海王・劉鴻の夫人)を格上げして、渤海王妃とした。
平準(帝室付きの機関で、平準令の秩は六百石)を改めて、中準に格上げした。中準令を宦官に任せた。このときより、禁中のあらゆる官署には、宦官を令(長官)、丞(次官)として据えた。
なぜこのタイミングで、夭折した皇帝の周囲を、待遇改善したのだろうか。宦官を格上げをカムフラージュするために、益にも害にもならない故人を、引っ張り出してきたに違いない。沖帝・質帝は、子孫がいないし。

176年
4月、天下に大赦した。
益州郡で夷が叛いたから、太守の李ギョウが平定した。
「崇高山」を、「嵩高山」の呼び名に戻した。名前を変えたのは前漢ノ武帝だったが、辞めさせた。理由は、雨乞いを成功させるためである。
正直どっちでもいいのに、武帝の業績を無にするとは。霊帝は皇帝だが、これは大逆罪みたいなものじゃないか。
大いに雨乞いした。
侍御史に命じて、詔獄(天子の命令で捕まった人を収容)や亭部(受刑者を閉じ込める)を周らせた。無罪でないか確かめ、軽微な犯罪を許し、受刑者を休ませた。

5月、大尉の陳耽を罷め、司空の許訓を大尉にした。
閏月、永昌太守の曹鸞は、
「党人は無実だ」
と訴えた。そのために、公開処刑された。詔して、党人の門生(弟子)故吏(元部下)、父兄と子弟で位にある人を、みな免官して禁固した。
よけいヒドくなった。。
6月、太常の劉逸(あざなは大ケイ、南陽郡の人)を司空にした。
7月、大尉の許訓を罷め、光禄勲の劉寛(列伝15)を大尉にした。
10月、御殿の後ろにある槐樹が独りでに抜けて、逆さまに生えていた。司徒の袁隗を罷めた。
槐樹とはエンジュで、マメ科の落葉高木。20メートルにもなる。どうやって逆立ちするのか不明だが、袁隗の名前に通じるから、『後漢書』の編者が面白がって書いたのだと思う!

11月、光禄大夫の楊賜を司徒にした。
12月、甘陵王・劉定が死んだ。太学生で60歳以上の100余人を試験した。郎中や太子舎人(皇太子に近侍、二百石)をはじめ、王家の郎や郡国の文学の吏(教師)などに任命した。
この年、鮮卑が幽州を寇した。沛国から、「譙に黄龍が出た!」と報告があった。

やはり時代はスカスカだ。宦官が牛耳り、鮮卑が寇し、三公が交代するばかり。霊帝の三公になっても、何の名誉もないね!
桓帝は救済に熱心だったし、政策は具体的だった。賢良方正を招くのも(効果は別にして)頑張った。年が明けると桓帝は、手の込んだ詔書を出すから、口語訳も面白かった。しかし霊帝は物臭だ。
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
党錮と黄巾の間(霊帝紀を口語訳)
1)罪人名簿のハコ
2)宦官が全官署を征圧
3)模擬店とイヌとロバ
4)黄巾が2王を捕う